2019年3月17日説教(ルカ16:19-31、何もしなかった罪)
1.金持ちとラザロの物語
・聖書教育に従ってルカ福音書を読んでおります。本日はルカ16章後半の「金持ちとラザロの物語」を聞いていきます。「人が死んだらどうなるか」は、多くの人々の関心事です。しかし誰にも分らない。聖書でも死後の世界が語られている箇所は意外に少ない。その中で今日の「金持ちとラザロの物語」は、死後の世界を描く貴重な個所です。
・物語は三幕の劇のように構成されています。第一幕には金持ちとラザロの二人が登場します。金持ちは「紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(16:19)。彼は多くの農地を持つ地主で、働かなくても十分な地代が入り、裕福な生活をしていたのでしょう。彼は特に浪費家でもなく、また、雇い人を搾取しているわけでもありません。ただ、自分に与えられた富を自分のためだけに使っています。その金持ちの屋敷の前に貧乏人ラザロが連れて来られました。彼は飢えと病気で動けず、金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいと思っていましたが、ただ犬が来て傷をなめるだけでした。金持ちはラザロに無関心で、彼のために何もしませんでした。第一幕では、金持ちは金持ちのまま、貧乏人は貧乏人のままです。
・第二幕は22節から始まります。ラザロも金持ちも死にましたが、ラザロは天国でアブラハムと宴席についており、金持ちは陰府で火に焼かれています。第一幕では金持ちは贅沢に飲み食いし、ラザロは食べるものもありませんでしたが、第二幕では立場は逆転し、ラザロが宴席に着き、金持ちは苦しんでいます。金持ちは苦しさのあまり、天国のアブラハムに呼びかけます「父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。私はこの炎の中でもだえ苦しんでいます」(16:14)。
・生前に金持ちはラザロを貧乏人として馬鹿にしていました。今でもラザロを召使のように思っています。「ラザロを寄越して、私の苦しみを軽減させてください」と彼は求めています。アブラハムは金持ちの呼びかけに冷たく答えます「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(16:25)。さらにアブラハムは冷たく宣言します「私たちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない」(16:26)。人は生きている間に何をしたかで死後の運命が決まる。「自分のことしか考えなかったお前は神の国に入ることはできないのだ」と宣告されています。
2.生きている間に悔い改めよ
・三幕目は27節から始まります。金持ちは自分のことはあきらめましたが、兄弟のために救いの使者を送ってほしいと願います「私の父親の家にラザロを遣わしてください。私には兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(16:27-28)。金持ちは初めて自分以外の人のことを考えましたが、アブラハムはこの願いも拒絶します「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(16:29)。「モーセと預言者」、聖書のことです。
・律法は何を命じているか。申命記には次のような言葉があるではないか「どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」(申命記15:7-8)。また同じく申命記には書かれているではないか「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」(申命記8:17-18)。「モーセと預言者」、すなわち「聖書」に書いてある通りにすればよいのだと。
・金持ちは反論します「私も聖書は読んでいましたが、悔い改めることはしませんでした。もし、死者が生き返る等のしるしが与えられれば兄弟たちも信じるでしょう」。アブラハムは再度拒絶します「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(16:31)。聖書を通して神の御旨は明らかになっている、聞こうとしない者が悪いのだとアブラハムは言いました。しかし、神は私たちにもう一度機会を与えてくれました。それがイエスの死と復活です。だから私たちは「主は復活された。復活の主の言葉を聞け」と宣教を続けるのです。しかし、多くの人はその声に耳を傾けません。この金持ちのように、「聖書は読んでいましたが、悔い改めることはしません」。しかし「悔い改めない者は滅びる」(ルカ13:3)とイエスは言われます。
3.この小さき者にしたことは私にしたことだ
