2020年1月19日説教(ヨハネ6:16-21、たとえ嵐の中にいても)

投稿日:2020年1月18日 更新日:

1.嵐に悩む弟子たち

 

・ヨハネ福音書を読んでいます。イエスはガリラヤを回って、教え、人々の病をいやされました。大勢の人々がイエスの周りに集まって来ました。ある時、イエスの話を聞くために、ガリラヤ湖のほとりに数千人の人が集まりましたが、食べるものもない群衆を憐れまれたイエスは、手元の五つのパンで、5千人の人を養われます。群衆はその奇跡に驚き、賞賛の声が大波のように広がりました。「人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言い、イエスを王にするために連れて行こうとした」と記します(6:14-15)。興奮状態の中で、今にも暴動が起こりそうになり、また弟子たちも興奮に巻き込まれていました。そのため、イエスは弟子たちを舟に乗せて向こう岸に行かせ、群衆を解散させ、ご自身は祈るために山に登られます(6:15b)。

・弟子たちが舟に乗ったのは夕方でした。その時、山の方から強い北風が吹き、舟は湖の真ん中で立ち往生してしまいます。強風が吹き荒れ、波は逆巻き、舟は嵐に翻弄されます。弟子たちは必死に舟を進めようとしますが出来ません。時はいつの間にか、明け方に近くなりました。イエスは対岸からそれを見て、弟子たちを救うために、湖上を歩いて、弟子たちのところに行かれます。弟子たちはその姿を見て、幽霊だと思いました。人が水の上を歩くなどありえない。そのありえない出来事が今、目の前に広がっています。弟子たちがおびえるのは当然です。しかし、「私だ、恐れることは無い」(6:20)というイエスの言葉に弟子たちは我に帰ります。嵐は続いていますが、イエスが来られたことで安心感が広がりました。

・不思議な出来事です。イエスが弟子たちを助けるために湖を歩いて来られた、「水の上を歩く」、そんなことが本当に起こったのか、現代の多くの人がこの個所に躓きます。この物語はおそらく、復活後のイエスとの出会の出来事がイエスの生存中の出来事に伝承されたのではないかと思えます。聖書学者E.シュバイツアーは注解で叙述します「ヨハネ福音書21章7-8節によれば、ペテロは復活したイエスに向かって水の中に飛び込み、彼に向って水の中を歩いて渡る。これがイエスの地上の生涯の中での物語へと発展していったのではないか」(NTDマタイ注解436p)。

・物語が、復活後に顕現されたイエスとの出会いであれば、イエスが水の上を歩かれてもおかしくないし、闇の中を歩いてこられるイエスを見て、幽霊だと思っても不思議はありません。ヨハネ福音書では復活のキリストと出会ったペテロたちが「その人がイエスだとはわからなかった」(ヨハネ21:4-7)と記します。ルカ福音書では、復活のイエスに出会った弟子たちが、顕現されたイエスを幽霊と思ったという記事も残されています(ルカ24:3-37)。この記事が復活のイエスとの出会い体験から生まれたものだとすれば、それは私たちにも起こりうる出来事です。復活体験は言葉では説明の出来ない出来事です。しかしイエスの十字架刑の時に逃げ去った弟子たちが、やがてまた集められ、「イエスは死からよみがえられた。私たちはそれを見た」と宣教を始め、死を持って脅かされても信仰を捨てなかったことは歴史的事実です。私たちもまたいろいろな場面でイエスとの出会い体験(あるいは神秘体験)をしています。

 

2.私たちは一人ではない

 

・「死の恐怖におびえている者に助け主が来られる」、それがこの物語の主題です。弟子たちは嵐の中で苦闘しており、イエスは岸からそれを見て、彼らを救い出すために歩き出されます。弟子たちには暗くて見えませんが、救いは既に始まっています。見えない時には、救い主を幽霊と誤認しておびえますが、「私だ、恐れることは無い」と言う声で、救いが始まった事を知ります。それでも私たちは、取り巻く現実を見て、怖くなって、沈みます。

・この物語はマルコにもマタイにも並行記事があります。マタイ福音書ではペテロは、イエスが「来なさい」と言われた時、勇気を出して水の上を歩き始めましたが、「彼が強い風に気づいた時、沈みかけた」とあります(マタイ14:30)。人が自分の事だけを、自分を取り巻く困難さだけを考える時、その人は沈みます。しかし、私たちを助けるために来られた方を見つめ続ける時、私たちもまた水の上を歩くことが出来ます。ペテロはイエスから目をそらしましたが、イエスはペテロを見つめ続けておられた。ペテロの手はイエスに届きませんでしたが、イエスが手を伸ばして捕らえて下さいました。

