2019年1月27日説教(ルカ5:27-32、罪人を招くために来られたイエス)
1.徴税人と食事するイエスを批判する人々
・ルカ福音書を読んでいます。ルカは「イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」(4:14-15)と記します。イエスが伝えたのは福音、すなわち「父なる神はあなたがたを救うために私を遣わされた」という喜びの訪れです。他方、当時の宗教指導者、ファリサイ派や律法学者たちは、裁きを伝えました「神の定めた律法を守らない者は裁かれる。だから律法を守りなさい」と。赦しの福音を伝えるイエスは、律法を守ることにより人は救われると強調するファリサイ派の人々と衝突されます。
・イエスはガリラヤ湖畔、カペナウムの収税所にいたレビに「私に従いなさい」と招かれます(4:27)。レビは徴税人です。徴税人は支配者ローマのために税金を集める仕事をしていましたので、不浄な異邦人の手先として働く汚れた者とされ、またしばしば不正の徴収を行なっていたため、人々から憎まれていました。イエスはその徴税人レビに、私の弟子となりなさいと招かれました。これは通常はありえないことです。ユダヤ教の教師は罪人とされた徴税人とは交際しない、ましてや弟子に招くことなどありえない。それなのにイエスはレビを招かれました。レビは招きに感動してイエスに従います。
・ある説教者はこの徴税人の名前がレビであること、レビ族は祭司階級としてユダヤでは尊敬されていた階級だったことから、彼は祭司階級であるのに徴税人になり、親族からも排除されて孤立していたのではないかと想像します。彼は徴税人であるために、社会から疎外され、差別されていました。その彼に評判の高いラビが声をかけ、弟子として招いてくれました。レビはその感謝の気持ちを示したいと願い、イエスと弟子たちのために食事会を催しました。
・席上にはレビの同僚である仲間の徴税人も招かれ、また「罪人」と言われる人々もそこにいました。ここでいう罪人とは犯罪者ではなく、律法を守らない、あるいは守れない人々、宗教的な罪人です。律法を守らない人々は罪人と断罪され、食肉業や皮なめし職人、動物を飼う羊飼い等の職業に就く者は不浄な者、汚れた者とされていました。その人々がイエスや弟子たちと同じ食卓についている。ファリサイ派の人々にとってそれはしてはいけない行為でした。だから彼らはつぶやきます「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」(5:30)。ファリサイ派、分離する者、律法を厳守し、自らの清さを守るために汚れた者から分離する故にそう呼ばれ、自ら「敬虔な者たち」と自称していました。
・その彼らにイエスは言われました「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」(5:31)当たり前の言葉と思われますが、文脈を考慮すれば、かなり辛辣な批判の言葉です。「病人」とはイエスの周りに来た徴税人や罪人を指し、「丈夫な人たち」とはそのイエスの交友を批判した律法学者たちを指します。それに続く言葉はもっと辛辣です「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(5:32)。イエスは「神の国に招かれるのはあなたがたではなく、あなたがたが批判するこの人たちだ」と言われているのです。この言葉は罪人として排斥されていた人々にはまさに福音でありますが、自分を正しいとする人々へは厳しい批判の言葉になっています。だからイエスはファリサイ派や律法学者たちから憎まれ、やがては十字架死へと追い込まれていきます。
2.自分は正しいとする人はそうでない人を排斥する
・イエスは「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。自らを正しいとする人は律法を守らない、あるいは守れない人を排斥することによって、自分の正しさを維持しようとします。現代のキリスト者の一部の人々は「キリスト者たる者は禁酒禁煙であるべきだ」と考えます。自分が禁酒禁煙の人は他の人々がお酒を飲み、煙草を吸うことに耐えらず、何時の間にか禁酒禁煙が信仰の中心、律法になってしまいます。日本にキリスト教を伝えた宣教師の多くは禁酒禁煙のピューリタン信仰の伝統の中で育って来ました。だから彼らは言います「あなたは酒を飲み、煙草を吸う。それでもクリスチャンですか」。これは「どうして徴税人や罪人と一緒に食事をするのですか。あなたは本当に教師なのですか」とイエスに詰め寄ったファリサイ派と同じです。イエスはカナの婚礼で水をぶどう酒に変えて「飲んで楽しみなさい」と言われました(ヨハネ2:11)。またレビたちの会食の場でもぶどう酒が振舞われ、イエスも飲んで楽しまれたと思われます。それなのにイエスに従う宣教師たちが、「お酒を飲む人々は地獄に堕ちます」と主張するのはおかしいはずです。しかしそれをおかしいと思わないのが律法主義の怖さです。
