江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年12月6日説教(マタイ1:1-17、罪びとを受け入れられる神)

投稿日:2020年12月5日 更新日:

 

1.キリストの系図の中に、四人の女性たちの名がある

 

・アドベント(待降節)の時を迎えています。今年のクリスマスはマタイ福音書から御言葉を聞きますが、今日はマタイ1章前半にありますイエス・キリストの系図を見ていきます。イエスがどのようにして生まれてこられたかを記す歴史です。冒頭でマタイは記します「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1:1)。ユダヤ人は救い主(メシア=油注がれた者、ギリシャ語訳キリスト)はダビデの子孫から生まれると信じていました。それ故にマタイは「イエスはダビデの子孫から生まれた」ことを証明するために、この系図を記しています。系図は男性が中核になります。「アブラハムはイサクを、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟を」という形で、父から子へ、子から孫へ、さらにはその子たちへと系図が展開していきます。その男系の系図の中に、四人の女性の名が出てきます。当時のユダヤは徹底した父系社会であり、系図の中に女性が登場するのはきわめて異例です。そして、ここに登場する四人の女性たちはそれぞれに暗い過去を持ちます。彼女たちは、異邦人出身とか、性的不道徳が批判されかねない女性たちです。その女性たちがあえて選ばれてこの系図に記されています。

・4人の女性の最初はタマルです。マタイは「ユダはタマルによってペレツとゼラを (生んだ)」(1:3)と記します。彼女はユダの長男エルの妻でしたが(創世記38章)、夫エルは子を残さずに死に、次に弟オナンの妻となりますが、オナンも子を残さずに死にます。当時の慣習では三男と結婚すべきですが、舅のユダは三男まで死んでしまうことを危惧し、タマルを実家に戻します。当時、女性が子を産まないで実家に戻されるのは恥ずべき事と考えられていました。タマルはその恥を注ぐために、遊女を装って舅ユダに近づき、妊娠して子を産みます。タマルは今日的に言えば近親相姦により子を産んだ女性です。

・5節にはラハブが登場します。マタイは「サルモンはラハブによってボアズを(生んだ)」(1:5)と記します。ラハブはエリコの遊女(ヨシュア記2~6章)で、エリコを探るためにヨシュアが遣わした2人の斥候をかくまい助けた功で、ヨシュアから夫を与えられ、子を産みます。遊女は当時の社会でも蔑まれる存在でした。その遊女がイエス・キリストの系図に入っています。5節後半のルツはモアブの女です。マタイは「ボアズはルツによってオベドを(生んだ)」(1:5)と書きます。ルツはエリメレクの子と結婚しますが、夫は死に、義父も死にます。彼女は姑ナオミに従ってベツレヘムに行き、その地でエリメレクの親族ボアズと結婚し子を産みます(ルツ記4章)。ルツは当時の社会で卑しまれていた異邦人出身です。

・6節のウリヤの妻とはダビデの武将ウリヤの妻バテシバで、彼女は夫が戦場にいる時に、ダビデ王に見初められて床を共にし、妊娠します。ダビデはバテシバの夫ウリヤを戦場で死なせ、未亡人バテシバを妻として娶ります。このバテシバからソロモン王が生まれます。マタイはここでバテシバの名前を出さずに、あえて「ウリヤの妻」と記します。バテシバはウリヤの妻であってダビデの妻ではなかった。それなのにダビデはその妻を無理やりに自分のものとした。「メシアはダビデの子から生まれる」と信じられていた時代に、そのダビデこそ罪びとであったことをマタイは強調しています。

・四人の女性に共通するのは、それぞれに人から罪びとと批判されるであろう、後ろめたい過去を持つことです。タマルは舅ユダとの姦淫を通して、子を生みました。ラハブの職業は娼婦で、ルツは異邦人でした。ウリヤの妻はダビデと姦淫を犯してソロモンを生んでいます。イスラエルの歴史の中にはアブラハムの妻サラやイサクの妻リベカ等、賞賛されるべき女性はたくさんいますが、彼らの名前は系図には現れません。逆に、異邦人であり、また性的不道徳が批判されかねない女性たちをあえて、マタイはキリストの系図の中に挿入しています。昔から、多くの人が疑問に思っていた記事です。

 

2.罪びとを受け入れられる神

 

・イエスはヨセフとマリアの長男としてお生まれになられましたが、マルコ福音書によれば、故郷ナザレ村の人々はイエスのことを「マリアの子」(マルコ6:3)と呼んだと記します。父系社会では人は父親の名前で呼ばれますから、イエスは「ヨセフの子」と呼ばれるべきであるのに、「マリアの子」と呼ばれています。この表現は「ヨセフの子ではなくマリアの子」、「イエスは私生児であった」という響きを持っており、イエスの出生に悪口をいう人たちがいたことを示します。キリスト教がユダヤ教から分離独立していったのは紀元70年ごろですが、母体のユダヤ教側では、「イエスがヨセフの子ではない」ことを逆手にとって、「イエスは私生児だった」と批判していたようです。

