1.イエスとニコデモとの対話
・クリスマスも終わり、2020年の元旦礼拝を迎えました。今日はヨハネ3章「イエスとニコデモ」がテキストとして与えられました。ニコデモはヨハネ福音書だけに3回登場する、興味深い人物です。物語は2:23から始まっています。ヨハネは記します「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」(2:23-24)。「なさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」、なさったしるし、イエスがさまざまな病の癒しをされたから、人々は信じました。しかしイエスは「奇跡を見て信仰する」人々を信用されませんでした。信じれば病気が治る、信じれば貧しさから解放される、多くの人々がイエスの周りに集まって来ました。奇跡信者は自分の願いが満たされなければ、イエスのもとから去っていきます。そのような時、ニコデモがイエスの所を訪れ、ここからニコデモの新しい人生が始まります。新しい年の初めに、新しい人生の始まりを思うようにと、今日のテキストが与えられました。
・訪問したニコデモはイエスに言います。「ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(3:2)。3章の初めにニコデモの説明があります。「ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった」(3:1)。ファリサイ派に属しますから、聖書に精通し、律法(神の戒め)を厳格に守ってきた教師だったのでしょう。(最高法院)議員であるということは、家柄が良く、また裕福でもあったと思われます。彼は熱心に神の道を求め、社会的にも尊敬され、生活にも何不自由はなかったはずです。その彼が何故イエスのもとに来たのでしょうか。おそらくは、お金があっても、人から尊敬されていても、何かが足りないと考えていたのでしょう。「このままで良いのだろうか」、「自分は何のために生きているのだろうか」。多くの疑問がニコデモの中にありました。
・だから、神の業としか思えない不思議な力を示したイエスのもとを訪れます。しかし、ニコデモがイエスを訪れたのは、夜でした。律法の教師であり議員である者が、ユダヤ教当局から問題視されているイエスを公然と昼間に訪れるわけにはいかなかった。だから、人目を忍んで、夜に訪ねました。イエスはそのようなニコデモの態度を見て、彼の問題がわかり、すぐさま言われます「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」(3:3)。「あなたは現在の地位と財産を持ったままで救われたいと望んでいるが、それは無理だ。「新たに生まれる(ゲンネーセ・アノーセン)」、別の訳では「上から生まれる」です。今持っているものを捨て、神によって生れなければ、神の国を見ることは出来ない」とイエスは言われました。この時のニコデモは全存在をかけてイエスを訪問したのではなく、単なる知識人としてイエスを訪問しています。この段階のニコデモはまだ傍観者であり、いつで引き返せる準備をしています。
・ニコデモはイエスに反論します「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(3:4)。ニコデモは長老ですから、高齢だったのでしょう。「年を取った者がどうして人生をやり直すことが出来ましょうか」と言ったのです。しかしイエスは言われます。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(3:5-6)。人は古い自己に一旦死ぬことによって、新しく生まれることが出来るとイエスは言われます。それを象徴する行為が洗礼式です。パウロは記します「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。洗礼の時、人は全身を水に沈められ、一度死にます。そして水から引き上げられ、新しく生きます。
2. イエスを理解できないニコデモ
・しかし水の洗礼だけでは十分ではありません。「霊から生まれる」、すなわち神の霊をいただいて初めて、人は「新しく生きる」事になります。創世記は語ります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。神の霊を受けて、人は「生きる存在」から、「生かされる存在」になると聖書は語ります。
・だからイエスは続けて言われます。「 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(3:7-8)。「あなたは霊を信じていない、霊は見えないからだ。しかし、風は見えないが、風の働きを私たちは音で聞いて、その存在を知る。神の霊も同じで、信じることによって人の心の中に変化と確信が起こるのだ」とイエスは言われました。しかしニコデモは理解できません。