・ファリサイ派たちはイエスと弟子たちに迫りました「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と。ルカはパウロに従って異邦人伝道を行っていたギリシャ人であり、ルカの教会はユダヤ人と異邦人の信徒が入り混じっていた教会です。ユダヤ人から見れば異邦人は神の民ではない「汚れた民族」です。おそらく他のユダヤ人教会からは、「何故異邦人と共に食事をするのか」と非難されていたと推測されます。使徒言行録11章にローマ人百人隊長コルネリウスに洗礼を施したペテロがエルサレム教会に戻ると、仲間の使徒たちから、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」(使徒11:3)と非難されています。私たちの中にある差別意識が、いつの間にか私たちの信仰をゆがめてしまう出来事がここにあります。今、私たちの礼拝に汚い身なりのホームレスの人が突然参加されたら、私たちも眉を顰めるかもしれません。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と私たちも問われているのです。
3.律法ではなく福音を
・今日の招詞にルカ5:33-34を選びました。レビの召命に続く箇所です。「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています』。そこで、イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか』」。イエスの時代には敬虔な人々は週2回月曜日と木曜日に断食しており、断食しない者は律法を守らない者と批判されていました。レビがイエスを宴会に招いた日はその断食日に当たっていたのでしょう。「断食日に飲み食いするとは何事か、それでも律法の教師なのか」とファリサイ派はイエスに迫りました。
・それに対してイエスは答えられます「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」(5:35)。イエスは断食を否定されていません。しかし「今は婚礼の時ではないか、断食をするのは悲しみの時であり、今はその時ではない」と言われています。このすれ違いは「神の国」に対する理解の違いから来ます。パリサイ人にとって神の国に入るのは律法を守っている人々でした。だから彼等は必死になって律法を守ろうとしました。イエスにとって神の国に入る人は、神の招きに応える人でした。徴税人としてこれまで疎外されてきたレビが、悔改めてイエスの招きに応じました。「今日はそのレビが救われた祝宴の日ではないか、祝宴の日に何故断食するのか」とイエスは言われています。
・レビに代表される徴税人や罪人たちは、自分自身を正しいとは露ほども考えていませんでした。自分自身の罪を知りながら、しかし自分の力ではどうにもできず、苦しんでいました。イエスはそれゆえにレビを弟子に招かれたのです。ある牧師は述べます「イエスがレビを弟子として召されたのは、レビが弟子としてふさわしかったからではなかった。ただレビが医者を必要としていた病人であったからである」。この招きによってレビの人生は変えられていきます。
・イエスがレビに心を開き、彼に使命をお与えになったことを通して、レビは救われて行きました。この様な行動であれば、私たちも出来るのではないでしょうか。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(2:17)。今日の礼拝に来ているみなさんは、ある意味で「丈夫な人」であり、礼拝から心の糧をいただいて生かされています。皆さんには医者はいらないかもしれません。しかし医者を必要とする人がいます。「心身の病のために長く礼拝を休んでいる人々」を私たちは知っています。「心にわだかまりを抱え、礼拝に来ることのできなくなった人々」の顔を私たちは思い浮かべます。「礼拝に来る必要を認めなくなった人々」が私たちの周りにもおられます。その人々こそ、意識する、しないにかかわらず、医者の手当を待っている人々です。彼らこそ私たちのレビです。そして私たちがレビを訪問し、電話をかけ、週報を届ける行為を行えば、ルカ5章の物語が、再現されるのです。
・ファリサイ派の人々は、徴税人や罪人と交わるイエスを許せませんでした。この不寛容がイエスを十字架にかけました。その十字架を仰ぐ私たちはもうファリサイ派と同じ過ちを犯してはいけません。もしかしたら私たちは自分を「社会人として、家族人として、やましいところはない」と考えているのかもしれません。しかしその時、私たちもまたファリサイ派の罠に陥り、救いを求めて教会に来た人々を排除しているのかもしれません。「イエスがレビを弟子として召されたのは、レビが弟子としてふさわしかったからではなかった。ただレビが医者を必要としていた病人であったからである」。レビはイエスを必要としていた、だからイエスはレビを招いて下さった。私たちもイエスを必要としていた、だからイエスは私たちを招いて下さった。その招きに答えて、私たちもイエスに従う行動が求められているのです。