1.良い羊飼いは羊のために命を捨てる
・ヨハネ10章「羊と羊飼い」の記事は、「羊のために命を捨てるイエスと、羊である私たち」との深いつながりが示されています。ヨハネ10章には「命を捨てる」という言葉が繰り返されています。牧草や水を求めて山野を歩く羊飼いに危険はつきものです。狼はいつ襲ってくるかわかりませんし、強盗に遭遇する危険もあります。羊飼いは無力な羊のために身体を張って戦う覚悟をしなければなりません。イエスは当時の日常生活に例えをとりながら、自分がどのようにして死んでいくのかの決意をここに語られています。
・イエスは「私は良い羊飼いだ」と言われました。そして、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11)と言われます。群れのために命を捨てる羊飼いこそ、良い羊飼いだと語られています。この羊飼いの喩えはユダヤ人、直接的には祭司やファリサイ派の人々に対して語られています。「イエスは、この喩えをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」(10:6)。羊飼いの話は9章から続いている文脈の中で語られています。イエスは生まれつきの盲人の目を開けられましたが、その日は安息日でした。その場にいたファリサイ派の人々は、「盲人の目が開けられた」ことを喜ぶことをせず、イエスが「安息日に癒しをされた」ことを問題にします。安息日戒律の違反として、イエスを責めたのです。イエスは反論されます「あなたは何故、一人の人の目を神が開けて下さった、その良い業を喜ばないのか。あなたがたが思うのは自分のことばかりで、託された羊のことではない。良い羊飼いであれば羊の病からの回復を喜ぶのではないか」。あなたは「良い羊飼いではない」として、イエスは羊飼いの喩えを話されます。
・ヨハネ10章には二種類の羊飼いが出てきます。最初は「雇い人の羊飼い」です。雇い人は報酬のために働きます。彼の関心は報酬であり、羊ではありませんから、狼=困難な情況が来ると逃げてしまいます(10:12-13)。次にイエスが言われたのは「良い羊飼い」です。良い羊飼いは自分の羊のことを知り、羊もまた羊飼いを慕います(10:15)。パレスチナの羊飼いは一匹一匹に名前を付け、それぞれの特徴や性格を熟知しています。羊は彼の声をよく知っているので彼についていきます。良い羊飼いは、迷う羊があれば何処までも探しに行きます。そして彼は「羊のために命を捨て」ます(10:15)。荒野では獣が羊を狙い、襲ってきます。羊飼いは杖で獣と戦い、羊を守り、場合によってはそのために命を落とします。良い羊飼いの最大の関心は自分ではなく羊ですから、羊のために命を捨てても悔いません。そしてイエスは実際に、羊の群れである私たちのために十字架で命を捨てられました。
2.羊のために命を捨てることの出来ない私たち
・イエスは群れのために命を捨てられました。そして、ヨハネは私たちもイエスに従おうではないかと語ります。「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」(第一ヨハネ3:16)。私たちは弱さの故に、他者のために命=自分を捨てることが出来ません。ヨハネ福音書が書かれた紀元90年ごろ、ヨハネの教会はユダヤ人社会から“異端”として迫害されていました。キリスト者であることがわかれば会堂から追放され(9:22)、社会から締め出され、殉教の危険さえあった。そのため多くの信徒が教会から離れていき、その中には教会の指導者たちもいました。ヨハネは「良い羊飼い」としてのイエスの説話を紹介しながら、教会の信徒たちに、「たとえ指導者が脱落することがあっても、それは彼が雇い人の牧者であるからであって、真の牧者キリストは私たちと共にいてくださり、私たちのために命を再び捨ててくださる方だ」と述べているのです。
・ヨハネはイエスの言葉を用いて、教会の人々を励まします。「私は命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる。だれも私から命を奪い取ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、私が父から受けた掟である」(10:17-18)。例えあなた方が迫害のために死んだとしてもそれは無駄な死ではない。イエスが死からよみがえられたように、あなた方もまた死からよみがえることが出来る。だから迫害を恐れるなとヨハネは述べています。
・イエスの時代でも今日でも、人間社会は危険に満ちています。隙があれば弱い人々を自己の欲望の餌食にしようとする“狼の論理”が社会を支配しています。「役立つ限り他人を利用し、用が無くなったら捨ててしまう」のが人間社会の常です。そのため多くの人々の人生が痛めつけられ、多くの人々が泣いています。イエスの生き方はそれとは全く逆の生きかたでした。弟子たちが「誰が一番偉いか」を議論していた時、イエスは言われました「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:42-44)。
