1.すべては空しいと語るコヘレト
・今日から2か月にわたってコヘレト書を読んでいきます。コヘレト書はソロモン作とされますが(1:1「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」)、実際は紀元前2-3世紀ごろに書かれた知恵文学の一つです。マケドニア王アレキサンダーがギリシア帝国を樹立し、地中海世界はヘレニズム文明に支配され、各地で急速なヘレニズム化(ギリシア化)が始まります。イスラエルにおいても、伝統的な神信仰が崩され、当然と考えられていた応報思想(「正義は栄え、悪は滅びる」等)や、神への信頼(「神は苦難の時に助けて下さる」等)に対して、否定的な思想が生まれていきます。その中で書かれたのが「神は本当に正義の神であるのか」を問うヨブ記であり、「神の為されることはわからない」と明言するコヘレト書です。彼らは、これまでの正統的な価値観が崩壊する中で、もがき苦しんだ人々です。コヘレトは、「人間の営みはすべて無意味である」と公言し、来世も信じていません。このようなテキストが聖書正典として受け入れられてきたことは、聖書の懐の深さを示しています。
・「コヘレト」とはヘブル語では「集会をつかさどる者」、そこから教師、伝道者を意味するようになりました。通常は「知恵の教師コヘレトの書」とされます。コヘレト書を貫く中心の言葉は、「へベル=空」で、全12章の短い文章の中に38回も用いられています。コヘレトは冒頭から語ります「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」(1:2)。この空しさが「へベル」です。何が空しいのか、コヘレトは言葉を続けます「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地(のみ)」(1:3-4)。人は生き、死んで、世代が変って行っても、大地は残ります。たとえ私が死んでも朝になれば日は昇り、たとえ私が死んでも他の人々は同じ生活を続けます。その中で、「私の一生とは何なのか」、「私の生きている意味とは何なのか」を追求していっても、答えは見当たりません。その時、出てくる言葉が「空しい」です。
・コヘレトは語ります「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる」(1:3-7)。人は生まれ、この世で労苦しますが、天地は人とは関係なくその運動を続けます。そして人が労苦した結果の富や地位も来世には持っていけず、しばらくすればその人が生きた痕跡もなくなります。古代イスラエルの平均寿命は35歳とみなされています。人間の生は「あまりにも短すぎるではないか」とコヘレトは嘆きます。
・伝統的信仰の継承者である箴言は語りました「主を畏れれば長寿を得る。主に逆らう者の人生は短い」(箴言10:27)。箴言によれば、義人は祝福を受け、悪人は災いを受けるとします。しかしコヘレトは、「違うのではないか」と異議申し立てを行います。彼は語ります「賢者も愚者も・・・やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか」(2:16)。だから「何もかも、もの憂い」(1:8)。「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレト1:9)。
・「太陽の下、新しいものは何ひとつない」、歴史は繰り返しであり、過去のことを誰も気にせず、将来についての夢もないと彼はうそぶきます。日本でもかつての高度成長期には人々は「豊かになる」という夢を見ました。しかし1990年代にバブルがはじけ、ゼロ成長時代に入ると若者は夢を見なくなりました。将来を夢見ても失望するだけとして、希望を持てない現代人はコヘレトに共感します。彼は建前ではなく、本音を語っているからです。彼は語ります「見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも、その後の世にはだれも心に留めはしまい」(1:10-11)。将来が見えず、生きがいが見出せない時、人はどうしたらよいのでしょうか。
- 智恵が深まれば悩みも深まる
・知者は人間を観察し、良い人生、成功した人生を送るにはどうしたら良いかを探求します。その結果、箴言等の処世訓が生まれました。しかし次世代のコヘレトは、「人生に意味を求めるのは無益な作業だ、わからないのだから」と突き放します。「私コヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた・・・私は太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」(1:12-14)。彼はソロモン王の言葉を借りて所感を述べます。「曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない」(1:15)。人生には私たちには支配できない多くの事柄、変えられない事柄があります。コヘレトは語ります「私は心にこう言ってみた。『見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、私は知恵を深め、大いなるものとなった』と。私の心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った」(1:16-17)。そして語ります「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」(1:18)。
