江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年8月9日説教(出エジプト記2:1-15、寄留者として生きる)

投稿日:2020年8月8日 更新日:

 1.モーセの誕生

 

・出エジプト記はエジプト王の迫害に苦しむイスラエルの民に、モーセが救済者として与えられ、奴隷の地から引き出される物語です。不条理な抑圧の中にある多くの人々が、この物語に解放の福音を聞いてきました。イスラエル人は父祖ヤコブの時代にエジプトに移住し、その後も数を増していきました。数を増していったイスラエル人はエジプト人にとって脅威になり始めます。エジプト王は語ります「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない」(1:8)。国内に住む異民族の数が治安上脅威になるほど増えてきたため、エジプト王はイスラエル民族の人口増大を抑えようとします。最初は労働強化による人口減を狙いましたが、彼らの人口増加率は落ちません。

・二番目の試みは生まれてくる新生男子の抹殺でした。エジプト王は助産婦に「ヘブライ人の男児は殺せ」と命じます。しかし、二人の助産婦は、王の命令に逆らって、赤子の命を救います(1:17)。最後にエジプト王は、「生まれた男の子は全てナイルに投げ込め」との命令を発します。人口増加を抑えるという政策が破れたため、今度は民族の抹殺を図ろうとしています。この政策が続けば、民族は数世代のうちに消滅します。これは「生めよ、増えよ、地に満てよ」という神の創造の業に対立する、地上の権力の反逆です。神は戦いの器として、一人の男子を出生させられます。その人がモーセです。

・モーセはレビ人の両親から生まれました。「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた」(2:1-3)。母親はエジプト人に子が殺されるのを待つよりも、後事を神に委ねて、子をナイル川に流します。そして籠をタールで防水したうえで流します。

・籠はエジプト王の娘が水浴びをしていた場所に流れ着きます。王女は籠を見つけ、開けると男の子が泣いているのを見つけます。その子がヘブライ人であることは着ていた産着でわかりました。王女は父王がヘブライ人の男の子はすべて殺せと命じたことを知っていますが、彼女は父に同意していません。彼女はその男の子を自分の子にします。王女はその男の子に「モーセ」(ヘブル語=モーシェ)という名前をつけます。「水の中から引き上げた=マーシャ」からです。この時モーセの姉ミリアムが王女に申し出ます「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」(2:7)。こうしてモーセはエジプト人の王女とヘブライ人の実母によって育てられることになります。エジプト人の王女からは世界の出来事とそれを治める知恵を、ヘブライ人の実母からはイスラエル民族の信仰を教えられて育っていきます。

 

2.エジプトからの逃亡

 

・成人したモーセは、自分がヘブライ人であることを深く認識し、同族のヘブライ人が重労働を課せられ、虐待を受けているのを見て激怒し、エジプト人の労働監督を殺してしまいます。「モーセが成人したころのこと、彼は同胞の処へ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、誰もいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた」(2:11-12)。しかしモーセの行動は同胞のヘブライ人からも理解されていません。「翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、『どうして自分の仲間を殴るのか』と悪い方をたしなめると、『誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、この私を殺すつもりか』と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った」(2:13-14)。

・モーセはミディアンの地に逃れます。「ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした」(2:15)。このミディアンの地でモーセは祭司レウエルと出会い、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させます。「彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が『私は異国にいる寄留者(ゲール)だ』といったからである」(2:22)。モーセはエジプトから逃亡しました。彼はエジプトで王女と実母により教育されましたが、そこに父親はいませんでした。人間として、社会人として、モデルになるべき人がまわりにいなかった。だから神はモーセを荒野に導かれ、その地でモーセは「父なる神」と出会います(3:4)。そして時が満ちた時、モーセを用いた神の救済が始まります。「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」(2:23-25)。

 

3.寄留者モーセ

 

