江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年12月13日説教(マタイ1:18-24、イエスの父ヨセフの苦悩と決断)

投稿日:2020年12月12日 更新日:

 

1.ヨセフを通してのイエス生誕物語

 

・私たちはクリスマスを待つ待降節の中にいます。クリスマスの物語はマタイ福音書とルカ福音書にありますが、ルカは母マリアの立場に立って、イエス・キリストの降誕物語を記述します。他方、今日読みますマタイ福音書は父ヨセフの立場から物語を描きます。マタイは書きます「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(1:18)。

・「聖霊により身ごもる」、マタイは、普通の人には理解できない言葉を何の説明もなしに述べています。人は通常は結婚している父と母から生まれます。その場合、妻の妊娠、子の誕生は祝福です。しかしそうでない場合は、子の誕生が大きな波紋を招きます。ヨセフはマリアの許嫁でしたが、まだ婚約中で、一緒に住んでいるわけではありません。その許嫁が身ごもった、ヨセフは身に覚えはありませんので、マリアが不義の罪を犯したと考えざるを得ません。そのため、ヨセフはマリアとの婚約を解消しようとしました。「 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(1:19)。この短い言葉の中にヨセフの苦悩が凝縮されています。

・これから結婚しようという女性が自分以外の人の子を宿している、ヨセフはこの事実を知って、怒り、悲しみ、苦しんだと思われます。そして、「ひそかに縁を切ろうと決心した」。眠られぬ日が続く中でヨセフは夢を見ます。その夢の中で神の使いが現れ、ヨセフに「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿った」(1:20)と述べます。ヨセフはそれでも煩悶します。そのヨセフに天使は語り続けます「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(1:21)。

・イエス誕生の次第は多くの人々に困惑を与えてきました。マタイ福音書はその冒頭にアブラハムから始まってイエスに至るまでの42代の系図を掲げ、イエスについて語ります「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(1:18)。ヨセフは父であるが子のイエスとは血のつながりがないことをマタイは明記しています。ルカ福音書も同様に、「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ3:23)と書きます。マルコ福音書ではイエスがナザレ村で「マリアの息子」(マルコ6:3)と呼ばれていたと報告しています。今日でいえば「シングル・マザーの子」、世間的に見れば「婚姻外妊娠の子」となります。しかし福音書記者マタイは、これを「聖霊によって生まれた」と記述します。

 

2.ヨセフの苦悩と決断

 

・ヨセフは「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」との神の言葉を与えられ、マリアを妻に迎えました。ヨセフはなぜ人間の理解を超える出来事を受け入れることが出来たのでしょうか。ヨセフは「許嫁が自分の関与しないところで妊娠した」という事実を目の前に突き付けられ、苦悩し、「神様、何故ですか」と何度も訴えたと思われます。そのヨセフの度重なる訴えに応えて、神の使いがヨセフに現れ、「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と示されたのです。それを現代の言葉に直せば、神はヨセフに、「マリアの生む子をお前の子として受け入れてほしい」と言われたのです。

・これまでヨセフは自分のことしか考えていませんでした。しかしマリアの立場に立てば、もしヨセフが受入れなければ、マリアと幼子は悲惨さの中に、生存さえ危ぶまれる事態に放り込まれることでしょう。当時も今日も女性が自立して生きていける社会ではなかったからです。そのことを知ったヨセフは神の啓示を受け入れます。ヨセフは苦悩のただ中で神と出会い、神の言葉を受け入れ、その結果マリアと幼子の命が救われました。現代日本では、10代の妊娠の60%は人工妊娠中絶されるそうです。多くの場合、男性側が受け入れる用意がないからです。マリアとヨセフの苦悩は現代でも繰り返され、その多くが胎児を犠牲にする方法で対処されています。

・それに対しマタイは、「神に働きかけられた人の信仰により、悲惨な事柄も祝福の出来事になる」ことを伝えています。ルカ1章後半に「マリアの賛歌」があり、彼女は歌います。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」(ルカ1:47-48)。婚約者ヨセフが受入れてくれた喜びをマリアはここに歌っています。クリスマスの出来事は、深い悩みの中で、ヨセフとマリアという二人の信仰者が、神に出会い、決断して起こったのです。

・「聖霊によって生まれた」、教会は伝統的に、イエスは奇跡的に(処女降誕により)生まれたとしてきましたが、著名な注解者であるE・シュバイツアーはNTD注解の中で語ります「処女降誕は可能かという問いは、現代的な問いである。当時の人間にとっては、それは決して不案内な観念ではなかった。われわれはそれ故、このような奇跡を可能と考えるか否かという点で信仰をはかることは決してすべきではないであろう。処女降誕が新約聖書において極めて小さい役割しか果たしていないだけに、なおさらである。この生誕物語は、救いをもたらすために神が独自に介入されたことを語る。もしわれわれがその点を認めることが出来れば、われわれは処女降誕の物語が述べようとしていることを、そのまま述べることになる」。マタイが書くのは処女降誕物語ではなく、イエスが神の介入により生まれたというメッセージです。