・コヘレトは中盤の4章で語ります「私は改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」(4:1-3)。「生まれてこない方が良かった」とコヘレトは語りますが、彼はニヒリストではありません。世の中の不条理に腹を立てているのです
・コヘレトは「生きている間に人は何ができるのか」を追求します。そして「死ねばすべてが終わりだ」と彼は考え、「空しい」と嘆きます。彼は復活を知りません。だから彼の嘆きには救いがありません。しかし、私たちはキリストに出会い、死がすべての終わりではなく、死を超えた命が在ることを知らされました。その時、私たちの中から希望が湧いてきます。かつて内村鑑三は「後世への最大遺物」という講演で語りました「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない。では何をこの世に残していこうか」。キリストに出会った者は、「最大遺物を残したい」という気持ちを持って、生きるのです。
3.私たちは永遠の命を信じる
・今日の招詞に第二コリント5:17を選びました。次のような言葉です「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。パウロを伝道者にしたものは、復活のイエスとの顕現体験です。パウロはかつてユダヤ教のラビ(教師)であり、律法を守らないキリスト者を迫害するために、ダマスコまで行き、そこで復活のイエスに出会い、変えられました(ガラテヤ1:13-17)。彼はその出会いをコリント書で報告します「(キリストは)三日目に復活し・・・ケファに現れ、その後十二人に現れ・・・五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました・・・そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(1コリント15:4-8)。キリストとの出会いの体験をした者は、もはや「人生は空しい」とは言いません。自分が「神に生かされている」、「神から使命を与えられている」ことを知るからです。
・コヘレトは語りました「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」。しかし、信仰者はそう思いません。「求めれば与えられる」ことを信じるからです。イエスは言われました「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(ルカ9:10)。求めて与えられた経験を積むことによって、信仰者は不条理の中で生きる知恵と力を与えられます。その知恵の一つがラインホルド・ニーバーの「平静を求める祈り」です。彼は祈ります「神よ、変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの平静さを与えたまえ。 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。彼は続けます「一日一日を生き、この時をつねに喜びをもって受け入れ、困難は平穏への道として受け入れさせてください。これまでの私の考え方を捨て、イエス・キリストがされたように、この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています」。
・コヘレトの最大の不幸は、キリストと出会うことがなかったことです。ルターは語ります「確かに人間を見る限り、日の下に何も新しいものはない。だが、新しい事がいつも神の側から起こってきている」(W.リュティ『伝道者ソロモン』より)。世の中には不条理な出来事がたくさんあります。イエスが十字架で殺されたことは不条理の極致です。イエスは十字架上で苦しんで、「わが神、わが神、どうして」と叫びながら死んでいかれました。多くの人がこの体験をします。先の3.11大震災では無念の内に2万人の人が亡くなりました。原爆で殺されていった人たちも、「わが神、わが神、どうして」と問いながら死んでいきました。神学者ユルゲン・モルトマンも不条理に苦しんだ一人です。彼は1926年ハンブルクに生まれ、18歳で軍隊に招集され、各地を転戦し、19歳の時に戦争捕虜となり、祖国の敗戦を捕虜収容所で迎えます。故郷は戦争で廃墟となり、同級生の多くは死んで行きました。彼は収容所の中で自問自答します「なぜ私は生きているのか」、「なぜ私は他の人と同じように死ななかったのか」、「神よ、あなたはどこにいるのか」。その彼がアメリカ軍のチャプレンから一冊の聖書を贈られ、読み始めた時に、マルコ15章の言葉「わが神、わが神、何故私を見捨てられたのですか」に大きな衝撃を受けます。
・説教集「無力の力強さ」の中で彼は述べます「イエスはなぜ『わが神、どうして、どうして』と叫びながら死んでいかれたのか。なぜ神はイエスを見捨てたのか・・・唯一つの満足いく答えは『復活』である。神は言われる『私はあなたを見捨てなかった、かえって大いなる憐れみをもって、私はあなたを集めようとしている』」。彼は続けます「私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたキリストこそ、私たちの真の希望となりうる。私たちを圧する絶望はこの御方と交わることによって、再び自由に開かれて希望となるのである」。神を信じる者だけが、神の不在(この世の不条理)に耐えることができます。コヘレトもキリストとの出会いがあれば、空しいとは言わなかったと思います。