1.姦淫は隣人をむさぼる故に罪である。
・マタイによる福音書の山上の説教を読んでいます。今日はその五回目で、主題は「姦淫してはいけない」です。「姦淫」と言う言葉を辞書で引きますと「男女が不倫な肉体関係を結ぶこと、あるいは個人の性的自由を侵害する犯罪」とあります。しかし、イスラエルの律法の基本であります十戒では「姦淫するな」という戒め(第七戒)は、「隣人の妻を貪るな」という戒め(第十戒)と共に読まれてきました。姦淫が罪になるのは相手の女性が人妻の場合だけであり、それは夫の所有物に対する侵害として禁じられたのであり、自己の不倫あるいは妻の不貞として禁じられたわけではありませんでした。つまり、人に対する罪ではなく、財産あるいは所有権の侵害の罪として禁じられていたのです。
・イエスはそのことの不合理を追求されました。イエスは姦淫を、所有物の侵害行為としてではなく、「人間の尊厳に対する罪」とされたのです。イエスは言われました「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。新共同訳は「他人の妻」と訳しますが、口語訳では単に「女」と訳されています「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。原文には「他人の妻」という言葉はありません。口語訳のように「女」と訳さなければ、イエスの真意は伝わりません。他人の妻であろうが、独身の女性であろうが、「情欲をいだいて女を見る者」はすべて罪を犯すと言われています。男性が情欲をいだいて女性を見る時、女性を人格ある存在として、愛の対象としてではなく、情欲を満たすための性の道具にしてしまっている。これこそ隣人である女性を貪る行為だとイエスは言われているのです。
・罪を最初に犯すのは目です。情欲をいだいて女を見る故に、まずその目をえぐり出して捨てよと命じられます。また罪を実行するのは手です。だから、手を切り落とせと命じられています。イエスは言われます「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」(5:29-30)。初代教会のある者たちはイエスの言葉を受けて、砂漠で禁欲の修道生活に入りました。砂漠で美しい女性の誘惑に耐える「聖アントニウス」が絵画で有名ですが、禁欲すればするほど、姦淫の誘惑が迫ってきました。姦淫の罪は禁欲によっては防げないのです。
・「姦淫の戒め」を考える時、大事なことは、聖書が男女の正常な性的営みを禁止しているのではないことを知ることです。それどころか、神は男女が肉体の交わりをすることによって、新しい命を生み出すことを祝福されています。創世記1:27-28は言います「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。男女の性的な営みを通して、命が創造されることを神は祝福しておられるのです。しかし、「情欲をいだいて女を見る」ことによって、そこに「人格を殺す」という罪が生まれます。
2.愛を持って姦淫の罪を贖われる主
・ユダヤ史で最大の王といわれるダビデは、その目でまず罪を犯しました。ダビデは家臣ウリヤの妻バテシバが水浴する姿を見て、美しい彼女に情欲をいだき、王宮に招き入れ、床を共にします。そしてバテシバが妊娠すると、夫ウリヤが邪魔になり、はかりごとを用いて彼を殺し、バテシバを自分のものにします。それを聞いた預言者ナタンはダビデを訪れ、追及します「たくさんの牛と羊を持った男が、たった一匹の雌の子羊しか持っていなかった貧しい男から、その子羊を取り上げてしまった」。ダビデはこの話を聞き激怒して叫びます「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」(サムエル記下12:5)。ナタンはダビデに迫ります「その男はあなただ」。王の座にある慢心から、ダビデは女を辱め、夫の命までも奪ってしまったのです。全ては「情欲を持って女を見た」ことから始まりました。情欲は人間を死にいたらせる力を持っています。
・イエスは性の営みを禁止されているのではありません。ただ、性の営みが、「情欲を持ってなされる時、それは人を殺すほどの罪になる」と言われているのです。ちょうど、兄弟に対して腹を立てる行為が、やがてはその兄弟を殺すにいたる端緒になるように、です。イエスは無意味に厳しいだけの方ではありません。そのような罪の縄目にいる人間を、愛を持って救おうとされます。ヨハネ8章の「姦淫の女の物語」はその一つの例です。「律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか』」(ヨハネ8:3-5)。イエスを罠にかけるために、律法学者たちが、姦通をした女性を連れてきました。ここに男はいません。裁かれるのが女性だけであるのは、ユダヤ律法の特色です。答えを督促する律法学者にイエスは言われます「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。
・これを聞いた者たちは誰も女に石を投げることが出来なくなりました。何故なら「罪を犯したことのない者はいなかった」からです。みんなが去った後、イエスは女に言われます「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。そして続けて言われます「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。イエスは人間の弱さを知っておられ、それゆえに「罪を裁く」のではなく、「悔いる者には赦しを」、そして、赦された者には「もう罪を犯してはならない」と励ましを与えられます。この女性は、イエスの十字架を目撃し、その墓にまで従っていった、マグダラのマリアではないかと言われています。愛の赦しをいただいた者は、今までと同じように生きることは出来なくなるのです。
3.「姦淫してはならない」から、「愛し合いなさい」へ
・姦淫は弱者を傷つけ、痛めます。故にイエスは理由なく妻を離縁することを禁じられました。5:31以下の言葉です「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、私は言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」。ユダヤ教の戒めでは、男は離縁状を渡せば妻を離縁できました。妻の料理が下手であれば離婚できましたし、妻が子を産まない場合は新しい妻を迎えることも出来ました。より美しい女が現れた時には妻を離婚して再婚することさえ許されました。イエスはこのような男性優位の、女性の人格を無視した規定を改められ、不品行以外の離婚を禁止されたのです。今日の招詞にマルコ10:6-9を選びました。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6-9)。
・情欲に基づく性行為こそ姦淫であり、それは他人の家庭を破壊し、自分の家庭をも破壊します。今日の日本では三組に一組は離婚し、離婚理由のトップは不倫です。離婚は夫婦相互を苦しめるだけでなく、子どもたちも傷つけていきます。情欲を制御できない時、何が起こるかを、今年の東大入学式の祝辞で上野千鶴子さんが指摘されました。上野さんは語ります。「東大工学部と大学院の男子学生5人が、私大の女子学生を集団で性的に凌辱した事件がありました。加害者の男子学生は3人が退学、2人が停学処分を受けました。この事件をモデルにして姫野カオルコさんが『彼女は頭が悪いから』という小説を書き、昨年それをテーマに学内でシンポジウムが開かれました。「彼女は頭が悪いから」というのは、取り調べの過程で、実際に加害者の男子学生が口にした言葉だそうです」。「彼女は頭が悪いから」、それに対して自分は東大生だから何をしても許される、その結果、相手の女性が傷ついてもかまわないという傲慢が事件の背景にあります。この傲慢こそが姦淫です。姦淫とは人格に対する罪なのです。
・創世記によりますと、「人間は神の形に創造され」(1:26)、そしてエデンの園には「善悪を知る木の実」を置かれた(2:9、17)とあります。人は善悪を判別できるものとして造られたのです。動物は本能の命じるままに性行為を行い、子孫を生みます。しかし人間は本能の命じるままに性行為を行う、つまり「情欲をもって相手を見る」とき、そこに悪が生じることを知る存在なのです。それが人間の人間たるゆえんです。だからイエスは、男女それぞれが役割をもって、愛し合って生きなさいと語られます。パウロはイエスの教えを受けて、語ります。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、そのほかどんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいという言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:9-10)。神に愛された者は、人を傷つけることはもう出来ない。「姦淫するな」という禁止命令は、神を知ることを通して、「愛し合いなさい」という奨励になり、完成されるのです。