 

3.苦悩の中から喜びが

 

・今日の招詞にイザヤ7:14を選びました。マタイがイエス生誕時に引用したイザヤの預言です。「それゆえ、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。紀元前735年、シリアと北イスラエルはユダに侵略し、エルサレムを包囲し、「ユダの王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺して」いました(イザヤ7:2)。戦争の危機の中で、イザヤは、「神に信頼して鎮まりなさい。神が共におられるから、この戦争でユダが滅ぶことはない」。そして「しるしとして、敵に包囲されているそのただ中で、おとめが身ごもって、男の子を産むという平和な未来が来る」ことを告知したのです。この「おとめ」にはヘブル語「アルマー」が用いられています。それは必ずしも処女を意味する言葉ではなく、「若い女性」という意味です。イザヤはここで「ダビデ王家に世を救う王が生まれ、それこそ神が共におられることのしるしである」と預言しました。しかし、アハズ王は「神に信頼する」ことが出来ず、自分の力で危機を打開しようとし、アッシリアに援軍を求め、アッシリアはパレスチナに侵攻して、シリアと北イスラエルを滅ぼしました。この結果、ユダ王国はその後、アッシリアの属国として搾取され、体力をなくし、やがてアッシリアの後継バビロンに国を滅ぼされます。

・700年後、パレスチナに生まれたキリスト教会は、イザヤ7章のインマヌエル預言にイエス・キリストの誕生の意味を見出します。「『マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」(1:21)。何故ならば、「主が預言者を通して言われていたことが実現する・・・『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」(マタイ1:22-23)。聖書のクリスマス物語は、イエスが処女マリアより生まれたことを奇跡として語ることではありません。母マリアの知られざる妊娠という過酷な現実を、父ヨセフが神の御心として受け入れ、子の父となることを決意した、その二人の信仰にこそ奇跡があると主張します。ここに描かれるのは「人間が信仰の決断を行うことによって、神の業が為される」ことです。ヨセフはマリアとその子を守っていこうと決意しました。マタイ福音書の描く「父」としてのヨセフは、妻に子を産ませることで自分の血統を伝えるのではなく、神が与えられた子の命をその母と共に保護していく役割です。ヨセフはその役割を受け入れて生きました。

・同志社大学でユダヤ教を研究しておられる勝又悦子先生は語ります「イザヤが発した預言は『インマヌエル=神が私たちと共にいる』という、実にシンプルなフレーズでした・・・私たち自身も、さまざまな悩みや苦しみの中にあるかと思います。しかし、そのような個々人の闘いのなかで、『神が私たちと共にいる』ことを感じることで、心の闇や絶望に立ち向かう力を与えてくれるのではないでしょうか」(2013年10月9日水曜チャペル・アワー)。マタイが語りたかったことは、「イエスの奇跡的な降誕ではなく、イエスがインマヌエルとして生まれられた」ことです。マタイは福音書の終わりに「私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる(インマヌエル)」と書きます。「インマヌエル」であるイエスが生まれ、そして復活者として自分たちと共にいて下さる、これが初代教会の信仰であり、福音の核心なのです。

・私たちがイエスこそメシア・キリストであると信じる根拠は、イエスの処女降誕にではなく、イエスの復活、イエスが今私たちと共に(インマヌエル)おられることにあります。今日、クリスマスがキリスト教の祝賀の実質上の中心となり、イースターをはるかにしのぐものとなっていますが、これは新約聖書が強調することと完全に異なります。英国聖公会の司祭、N.T.ライトは語ります。「聖書からイエスの誕生のストーリーを取り去ったとしても、マタイやルカの福音書からそれぞれ二章を失うだけだ。しかし、復活を取り去るなら、新約聖書全体と、二世紀までの教父たちの教えのほとんどを失うようになる](N.T.ライト「驚くべき希望」P98)。教会のクリスマス・ページェントでは、ルカ福音書が主に用いられ、マタイが読まれることは少ないと思います。理解できにくい系図、聖霊による懐妊、夢の中での啓示、等は子供だけではなく、大人をも困惑させるからでしょう。しかし、この困惑こそ大事ではないかと思います。ヨセフが困惑したように、困惑を通して私たちは神に求め、神は答えてくださいます。マタイによるクリスマス物語を教会はもっともっと語っていく必要があります。「神が共におられるならば、苦しみや悲しみが祝福に変わる」、ヨセフとマリアはそれを体験した。クリスマスはそのことを改めて私たちに示す時です。

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