・この物語を私たちが自分たちの実存の中で聞き始めた時、物語は私たちの物語になって行きます。東京バプテスト神学校を卒業後、ある教会の協力牧師になられ、2年前に逝去されたM.O牧師はこの物語を死の床で聞かれています。「ガリラヤ湖で弟子たちは、嵐にすっかり恐れて言います『私たちが、おぼれてもかまわないのですか』(マルコ4:38)。それに対してイエスは叱られます『何故怖がるのか、まだ信じないのか』(マルコ4:40)。この言葉を先生は言い換えられます『滅びるなどとなぜ情けないことを言うのだ。おまえたちは、滅びることのない永遠の命をいただいているのだ。まだ信じられないのか。おぼれてもいいのだ。死んでもいいのだ。決して滅びることはないのだから」。彼は直前のクリスマスの時に、直腸癌の三回目の手術をし、癌が腹膜に転移してもう治療が出来ず、そのままお腹を閉じた経験をしています。主治医が妻に『もうだめだから職場に連絡しておくように』と言っていた声を聴き、このまま病院を出られずに死ぬと覚悟しました。覚悟しても怖い。「まだやることがある、死ねない。クリスチャンになって10年たっていたが、平静な気持ちにはなれなかった。死んでもいいとは思えなかった」と彼は書きます。

・牧師は続けます「イエスに、叱られてしまいそうです。自分一人だけだったら、やはり怖い。しかし落ち着いて横を見ると、私の舟にもイエスが乗っておられた。私は隣にいるイエスを起こしました。イエスはおっしゃる『波よ、静まれ』と。しかし、イエスは、本当はこうおっしゃりたいのではないか。『あなたの心の波を静めなさい』、試練はいつ襲ってくるかわからない。今日、東京に直下型地震が起こるかも知れない。しかし、地震でも津波でも嵐でも、どんな災難が来ても、心が平静ならば大丈夫だ。恐れてパニックになったら、助かるものも助からない。たとえ死んでも滅びることはない、そう思って冷静に対処すれば、逃れる道が見えてくる」。この物語はマルコにもマタイにも並行記事があります。弟子たちにとってよほど印象深い出来事だったのでしょう。

 

3.私たちのところに来られる方

 

・今日の招詞に詩篇107:25-29を選びました。次のような言葉です「主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされたので、彼らは天に上り、深淵に下り、苦難に魂は溶け、酔った人のようによろめき、揺らぎ、どのような知恵も呑み込まれてしまった。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった」。嵐が起きると、舟に乗っている人は、「上に、下に」大きく揺さぶられ、勇気はくじけ、酔った人のようによろめきます。ある人は、「嵐は自然現象だから、通り過ぎるまでやり過ごすしかない」と考えます。しかし、詩編記者は、嵐は「主が起こされる」と言います。「主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされた」(107:25)。主によって嵐が起こされるとしたら、主に訴えれば、嵐は取り去られます。

・詩篇作者は訴えます「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された」。人は海を怖れます。海は底なしのもの、恐ろしいものの象徴です。そして、人生は海を航海するのに似ています。平穏な時には、私たちは自分の能力、可能性、築き上げた生活の基盤を信じて生きていくことが出来ます。しかし、嵐になると、私たちはあわて惑う。ある人には、事業の失敗や、家族の死や病気、あるいは離婚等の激しい嵐が来るでしょうし、別の人には、家族内の不和、友人の裏切り、仕事や学業の挫折等の静かな嵐として襲って来ます。何よりも、「死がそこまで来ている」と知らされた時、これまで磐石だと思っていたものが何の役にも立たない事を痛感します。全てが虚しくなり、生きていてもしようがないと思い、苦しみ、もだえます。そのもだえを通して、私たちは叫びます「主よ、助けてください」。

・人生の嵐の中でどうしてよいかわからない時に求めれば主は答えて下さる。その信仰を讃美歌にしたのが、ポール・サイモン作詞の「明日に架ける橋」です。「明日に架ける橋」、原語「Bridge over troubled water」、「荒海に架ける橋」です。こういう歌詞です「生きることに疲れ果て、みじめな気持ちで涙ぐんでしまう時、その涙を僕が乾かしてあげよう。僕は君の味方だよ、どんなに辛い時でも、頼る友が見つからない時でも。荒れた海に架ける橋のように、僕はこの身を横たえよう」。キリストが私たちの贖いとして自分の身を投げて下さった、神の側から私たちの方に橋を架けて下さった。だから私たちもこの荒海に、人生の嵐が荒れ狂う海に、橋を架けよう、そういう歌です。この「明日に架ける橋」は、ベトナム戦争と公民権運動による混迷の70年代にアメリカで生まれ、人種隔離政策が続いていた80年代の南アフリカで歌われ、最近では2001.9.11テロの犠牲者を追悼する集会の中で歌われてきました。この歌はまさに讃美歌なのです。

・主からくる助け以外に何ものも所有していないことに気づくことが信仰です。嵐の中を一人で歩くことは恐怖です。しかし、二人であれば、それほど怖くありません。しかも、同伴される方が、この嵐を取り去る力をお持ちであれば、何も怖くない。キリストを心に受入れた人にも危険は迫ります。不安になり、動揺し、おじまどいます。そのような苦しみの中にある方もいるかもしれません。しかし、私たちは「主よ、助けてください」と叫ぶことが出来、その声に応えて、主は語られます「おぼれてもいい。死んでもいい。しかし決して滅びることはない」。私たちは一人ではない。イエスが共に歩いて下さる。この信仰が与えられていれば、他に何も要らないではないかと思います。

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