・この物語は因果応報を教えたものではありません。「今は貧しい人も来世では豊かになるから、現世の苦しみを耐えなさい」と言われているのでもありません。また、「金持ちは金持ちゆえに陰府で苦しむ」のでもありません。この金持ちは富を自分のためだけに用いた。神から与えられた富を自分のためだけに使うことは、不正であり、責任を問われることだと言われています。イエスは先に言われました「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる・・・しかし、富んでいるあなたがたは不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」(6:20-25)。
・物語の貧しい人の名前はラザロです。ラザロとは「エリアザル」の短縮形、「神の助けを必要とする人」という意味です。ラザロは何も無いから神に依り頼んだ、そして神は彼を「助けられた」。金持ちは富があるから富に依り頼んだ、その結果、神の救いからもれた。「人は神と富の双方に仕える事はできない」(16:13)、もし金持ちが生前のラザロに気を配り、彼を食卓に招いていたならば、彼もラザロの内に神がおられることを知り、何かを為すことができたでしょう。現在の幸福、自分の幸福だけを追い求める人は将来の滅亡を招くのです。
・今日の招詞にマタイ25:40を選びました。次のような言葉です「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。金持ちの罪は「何かをした」ことではなく、「何もしなかった」ことです。カール・バルトは1931年の説教の中で語ります「聖書において神と呼ばれている方を捜し訊ねる者は、その方をラザロの所で探し訊ねなければなりません。ラザロの傍らを通り過ぎる者が、神を見出すことは断じてないでしょう。金持ちの男は、自分の門前でラザロを横たわらせたままにしておき、ラザロを見ようともしなかった故に、神を見出さなかったのです。その故に後で地獄に苦しむしかなかったのです・・・もしあなたがラザロといかなる関りを持とうとしないのならば、あなたは神ともいかなる関りをも持たないのです」(カール・バルト「聖書と説教」p135)。私たちは隣人を通して神に出会う、「隣人の横を通り過ぎる者は神に出会うことはない」と語られています。その真意は、良きサマリア人のたとえにも通じます。倒れている人を見ないようにして通り過ぎた祭司やレビ人も救いから漏れるのです(ルカ10:31-32).
・この「金持ちとラザロ」の物語を、自分に語られた言葉と聞いて、人生が変えられた人がアルベルト・シュバイツアーです。シュバイツアーはその半生をアフリカの医療のために捧げた人ですが、彼がシュツトラスブルク大学の神学教授の職を捨てて、医者として赤道アフリカに行ったきっかけは、30歳の時にこの「金持ちとラザロの話」を読んだのがきっかけです。かれは自伝「水と原生林のはざまで」で書きます。「金持ちと貧乏なラザロとのたとえ話は我々に向かって話されているように思われる。我々はその金持ちだ。我々は進歩した医学のおかげで、病苦を治す知識と手段を多く手にしている。しかも、この富から受ける莫大な利益を当然なことと考えている。かの植民地には貧乏なラザロである有色の民が我々同様、否それ以上の病苦にさいなまれ、しかもこれと戦う術を知らずにいる。金持ちは思慮がなく、門前の貧乏なラザロの心を聞こうと身を置き換えなかったため、これに罪を犯した。我々はこれと同じだ」。
・私たちはシュバイツアーではありません。しかし、同じように「金持ちとラザロの話」を読みました。何かを行う事が求められています。私たちがクリスチャンであるかどうかは、私たちが人を愛するかどうかにかかっています。人を愛するとは相手に関心をもっていくこと、相手が困っていればそれを自分の問題として考えることです。具体的には、「自分の財布を開き、自分の時間を割く」ことです。申命記は私たちに警告します「富を築く力をあなたに与えられたのは主である」(申命記8:17-18)。私たちが持っているものは、私たちが手に入れたものではなく、神の憐れみによって与えられたのです。ですから、神から預けられたものを神に返していく。多くの人は、今を満ち足りることだけを求め、その先のことを考えようとしない。しかし彼らも死ぬ、その時に「どのように生きたか」の責任が問われるとイエスは語られます。
・この世で富んでいてもそれは一時的なものであり、死ぬ時には持っていけない、死ぬ時に持っていけないものに支配されるなと言われているのです。世の金持ちは、本当は不幸なのです。何故なら、彼は満ち足りているゆえに、この真理を知らないし、知ろうともしないのです。だからイエスは言われます「富んでいるあなたがたは、不幸である・・・今満腹している人々、あなたがたは、不幸である」(ルカ6:24-26)。私たちは経済的な貧しさや挫折や苦難を通して、この真理を知りました。だから、バプテスマを受けてキリスト者となりました。「そこからもう一歩踏み出しなさい。自分の財布を開いて、そのお金を天に積みなさい」と招かれていることを、今日は共に覚えたいと思います。