・仕えるとは自分の権利を放棄し、相手の喜びと充実のために尽くすことです。多くの人々がイエスの生き方に共感し、イエスの後に従おうと願ってきました。しかし、出来ませんでした。ペテロでさえ、「お前もイエスの仲間だ」と問い詰められればイエスを否認しますし、ヨハネの教会の指導者たちも迫害が臨むと教会から脱落していきます。この弱さの中にある人間はどのように、「羊飼いと羊のたとえ」の話を聞いたらよいのでしょうか。
3.弱い私たちが良い羊飼いに変えられる
・今日の招詞に、ヨハネ20:22-23を選びました。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。復活のイエスが弟子たちに与えられた言葉です。弟子たちはイエスを裏切り、逃げましたが、復活のイエスは逃げた弟子たちを一言も非難せず、赦し、彼らに「私の羊を飼いなさい」と業を委託されます。この赦しと委託を受けて、弟子たちは伝道を始め、教会を立てていきました。牧師は英語で“パスター”と言いますが、「羊を養い育てる者」の意味です。その意味では羊飼いは牧師です。しかし牧師だけにその任が委ねられていると考える時、牧師の言動に注目が集まり、「あの牧師は十分なケアをしてくれない」、「あの牧師は羊飼いとしてふさわしくない」等の評論家的言動が増え、教会が内向きになりがちです。これはイエスが望んでおられることではありません。
・招詞の言葉に明らかなように、イエスは弟子たちに、教会に、羊を養うことを委託されています。牧師だけでなく、私たち一人一人が羊飼いに、牧者にされる必要があります。教会とは自分の救いを求めてきた人たちが、他者の救いのために祈る者に変えられて行く場所なのです。そしてイエスは言われました「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(10:16)。
・イエスは弟子たちだけでなく、「この囲いに入っていないほかの羊」、イエスの言葉を聞こうとしない人々も「ご自分の羊」だとの認識を持っておられたことを示します。私たちがこの言葉を自分の生活の場で聞いた時、それは私たちが教会の群れの外にいる人たちへの伝道責任を与えられていることを示します。教会は福音を伝える伝道の責任を持ち、その伝道とは私たち一人一人が、福音のメッセンジャーとなり、「羊のために命を捨てる」生き方を示すことによって為されます。
・イエスは偽りの羊飼いを「盗人」、「強盗」と言われますが、具体的にはエルサレム神殿の祭司の在り方を批判されたものと思われます。当時のエルサレム神殿は壮大な伽藍や建物を持ち、数千人の祭司たちが働いていました。建物の維持費や人件費は膨大になり、そのために神殿内で犠牲の動物の売買や両替等の商いが公然と行われ、神殿の収益源になっていました。そのことに憤りを覚えられたイエスは宮清めをされます「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた『このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない』」(2:15-16)。祭司たちは「羊を養わず、自分を養っていた」(エゼキエル34:8)。
・同じ状況が今日の教会にもあります。多くの教会は建物の維持管理費や牧師給の支払いのために財源を増やす必要があり、伝道が信徒を増やすための勢力拡張の手段になっています。無教会の内村鑑三は語ります「生ける信仰が硬化する時に教会になる。教会は信仰の化石である」。教会が組織である以上、その維持のためにお金がかかるのは当然ですが、財源を増やすために伝道しようとする時、教会の本質が失われてしまいます。伝道とは何かを改めて考えさせる事柄です。教会は、「囲いに入っていないほかの羊もいる」(ヨハネ10:16)という言葉を宣教命令として受け、「この町には私の民が大勢いる」(使徒18:10)という言葉に励まされて、伝道します。その伝道とは私たち一人一人が、「羊のために命を捨てる」生き方を示すことによって為されます。
・「よい羊飼いは羊のために命を棄てる」、羊飼いを牧師に読み替えた時、「良い牧師は教会のために生涯を捧げる」という意味になります。自己の栄達や生活のために牧師職を務めるのではなく、何が教会にとって最善かを考えて牧会する役割です。今般、連盟からの通知によれば、福岡・平尾教会牧師の平良憲誠先生がこの3月に平尾教会を辞任され、福井教会に赴任されるとのことです。赴任される福井教会は前任牧師辞任後、長い間無牧で、現在は2~3名の方で主日礼拝を守っておられ、経常収入は50万円の貧しい教会です。他方現在おられる平尾教会は現在会員148名の裕福な教会です。その安定した地位を捨て、無牧教会に赴任される平良先生の姿勢に、「この囲いの卒にいる羊にも責任を持つ」というイエスの言葉に従う一人の牧者の姿を見ました。連盟からも福井教会への支援要請が来ています。私たちの教会も福井教会の支援の輪に加われればと願います。私も70歳になり、篠崎教会も新しい牧師招聘を検討する時になっています。残された期間に何をしたらよいのか、共に祈って、考えていきたいと願います。