1.仮庵祭りのイエス
・ヨハネ7章では、仮庵祭にエルサレムに行かれたイエスをめぐる騒動が描かれています。仮庵祭はエジプトからの救出を感謝する祭りで、約束の地に向かう途上の荒野で、先祖たちが幕屋(仮庵)に仮住まいをした出来事を想起する祭りです。10月のエルサレムは各地から来た神殿参拝者で混雑しています。その中で、ユダヤの役人たちはイエスを捕らえようと探していました(7:11)。支配階層の祭司たちは、イエスが彼らの偽善を批判し、さらには信仰の中核であった神殿崩壊を預言したため、イエスを捕らえて殺そうと計画していました。
・ユダヤ当局から所在を探されているそのイエスが、仮庵祭りの時にエルサレムに来られ、人の集まる神殿の庭で教え始められました。群衆はイエスの大胆な行為に驚きます。「これは人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシヤだということを、本当に認めたのではなかろうか」(7:25-26)。「この人はメシヤなのか」、「当局もそれを認めたのか」。「そんなことはない。メシヤはベツレヘムから来ると預言されているのにこの人はガリラヤ人ではないか」(7:41-42)。群衆のイエスに対する意見は分裂しています。
・仮庵の祭りは、イスラエルの民がエジプトを出て、荒野を旅した時に、神が人々に水を与えて下さったことを記念する時です。荒野で水がなくなると、神はモーセに「岩を杖で打て」と命じられ、モーセが打つとそこから水が出て、民は飲むことが出来ました(民数記20:11)。それを記念して、仮庵祭の最終日には水注ぎの儀式が行われました。シロアムの池から採られた水が神殿に運ばれ、ラッパの吹奏と共にイザヤ書が読まれ(イザヤ12:3「あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水を汲む」)、祭壇に水が注がれます。シロアムの井戸から水を汲まれることを通して、神の救いの恵みが想起される儀式が行われていました。
・この水運びの行列を見て、イエスが立ち上がって叫ばれます「渇いている人はだれでも、私の所に来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7:37-38)。聖書とはゼカリヤ書14章8節を示します。ゼカリヤは「世の終わりの救いの完成の日に、エルサレムで仮庵祭が祝われ、そのエルサレムから夏も冬も尽きることのない命の水が湧き出て、世界を潤していく」と預言し、イエスはその預言が今実現したと宣告されたのです。
2.命の水
・日本にいると水は無尽蔵にあると錯覚しますが、実は水の98%は海水で、残り2%の真水の多くは南極や北極の氷山になっており、人が利用できるのは、全体の0.01%と言われています。その中で人口増加に伴う地下水利用の灌漑農法が盛んになり、世界中で地下水が枯渇し、砂漠化が生じ、水不足による旱魃、飢饉が頻発しています。また穀物生産には大量の水が必要で、日本のように大量の大豆や小麦を輸入している国は同じ量の水を輸入していることになります(バーチャル・ウォータ)。先進国の大量の水使用により、途上国では深刻な問題が生じています。日本の開発援助機関JICAが世界各地で水資源の開発や保全を行っているのは、ある意味で大量の水輸入国としての補償的働きともいえます。
・水は貴重で、人は水がないと生きていけません。水が不足すると、身体はそれを警告するために、喉の渇きをもたらします。水の有無は生死を決定しますので、人は体の渇きには敏感です。しかし、魂の渇きに関しては、人は鈍感です。魂が渇いているにもかかわらず、それに気付かず、魂の死を招きます。「生ける屍」という言葉は、「体は生きているのに魂は死んだ」人のことを指します。魂にも「生ける命の水」が必要なのです。イエスは私たちに、「渇いている人は私のところに来なさい。私が命の水である聖霊をあなたたちに与える。聖霊はあなたに満ち、もうあなたは一人で生きるのではなく、私と共に生きるようになる」と招かれています。
・「生けるキリストに出会う」、「命の水をいただく」、人生においてこれ以上に、大切なことはないと思います。私は牧師になって10年目に大学院に入り直して、聖書学をもう一度学びました。当時説教に行き詰り、福音が語れなくなっていたからです。2年間多くの本を読み、講義を聞き、聖書に関する知識と経験は増え、視野も広くなったと思います。しかし、神学を学び直して痛感するのは、神学は大事ですが、それはブレーキに過ぎないという思いです。「車を動かすのは信仰というガソリンであり、神学は信仰が曲がらないためのブレーキだ」と榎本保郎先生は言われました。ブレーキの効かない車ほど恐ろしいものはなく、神学なしには聖書の正しい解釈は出来ないという意味で、神学は大切です。しかし、それはあくまでもブレーキに過ぎず、車を走らせる力は信仰というガソリンから来ます。その信仰は「生けるキリストと出会い」、「キリストから生ける水をいただく」ことから来ます。ではどのようにして「生けるキリスト」に人は出会うのでしょうか。挫折や苦しみを通して、「自分の魂が飢え渇いている」ことを知らされた時です。