・今日の招詞にヘブル11:13を選びました。次のような言葉です「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。立教大学チャプレン香山洋人氏は「寄留者モーセ」について興味深い説教をしています。「旧約聖書には『寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない』という表現が何度も出てくる。寄留者は、その土地に生まれ育ったのではなく、よそ者である。モーセはエジプトで失敗し、殺人犯としてお尋ね者となり、遠くミディアンまで逃げていく・・・外国で暮らすモーセは、そこで結婚し家庭を築くが、子供にゲルショムと名づけた。これはモーセが『私は外国にいる寄留者(ゲール)だ』と言ったことに由来する。モーセはエジプトでヘブライ人たちの蜂起を先導しようとして失敗、仲間から受け入れられず、エジプト人殺しを密告されて指名手配となり、外国で亡命生活を送っている。現在の彼は子供も生まれ家庭を持っているが、寄留者であることに違いはない」。

・香山氏は続けます「ヘブライ人たちは食糧危機という状況の中でやむを得ずエジプトに向かった。エジプトに逃げ込むことで生き延びたヘブライ人たちは、エジプトという異教の地、外国において奴隷となり、自由を奪われ、搾取される。彼らは自分たちを不当に扱うエジプト人たちを恐れ、立ち上がって抵抗しようなどとは思えないでいる・・・モーセは、エジプトに住むヘブライ人たちの現実を知り、ヘブライ人としてのアイデンティティーに目覚めてゆく。そして、このように意識化されたモーセには同朋が受けている仕打ちの不当さ、不正義が明らかであり、抵抗運動を起こそうとする。しかし、その企てが突発的であり、感情的であったので、失敗した。モーセはそのような挫折体験を引きずりながらミディアンに亡命し、寄留者となって、更なる挫折感と、喪失感、孤独を蓄積させていく。モーセが神と出会うのはこの時である」(立教大学2000年6月24日始業礼拝説教)。

・人は挫折と孤独、喪失感の只中で神に出会います。モーセはミディアンという異郷の地で「あなたの立っている土地は聖なる土地だ」という声を聞きます(3:5)。私たちクリスチャンもまた日本という異教社会の中にあって寄留者、よそ者です。私たち信仰者は天に国籍があり、地上では異邦人であり、寄留者なのです。その私たちがある時、神と出会い、使命を与えられて立ち上がり、使命が終われば、この世を去って天に帰ります。トルストイは「人間にはどれだけの土地が必要か」と題する民話を書きました(トルストイ民話集、岩波文庫)。「少しでも広い土地を獲得しようとして、死にものぐるいの努力を続けて倒れた男が必要としたのは、遺体を葬るための身体の大きさの墓穴にすぎなかった」という作品です。天に帰国する私たちが地上で必要とするのは、遺体を覆う墓穴だけです。

・しかし寄留者とは世捨て人ではありません。寄留者が神に出会い、使命を与えられた時、彼は「神の器」として生き始めます。モーセは荒野で主なる神と出会い、神から「エジプトの同胞たちを救え」との使命をいただき、逃げてきたエジプトに再び帰って行きます。そこから「出エジプト記」の物語が始まります。私たちにもそれぞれの使命が与えられています。寄留者ですから、私たちは必要以上のお金は必要としません。寄留者ですから、私たちはこの世の栄達を求めません。寄留者ですから、神から与えられた人生を一生懸命に生き、時が来れば、天に帰って行きます。そしてこの地上には「遺体を葬るための身体の大きさの墓穴」が残されます。

・ドイツの聖書学者ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」という本を書きました。イエスが来られて、弟子たちがどのように変えられたかを分析した本です。「イエスが来られても社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった。彼らが伝えたのは、『愛と和解のヴィジョン』だった」。寄留者とは、ある意味で「キリストにある愚者」として生きる人です。キリストにある愚者とは、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分たちには何が出来るのか、どうすれば、キリストから与えられた恵みに応えることが出来るのかを考える人たちです。この人たちによって福音が担われ、私たちにも継承されています。寄留者であることを認識して生きる大事さを共有できればと願います。

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