1.迷いでた一匹の羊の喩え
・マタイ福音書18章11-14節は「迷い出た羊」の喩えです。短い箇所ですが、含蓄のある物語が展開します「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。同じ例えがルカ福音書15章3-7節にもありますが、ルカでは「見失った羊」となっています。羊は「迷い出たのか」、それとも「見失われたのか」、譬えは聞く者の視点により、意味が変わって行きます。
・聖書を読む時には、文脈の中で読むことが大事だと言われています。マタイの文脈では、「小さな者をつまずかせる者は災いだ」と言う文脈の中で、「迷い出た羊の喩え」が語られています。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の天の父の御顔を仰いでいるのである」(18:10)。小さい者とは、教会の中で配慮と助けを必要としている者を指します。人はある時は牧師や信徒の言葉につまずき、別の時には自分の問題で、教会に来ることが出来なくなり、教会の群れから迷い出た状態になります。その時、私たちは週報を持って礼拝をお休みされた方を訪問したり、電話したりして、「また礼拝に参加ください」と勧奨します。しかし、多くの人は教会に戻ることが出来ません。それは教会が悪い場合もあるし、本人の問題である場合もあります。マタイはこの譬えを「迷い出た羊の喩え」として編集しています。マタイの視点はあくまでも「教会」にあります。
2.マタイを通して学ぶこと
・物語はルカとマタイに共通していることから、共通の資料=イエス語録(Q資料)から取られています。イエスはある時、「九十九匹を置いて一匹を探しに行く神の愛を語られた」、それをマタイは教会に対する教えとして聞いたのです。いろいろな人が教会につまずき、あるいは自分の問題で、教会から離れて行った。マタイはそのような教会の現実を見て、「誰かが教会につまずいたとしたら、それは教会全体にとって非常時なのだ。父なる神はその一人でもが失われることを望んでおられない」と述べています。10節「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の天の父の御顔を仰いでいるのである」とはそのような意味です。
・群れの一匹が迷いでた時、羊飼いは九十九匹を「山に残して」、一匹を探しに行きます。マタイでは山は「聖なる場所」です。イエスは祈るために山に登られ(14:23)、山の上でモーセやエリヤと会うという神秘体験をされています(17:19)。山は神の守りの中にある、安全な場所、「九十九匹を山に残して」とは、彼らを教会という安全な場所に残して、迷い出た羊を探しに行くことを意味しています。ですから、「九十九匹を犠牲にして」、あるいは「九十九匹を危険な場所に放置して」という意味をマタイ福音書は持ちません。「九十九匹は既に神の保護下にある、だから迷い出た一匹を見捨てるな、その一匹をどこまでも探しに行け」といわれています。そしてその一匹を見出したなら、「迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶ」。何故なら九十九匹は既に安全なのに、一匹は命の危機にさらされていたからです。
・私たちはある時には思います「これだけの人がいるのだから、一人や二人が脱落しても仕方ないではないか」と。それに対してマタイは答えます「天の父は脱落した一人を放置することを望んでおられない。あなたが探しに行くことこそを望んでおられる」と。小さき者とは、教会の現実でいえば、礼拝を永く休んでおられる人のことです。私たちの教会にも、老人ホームに入居されている方、病を抱えて入退院を繰り返しておられる方、障害を持っている人、転居して音信不通になっている人、言葉や風習の違いで教会になじめない人の方がおられます。「去る者は日々に疎し」、しかし、教会ではそうであってはならないとマタイは教会の人々に呼びかけています。
3.ルカによる「失われた羊の例え」を合わせて読む
・マタイの喩えの意味を明確にするためにルカ版も観てみます。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:4-7)。
・ルカはこの喩えを、徴税人や罪人がイエスの話を聞こうとして来た時に、パリサイ派の人々や律法学者が「罪人と食事を共にする」(15:2)と批判して、イエスがそれに反論された文脈の中で紹介しています。ここで「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」とは、パリサイ人や律法学者を指しています。「自分たちは正しい」、「自分たちは既に救われている」と考える人々は、イエスの呼びかけを拒否し、悔い改めようとしません。そのようなあなた方よりも、「悔い改める罪人=失われた羊」を父なる神は喜ばれるのだと言っておられるのです。ですからイエスは「九十九匹を野原に残して」、「野原」、「九十九匹を危険にさらしても」、失われた羊を探しに行くと言われています。
・ルカの物語には、「一匹を見殺しにして九十九匹の繁栄を図る」この世への警告があります。「ローマ人の物語」を書いた塩野七生さんは、この箇所について語ります「迷える一匹の羊を探すのは宗教の問題であり、九十九匹の安全をまず考えるのが政治の課題である」。まさにその通りだと思います。この世は多数、九十九匹を大事にする。民主主義とはそういうものであり、政治の目標は全ての人に機会を開き、幸福追求の自由を保障することです。しかし、その過程で切り捨てられる人がいる。全ての人に成功の機会があることは、全ての人に失敗の機会もまたあることを意味します。そして成功者を称える社会では失敗者は省みられない現実があります。しかし教会は「九十九匹の安全を損なっても、見失った一匹の羊を探しに行く場所だ」とルカは強調します。教会の価値観はこの世とは異なるのです。
4.教会は失われた一匹を大事にする
・マタイ版とルカ版の「一匹の羊の喩え」を比較してわかることは、人はそれぞれの置かれた立場で聖書の言葉を読むということです。どちらの読み方が正しいとは言えない。ではイエスの真意は何なのか。それを探るために、今日の招詞にルカ5:31-32を選びました「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(5:31-32)。「神の国の宴会」の喩えでは主人からの招きを断った人々の代わりに、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」(14:21)と言われています。イエスは神の招きを拒否するパリサイ人や律法学者ではなく、自分の罪を認め、神の憐れみを求める者を肯定されています。
・イエスにとって神の国に招かれるのは、正しい九十九人ではなく、失われた一人なのです。イエスが私たちに語りますことは、一人を見つけることの喜びです「見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(15:5-6)。ルカを読む時は、自分をその失われた一人の立場に立って読むことが求められます。その時、「一人のために、私のために来てくださるイエスがどれほどうれしかったか、この人のためならば死んでもよい」と思ったほどです。パウロは自分こそ「罪びとの頭」(第一テモテ1:15)だと告白します。それは「自分こそ、最初に迷い出て、神によって見出された者だ」との信仰告白です。
・マタイ版でもルカ版でも、いなくなった羊は群れに戻されます。その時、教会の中に緊張が走ることでしょう。異質な存在が群れに戻ったからです。今年度の篠崎教会の標語は三つです。「教会員相互が祈り合える教会」、相手のことを気に掛ける群れでありたい。「多言語・多文化の方々と共なる礼拝」、異なる人を迎え入れることの出来る集会でありたい。「私たちの心の内から壁を取り払う」、私たちの中にある偏見を取り除き、イエスのようにして下さいとの祈りです。この三つの願いこそ、今日の物語を解く鍵です。
・具体的には、それは「寛容」という言葉に集約されます。礼拝時に子供が騒いでも怒らない、教会に批判的な方の話をさえぎらない、自分の悪口をいう人のために祈ることです。異なる人に居場所を与える社会、それぞれに役割が与えられる場所、それが神の共同体、教会です。米国の2000年以降のノーベル賞受賞者は78名ですが、そのうち31名が移民の出身であると言われています(ミチコ・カクタニ「真実の終わり」p66)。異なる人を受け入れ、共に生きる教会を共に形成したい。この世は「九十九匹の安全をまず考える」社会です。しかし私たちは「見失った一匹の羊を探す」教会でありたい。「失われた羊の喩え」はそう求めます。