1.約束の継続としての出エジプト
・出エジプト記を読んでいます。出エジプト記は創世記から続く物語です。ヤコブの子孫たちがエジプトに入り、400年の時が過ぎました。その間、神はイスラエルに何も語られませんでした。彼らが順調に民族として成長し、介入する必要がなかったからです。しかし、状況は変わります。イスラエル人の数があまりにも増え始めたため、エジプト王は脅威を抱くようになり、彼らを抹殺しようとします。エジプト人はイスラエル人を全て奴隷として、重労働に従事させます。また、これ以上人口が増えないように、「ヘブライ人の男児は全て殺せ」との命令が出されました。イスラエルは苦しみ、うめき、叫び始め、その叫びが神に届きました。「イスラエルの人々は労働の故にうめき、叫んだ。労働の故に助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」(3:23-25)。
・神はイスラエルを救済するために、モーセを立てます。モーセと兄アロンはエジプト王の前に行き、「イスラエル人を解放せよ」と求めましたが、王は要求を一蹴します「主と何者なのか」(5:2)。エジプト王はイスラエル奴隷たちの要求を体制に対する反逆として怒り、抑圧を強化し、苦役を増すように命じました。イスラエル人の仕事はれんがを作ることでした。れんがは泥に砂とわらを混ぜ、日に干して作ります。これまで、わらはエジプトから供給されていましたが、エジプト王は罰として、わらの供給を止めます。これからはイスラエル人が自分たちでわらを集めなければいけない、労苦が大幅に増し加わりました。この結果を見て、イスラエルの指導者たちは、「モーセが王に不当な要求をしたため、苦しみが増した」と告発します。「あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」(5:21)。
・エジプトに派遣されたモーセは、エジプト王に要求を拒否され、そのことによって民の信頼も失い、神に苦情を申し立てます。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。私を遣わされたのは、一体なぜですか。私があなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」(5:22-23)。
2.約束の確認
・そのモーセに対し、神は再度、救いの約束を確認されます。それが今日のテキストエジプト記6章の記事です。主はモーセに言われます「今や、あなたは、私がファラオにすることを見るであろう。私の強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。私の強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」(6:1)。神は言われます「私は主である。私はエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、私はあなたたちを私の民とし、私はあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、私があなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る」(6:6-7)。しかし、状況は神の約束通りには進行しません。民はモーセの言葉を聞こうとはしません。「彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」(6:9)。
・彼らは反論します「あなたが王に余計な介入をしたため、労役は厳しくなったではないか」、人は目先の利害しか見ようとしません。神の介入が日々の生活を苦しくしたと彼らは文句を言いました。民の不従順を見て、モーセの信仰もまた揺らぎ、モーセは主に訴えます「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえ私に聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のない私の言うことを聞くでしょうか」(6:12)。それでも主は語り続けよとモーセに命じます「私は主である。私があなたに語ることをすべて、エジプトの王ファラオに語りなさい」(6:19)。
3.災いの中で
・「私の強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる」、そのためには長い時間と多くの出来事が必要でした。「主の強い手が働く」、神がモーセとアロンを通してエジプトに数々の災いを下されたことが、出エジプト記7-11章にかけて語られています。十の災いとして有名な個所です。最初はナイル川の水が血に代わり、魚が死に、水が飲めなくなりました。続いて、カエル、ブヨ、アブといった害を与える生き物がエジプトを襲います。疫病で家畜が死に、人と家畜が腫れものに悩まされます。雹を降らせて人や家畜を傷つけて作物を枯らし、その被害を免れた作物までも、イナゴの大群に襲わせ根絶やしにします。さらに、エジプト全土を3日間暗闇にしましたが、ファラオの心は変わりません。