3.渇く者は来なさい
・そのようにして「生けるキリスト」に出会った一人の人がヨハネ4章「サマリアの女」です。今日の招詞にヨハネ4:13-14を選びました。「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る』」。イエス一行がサマリアの町シケムに着かれた時、井戸に一人の女が水を汲みに来ました。イエスは女に「水を飲ませてほしい」と言われ、女は驚きます。ユダヤ人のイエスが敵対しているサマリア人の女に声をかけたからです。その女にイエスは言われます。「もしあなたが、私がだれであるか知っていたならば、あなたの方から頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(4:10)。女は更にびっくりして言います「あなたは生きた水を与えることが出来るというのですか」。それに対してイエスは言われた言葉が今日の招詞です。女は直ちに反応します。「その命の水を私に下さい」。
・女は正午に、町外れの井戸まで水を汲みに来ています。水汲みは女にとって苦痛でした。イエスは女と話すうちに彼女の最大の問題は、「水の渇き」ではなく、「魂の渇き」であることに気づかれます。女は過去に5度の結婚に失敗し、今は内縁の夫と同棲しています。彼女は男から男へ頼るべきものを求めていきましたが、どこにも満たしを見出すことが出来ず、今は「不身持の女」との評判が立てられ、人目を避けて暮らしています。女が新しくやり直すためには、まず現実を見つめることが必要でした。だから女の最も触れてほしくない部分、彼女の生き方に、イエスは触れられます。
・イエスの言葉を通して、女は自分の全てを知っておられる神がいますことに気づかされます。この罪から清められたいと女は願いました。イエスは女に言われます「あなたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4:22)。「あなたが、どこでも、霊とまことを持って礼拝すれば、神は答えてくださる。神はあなたを疎外されない」とイエスは言われました。女はイエスの言葉によって回心し、町に走っていって叫びます「私が行った事を全て言い当てた人がいます。この人こそ、メシヤかもしれません」(4:29)。これまで隠したいと思っていた自分の恥を明るみに出して、女はイエスを証しします。サマリアの人々は女の証を聞いてイエスのもとに来て、イエスの話を聞き、彼ら自身も信じました。きっかけになったのは、罪人と思われていた女の証でした。
・ヨハネ7章が私たちに教えるのは、イエスを信じることにより、生ける水がその人から湧き出し、それは自分の渇きを癒やすだけでなく、周囲の人をも潤していくということです。そのような生き方を私たちに示してくれた方が先日、アフガンで亡くなられた中村医師です。彼は海外医療協力会から派遣されてパキスタンで医療活動を始められましたが、自分の治療した患者のほとんどが栄養失調と水不足が原因であることに気づかされ、水を運ぶための灌漑用水路網の建設に取り掛かります。十数年間の苦闘の後、灌漑用水路が建設され、広大な砂漠が緑の野となり、何十万の人びとの命と生活が一変しました。中村医師は証言します「私たちは医療団体であるが、医療行為をしていても非常に虚しい。水と清潔な飲料水と十分な食べ物があれば、おそらくは八、九割の人は命を落とさずに済んだという苦い体験から、干ばつ対策に取り組んでいる」。先日福岡で行われました中村医師の記念会には5千人の方が集ったそうです。
・水が不足するとどうなるのか、私たちは今回の台風19号等による停電や断水で水の大事さを改めて知りました。しかし途上国の人々は常に停電と断水の状況で、水を満足に使えずに暮らしています。「渇いている人はだれでも、私の所に来て飲みなさい」と言われたイエスの言葉は私たちにどう関わるのか。カトリック司祭のミシェル・クオストは言います「イエス・キリストはこの地上に降りられるために私たち一人一人を必要とされている。何故なら、キリストはこの地上にはもはや口と手を持っておらず、地上に降り立たれるためには、人間の口、人間の手を必要としておられるからだ」。中村医師は命の水を運ぶ人になられました。私たちが今度は命の水を運びたいと願います。イエスは私たちに生きた命の水である聖霊を与えて下さ、聖霊は私たちを導いて「真理をことごとく悟らせ」(16:13)ます。私たちは今や目が見えるようになり、先進国の大量の水使用により、途上国では旱魃や飢餓の深刻な問題が生じていることを知りました。その私たちが「命の水を運ぶ」とはどういうことだろう、私たちには何ができるだろうか、それを考える機会が今日礼拝の中で与えられました。