2019年3月10日説教(ルカ13:1-9、悔い改めなければ滅びる)
1.悔い改めなければ滅びる
・本日はルカ13:1-9の物語を共に読んでいきます。「悔い改めなければ滅びる」とイエスが強調されるルカ福音書だけにある話です。物語は、イエスが話しておられた時、何人かの人が来て、「総督ピラトが巡礼に行っていた私たちの仲間のガリラヤ人たちを神殿境内で殺した」と報告するところから始まります。イエスはガリラヤ人です。そしてイエスの話を聞いていた人々もガリラヤ人です。そのガリラヤ地方は、熱心党と呼ばれる反ローマ運動の中核となっていた場所です。イエスの弟子の中にも熱心党のシモンがいます(6:15)。ローマは熱心党の運動を社会の治安を乱すものとして警戒しており、総督ピラトが、反ローマ運動を行うガリラヤ人の集団がエルサレム神殿で犠牲の捧げものを捧げていたところを、武装兵士たちに襲わせ、殺した。それがルカでは、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と表現されています(13:1)。
・「仲間たちが神殿で礼拝をしている時にローマ総督に殺された、神はなぜこのような不条理を許されるのか」と人々はイエスに問い詰めました。それに対してイエスは答えられます「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(13:2-3)。当時のユダヤ教では、律法を守って罪のない生活をしていれば、災いが臨むことはないという因果応報を教えていました。だから人々は「仲間のガリラヤ人たちはなぜ殺されたのか、罪を犯したからなのか」と問うてきました。しかしイエスはこれを否定されました「決してそうではない。彼らが特に罪深かったのではない」。
・「神の宮で礼拝をしていた時に殺された」、これは当時のガリラヤの人々には衝撃的な事件でした。ピラトは冷酷な人物であったとされています。イエスを処刑する命令を出したのがこのピラトでしたし(紀元30年)、紀元35年には独立運動を行うサマリア人たちがゲリジム山で礼拝をしている時に、兵士たちに襲撃させ、多くの信徒たちを殺し、そのためにローマ皇帝に訴えられて更迭されています。民衆は、「礼拝する信徒を、神は殺されるままにされたのか、何故介入されなかったのか」とイエスに迫ったのです。
・歴史上、「神の摂理」疑われた大事件が、1755年11月1日に発生したリスボン大地震(マグニチュード9)です。その日はカトリック教会の「聖人の日」で、多くの信徒が礼拝に参加していましたが、突然の大地震で聖堂は崩壊し、引き続き起こった津波で多くの人が亡くなり、犠牲者は10万人を超えたとされています。カトリック国の中核の地で、大勢の信徒が教会堂で礼拝を捧げている時に、地震の直撃を受け、死んで行ったのです。人文学者ヴォルテールは「災害によってリスボンが破壊され、10万人の人命が奪われた、神はなんと無慈悲なのか」と語り、人々の信仰は大きく揺すぶられました。この時、「地震は地球の地殻変動によって起きるのであり、神の裁きではない」と主張したのが、哲学者のインマヌエル・カントです。
・イエスは次にシロアムの塔崩壊で死んだ十八人の例を示し、「彼らもまた罪の罰で死んだのではない。あなたたちも悔い改めなければ同じように滅びる」と戒められます(13:4-5)。このシロアムの塔は大規模な水道工事のために建てられた水道塔であったようです。ピラトはこの水道工事の費用に充てるためにエルサレム神殿の金庫から多額のお金を引き出し、それに抗議したユダヤ人たちに軍隊を差し向けて、多くの死傷者を出しています。そのようないわくつきの水道の塔が建築工事中に倒れ、工事に従事する人々が亡くなったようです。当時ファリサイ派の人々は「異教徒のローマ人に協力したから天罰が当たった」と言いましたが、イエスは明確にこれを否定されたとルカは伝えます。
2.現代の私たちは因果応報を信じていないが
・現代の私たちは災害や病気が神から来るのではなく、それぞれに原因があることを知っています。創価大学の中野毅氏は論文の中で語ります「多くの国民は、3.11に東日本を襲った大震災や福島原発事故を、『神の怒り』や『宿業』などとは考えていない。われわれは巨大地震発生の自然的メカニズムを知っており、原発の有効性とともに、制御不能なほどの危険性も知った。宇宙の誕生から人類としての進化過程も解明されてきた。病気を引き起こす遺伝子メカニズムも分かってきた。そして、それらが招く災害や被害への対策・対処も,経験科学的な知識と技術によってのみ可能であり、祈りや呪術では解決できないことを知っている。われわれは運命、宿業、神の命令などの超越的な存在や時間に依拠しない生活を始めており、天災や人災、飢餓や病気への対策も、宇宙や世界の捉え方も、世俗的な時間や空間において考えている」(創価大学社会学報、2012.3)。
・しかし、その現代人も、「大災害の中で、私は生き残って、あの人は亡くなった。何故なのか、これからどのように生きていけばよいのか、という実存的な問いに応えることはできない」と中野氏は語ります。ここにイエスが2000年前に提起した問い「悔い改めなければ滅びる」が、今日においてもなお大きな意義を持つことが示されます。そのイエスが語られた回答が、次に来る「実のならない無花果のたとえ」です。