・繰り返し起こされた災いを見た時、いずれの災いもエジプトの気候風土に関連したものであることがわかります。「ナイル川の水が血に変わる」、上流から流れてきた泥土が赤ナイルと呼ばれるほど川の色を変え、魚類の死を来たらせました。そのナイルの大氾濫が全土に蛙の卵を運び、9月頃に蛙が異常繁殖したのでしょう。やがて蛙が死に、大量の死体が腐敗し、異常なブヨやアブの発生をもたらし、ブヨやアブの大量発生が疫病をもたらしました。6番目の災いは腫れ物の災いですが、ナイル川の水が減ってくると衛生状態が悪化し、皮膚病が起こりやすくなります。次に神は全地の家畜を雹で撃たれ、さらにいなごのが大量繁殖し、穀物を食い荒らします。9番目に与えられた災いは闇の災いでした。東風がいなごを来たらせ、西風がいなごを吹き払いました。砂漠から吹く西風は砂嵐をもたらし、3日の間、漆黒の闇がエジプトを覆いました。神は自然を通じてその御業を行われ、エジプト人はそれらを自然現象に過ぎないとして神の存在を否定し、イスラエル人はそこに自然現象を超えた神の御業を認めていき、それが出エジプト記7章から11章までの記述に現されています。
・最後に、究極の災いがエジプトに与えられます。それは、エジプト人や家畜のすべての長子を死に至らしめるというものでした。「過越し」です。今日の招詞として出エジプト記12:23を選びました。「主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである」。主はまずイスラエル人にやがて来る災害に準備をするように命じられます「家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない」(12:21-22)。主の過越が始まります「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった」(12:29-30)。
・何が起こったのでしょうか。詩編78編が解釈のヒントを与えます。「神は燃える怒りと憤りを、激しい怒りと苦しみを、災いの使いとして彼らの中に送られた。神は御怒りを現す道を備え、彼らの魂を死に渡して惜しまず、彼らの命を疫病に渡し、エジプトのすべての初子を、ハムの天幕において、力の最初の実りを打たれた」(詩編78:49-51)。疫病が発生し、それが体力のない幼い子供たちの命を次々に奪っていったのかもしれません。仮に過越しの出来事が疫病によって起こったとするならば、それは新型コロナウィルスの感染拡大に悩まされている現在の私たちの物語になります。
・14世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパ全土を繰り返し襲った黒死病(ペスト)は、ヨーロッパの全人口の4分の1から3分の1を死に至らしめ、1527年の夏、マルティン・ルターがいたヴィッテンベルクをも襲いました。時のザクセン選帝侯はルターたちに避難を命じますが、ルターはこれを拒否して、町の病人や教会員たちを看護するために残ります。その時、ルターが牧師たちの要請に応えて書いたものが「死の災禍から逃れるべきか」という書簡です。ルターはまず牧師たち聖職者に対して、「命の危険にさらされている時こそ、聖職者たちは安易に持ち場を離れるべきではない」と戒めます。説教者や牧師など、霊的な奉仕に関わる人々は、死の危険にあっても堅く留まらねばならない。私たちには、キリストからの明白な御命令があるからだと語ります。「良い羊飼いは羊のために命を捨てるが、雇い人は狼が来るのを見ると逃げる」(ヨハネ10:11)。人々が死んで行く時に最も必要とするのは、御言葉と礼典によって強め慰め、信仰によって死に打ち勝たせる霊的奉仕だからである」。
・他方において、ルターは、死の危険や災禍に対して拙速かつ向う見ずな危険を冒すことの過ちについても述べています。「私はまず神がお守りくださるようにと祈る。そうして後、私は消毒をし、空気を入れ替え、薬を用意し、それを用いる。行く必要のない場所や人を避けて、自ら感染したり他者に移したりしないようにする。私の不注意で、彼らの死を招かないためである・・・しかし、もし隣人が私を必要とするならば、私はどの場所も人も避けることなく、喜んで赴く」。イスラエルは過越しのために事前準備し、無事でしたが、何の準備もなかったエジプト人たちは疫病により、多くの子供たちの命を失いました。そしてこのことが契機となり、エジプト人はイスラエルの民の解放を行います。そう考える時、現代のコロナウィルスの感染蔓延は、社会の在り方を変える「現代の過越し」ではないかと思います。この感染蔓延の中で苦しんでいる人々へ何ができるかを、教会は真剣に考えるべき時であります。