・紀元200年頃に書かれた新約偽典に、「ニコデモの告白」という資料があります。誰がどのようにして作成したかは不明ですが、その中にニコデモの気持ちを代弁している部分があります「イエスが聖都エルサレムで語っていた時に、私はよく隠れて聞きに行ったが、理由はわからずともひどく惹かれた。そこで一度は夜遅く、あえて会いに行ったことがある。しかし当時は、言われたことが雲をつかむようで内容的にはさっぱりわからなかった。ひどく高飛車に批判された記憶があるが、不思議なのは、えらくやり込められても、彼に対して憤りが全く湧かなかったことだ。あの人物に『私心』が全くなかったからだと思う。私は自分の立場を失うのが怖くて、彼にはそれ以上ついていけなかった」。この時のニコデモは「自分の立場を失うのが怖くてそれ以上ついていけなかった」と告白しています。
3.その後のニコデモ
・ニコデモはヨハネ福音書のなかに3回出てきます。2回目はヨハネ7章のニコデモです。第1回目の出会い以降、ますます多くの人がイエスをメシア(救い主)と信じるようになり、ユダヤ当局もイエスを放置できなくなり、捕らえて殺す計画を始めます。この時、ニコデモは議会で、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」(7:51)とイエスを弁護します。しかし「あなたもイエスの仲間なのか」と問われて黙り込みます。最初のニコデモよりも変えられていますが、「あなたも仲間か」と言われれば黙り込みます。まだ、ニコデモは新しく生まれていないのです。
・今日の招詞にヨハネ19:39-40を選びました。ニコデモが3度目に登場する箇所です。「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」。3度目のニコデモは、最高法院が死刑を宣告し、ローマ軍によって処刑されたイエスの遺体引取りを当局に申し入れ、公然とイエスを埋葬しています。「ユダヤ当局が死刑を宣告し、処刑された人間の遺体を引き取って埋葬する」、これは大変な勇気のいる行為です。議員という地位や律法の教師という名誉が剥奪される危険性があったからです。百リトラ(32㎏)の高価な香料を持ってきたところから相当な金持ちであったことが推察されます。
・この場面について先に引用した「ニコデモの告白」は述べます。「(イエスの十字架の日)、私は隠れて遠くから彼の十字架の姿を見に行った。彼が死んだ後、民衆は過越祭が始まると縁起が悪いからといって、彼の死体を共同墓地の穴の中に投げ捨てようとしているのがわかった。私は、これだけは見過ごせないと思った。彼は未来永劫にわたって呪いから浮かばれないのだ。私は前から同じように彼に惹かれていた同僚議員のアリマタヤのヨセフを誘って彼の死体を貰い受けてきた。(中略)既に変形し硬直した体を運ぶのは辛かった。それを持ってきた没薬と沈香で覆い、最後は亜麻布で包んで差し上げた。ヨセフも私も、ほとんど終始無言であったが、私は心の中で『御免なさい。赦して下さい』と唱え続けていた。こうして夕暮れになる頃、埋葬し終わった」。
・1回目にイエスを訪ねた時のニコデモは「自分の立場を失うのが怖くてそれ以上ついていけなかった」と告白しています。2回目のニコデモもイエスの弁護をしますが、まだ及び腰です。その同じ人がこの度は、社会的地位を失うことを恐れもせずに、イエスの遺体引き取りを行います。最初にイエスによって蒔かれた種がニコデモの中で、芽を出し、成長して、やがて実をつけました。ニコデモはやっと「新しく生まれる」ことが出来たのです。多くの人は「自分の力で生きている」と思っています。その時、信頼するのは「自己」です。しかし、自己に基準を置く時、自己を超える問題にぶつかれば人生は漂流します。イエスは言われます「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)、人生は私たちの思うままにはならないのです。「人は生きているのではなく、生かされている」のです。そのことに気づいた時、人は新しく生れます。ニコデモは迷いながらもイエスを求め続け、最後には新しく生まれることが出来ました。「聖霊を受けて、新しく生まれ変わりなさい」とヨハネは勧めます。遅いということはありません。人は何歳になっても、どのような過ちを犯しても、人はやり直すことが出来る。これこそがニコデモの人生を通して、ヨハネ福音書が私たちに告げる福音、良い知らせです。1年の始めにあたって、「私はどういう人生を歩みたいのか、あたらしくやり直せたら何をやりたいのか」、ニコデモの人生を振り返りながら、そのことを考える場に今日の礼拝がなればと願います。