・そう批判されても仕方のない状況下でイエスがお生まれになったのは、事実です。マタイはその事実を踏まえ、仮に私たちの両親が、否、私たち自身がタマルやバテシバのように罪を犯した存在であっても、神は罪を犯す私たちの悲しみを知っておられ、それを赦しておられるとして、あえて系図の中に4人の罪ある女性たちの名前を挿入したと思われます。パウロは語ります「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(ローマ8:3)。

・四人の女性たちはそれぞれ罪を犯しましたが、それは生きるためにやむを得ない罪でした。マタイ福音書注解を記したE.シュバイツァーは語ります。「われわれが問われているのは、福音書記者の信仰の証言であって、神はその民を相手とする歴史をすでにアブラハムの選びをもって始め、そしてイエスにおいて、人間のあらゆる不透明な、疑わしい、罪深い行動を貫いて、その目標へと導いたと言おうとしていることを、本当と受け止めるかどうかという点である」。社会学的視点から聖書を読む金子啓一は語ります「タマルとルツは寡婦、4名の女性は外国人、ラハブは遊女だ。彼女らは、社会的文化的低みと追いやられた、いわば歴史の犠牲者ではないのか。そうした歴史の犠牲者たち、とりわけ無名の人々を通してこそ、神はその救いの歴史を成就することが出来る。系図に導入された女性たちの名は、そのことを黙示しているのではないか」(アレテイア・マタイ福音書釈義と黙想)。神はこの女性たちの悲しみを知っておられ、それを憐れまれた。だから、彼女たちは神の子の系図に入ることを許されたとマタイは主張しているのです。

・この福音書を書いたとされるマタイも悲しみを知っています。彼は占領者ローマのために働く徴税人として、嫌われ、社会から排除されていました(9:9)。しかし、イエスはそのマタイを弟子として受け入れて下さった。イエスご自身も「私生児」と陰口されて、苦しまれたと思われます。それ故に「罪びと」と陰口されたマタイの苦しみも知って下さった。自分が差別され苦しんだ人こそが、差別に苦しむ他者を憐れむことが出来る。それを知るマタイだからこそ、キリストの系図の中に4人の差別された女性の名前を入れたのではないかと思えます。ここに福音が証しされています。私たちの神は「罪びとを排除せず、受け入れられる方だ」との信仰告白です。

 

3.罪の赦し

 

・今日の招詞にルカ7:47を選びました。次のような言葉です「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。ルカは罪びとの赦しの物語を7章で展開します。「あるファリサイ派の人が一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(ルカ7:36-38)。「罪深い女」とは娼婦や遊女を指す言葉です。

・宴席の主人シモンは評判の悪い女が香油注ぎをしたのに、イエスが拒絶されないのを見て、心の中で言います「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(ルカ7:39)。シモンに対しイエスは言われます「この人を見ないか。私があなたの家に入った時、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたは私に接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」(ルカ7:44-46)。そして言われたのが招詞の言葉です「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」。そしてイエスは女性に「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました(ルカ7:48-50)。

・この女性はその後どのようになったのでしょうか。ルカは何も語りません。しかし、罪を赦された者はもう罪の生活を続けることは出来ません。彼女はおそらく今までの生活と訣別し、新しい生きかたを始めたと思われます。イエスとの出会いは人生を根底から変える力を持っています。イエスは悲しみを知っておられた、イエスご自身も「私生児」と陰口されて苦しまれた、それ故に「罪びと」とされた女性の苦しみも知って下さった。ここに「罪が赦される」という福音があります。

・神は私たちが弱さのために罪を犯さざるをえないことを知っておられ、私たちが罪を悔い改めた時、私たちの罪を赦されます。精神科医の神谷美恵子さんは、著書「生きがいについて」の中で語ります「罪深いままでよいのだ、ありのままでよいのだ、そのままでお前の罪は赦されているのだ、と。もしそのような声が世界のどこからか響いてくれば、罪の人ははっと驚いて歓喜の涙にかきくれ、とりつくろいの心も捨てて、あるがままの身を投げ出し、その赦しを素直に受け入れるだろう」(同書p156)。この赦しがマタイ福音書冒頭にも、ルカ7章にもあるのです。この赦しを経験した者は、もはや以前の生活には戻れません。だから、私たちは教会に来るのです。私たちも人生の途上で、この罪の赦しを経験したからです。福音書の最初のページは赦しから始まっています。私たちはこのことに感謝し、「アーメン、わが主よ、あなたは生きておられます」と讃美します。

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