・葡萄と無花果はイスラエルの象徴ですが、その無花果の木が三年たっても実がならず、園の主は木を切り倒せと命じます(13:6-7)。譬えの葡萄園主は神で、無花果の木はイスラエル民族を指しているのでしょう。何年経っても悔い改めの実を結ばないイスラエル民族を滅ぼせと神が命じられます。それに対して園丁が答えます「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」(13:8-9)。無花果の木を伐採せよと命じられた園丁は、「もう一度手入れし肥料を与えますから、伐採を待って下さい」と主人に願います。園主は神で、無花果の木を懸命にかばう園丁はイエスでしょう。神はいつまでも実を結ばない私たちに対して、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と宣言されます(3:10)。しかしイエスの執り成しによって、私たちは切り倒される危機を猶予されただけでなく、新たに肥料が与えられることを通して、再生の機会が与えられます。
3.不条理を超えて生きる
・今日の招詞に、ロ-マ8:34を選びました。次のような言葉です。「だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活された方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです」。人生は予測不能な出来事で満ちています。3.11の大震災も人間には予測不能な出来事でしたが、出来事に遭遇した人々の人生は大きく変えられていきました。その3.11の東北大震災から8年が経ちました。原発事故の影響もあって、未だに10万人以上の方が避難生活を送っておられます。
・今回の震災を通して、「神が創造した世界において、何故多くの人々が悲惨な体験をしなければならないのか」ということが、繰り返し問われて来ました。大震災において2万人以上の人々が犠牲になり、生き残った人たちの中には家族を失い、家を失い、工場や商店を失い、身よりも財産もなくなった人たちがあります。町や建物が復興しても、家族を亡くした方々の心は復興していません。先に引用しました創価大学・中野毅先生が問われた問い、「大災害の中で、私は生き残って、あの人は亡くなった。何故なのか、これからどのように生きていけばよいのか」は、答えられていないからです。
・東北学院大学・原口尚彰先生は震災直後の2011 年6 月7 日に「神への問い」と題する説教をされました。先生は語ります「全能の神が創造主であり、世界はすべて主の御手の内にあるのなら、何故このようなことが起こるのか、罪ない人が被災し苦しむのはどうしてなのかという問いは、心の中に絶えず生じて来ます。実際に同様な問いを東日本大震災に関して、日本に住む少女がローマ教皇に問うたところ、教皇は率直に『自分も同じような疑問を持っている』と述べたそうです」。誰にも答えられない問いなのです。
・先生は続けられます「良く考えてみると、この問いは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(我が神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか)」という十字架上のイエスの問いでありました(マルコ15 : 34)。神の子が、何故拷問を受け、断罪され、極悪人のように十字架刑を受けなければならなかったのかということは大きな謎であり、不条理でした。それは、そのような不条理な苦しみの中にある人間と共にイエスは歩み、その苦しみを共に担い、共に問い続けて下さるということに他ならないと思います」(東北学院大学『説教集』第16 号、2012 年3 月から)。
・不条理を超える力を人に与えるものがイエスとの出会いです。夜通し漁をして何も取れなく失望していたペテロがイエスの言葉に従って網を下した時大量の魚が採れ、ペテロはイエスの弟子となって行きます(5:1-11)。町中の人から嫌われていた徴税人ザーカイもイエスと出会うことによって、新しい命に生きる者となりました(19:1-10)。私たちもある時、イエスに出会い、従うように招かれて、この教会堂にいます。私たちは、私たちと共に不条理を経験された方が今、天におられ、私たちの叫びに耳を傾けていて下さることに、希望をかけています。「悔い改めなければ滅びる」ということは、「悔い改めれば滅びない」ということです。ルカは16章「金持ちとラザロのたとえ」の中で、金持ちに語らせます「父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」(16:30)。しかしアブラハムは答えます「もし、モーセと預言者(すなわち聖書)に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(16:31)。聖書を一人で読んでも駄目であり、だれか伝える者がいなければ悔い改めは生じません。「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」(ローマ10:14)。伝える者として、私たちがここに存在するのです。