2019年11月3日召天者記念礼拝説教(ヨハネ11:17-27、私を信じる者は死んでも生きる)

投稿日:2019年11月2日 更新日:

1.ラザロの死

 

・今日、私たちは召天者記念礼拝を行います。私たちの教会では毎年11月第一主日に召天者を覚える礼拝を行いますが、これは教会暦で11月第一日曜日が「聖徒の日(死者の日)」、亡くなった信徒たちのために祈る日にしていることを覚えてのことです。私たちの教会ではこの日に召された方々のお名前をお呼びし、死の意味を共に考えていきます。召天者記念礼拝の今日、ヨハネ11章から、ラザロの復活物語を読みます。イエスが死んだラザロを墓からよみがえらせる物語です。死者の復活は、信じることの出来ない人には、つまずきの物語です。哲学者のスピノザは述べます「もし誰かが、私のために、ヨハネ11章・ラザロ復活の記事の真実を立証ししてくれるなら、私はこれまでの著作の全てを廃棄して、クリスチャンになる」と(内村鑑三聖書注解全集・ヨハネ伝p181より)。今日は、ラザロの復活物語を通して、私たちは生と死をどのように受け止めるべきかを共に学んでいきます。

・物語は、ベタニア村のマルタとマリアが、「弟ラザロが危篤なので、すぐ来て欲しい」という使いを、イエスに出すところから始まります。ベタニア村のラザロとその姉妹たちは、イエスと親しい交わりを持っており、イエスがエルサレムに来られる時は、いつもベタニア村に泊まられたようです。そのラザロが病気になり、危篤になりました。イエスは当時ヨルダン川に向こう側におられ、大勢の人たちがイエスの周りに集まり、すぐに動けなかったため、なお二日そこに滞在されてから、ベタニア村に向かわれました。イエスが着かれた時には、ラザロは、既に死んで四日が経っていました。

・ラザロの姉マルタは、イエスが来られたとの知らせを受けて村の外まで迎えに行き、イエスに言います「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(11:21)。「なぜ弟が生きているうちに来て下さらなかったのか、もう彼は死に、救いの望みはない」という恨みの言葉です。それに対してイエスは答えられます「あなたの兄弟は復活する」。マルタは言います「終わりの日に復活することは存じております」(11:24)。しかしイエスが言われたのは、いつかではなく、今、ラザロが生き返るということでした。イエスは言われました「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(11:25-26)。神は死んだ人をもよみがえらせることが出来る、これを信じるかとイエスは言われたのです。死んだ者が生き返るなど聞いたこともないし、見たこともない。マルタも信じることは出来ません。マルタの答えは的外れのものでした「主よ、あなたが神の子、メシアであると信じています」(11:27)。

 

2.ラザロの復活

 

・葬儀や埋葬の時、私たちは亡くなった人をしのんで泣きます。死んだ人が、もう私たちの手の届かない世界に行ってしまったからです。しかし、イエスは「泣く必要はない」と言われました。イエスはラザロが危篤だと知らされても、すぐに動こうとはされませんでした。ラザロが死んだことを知られた時に弟子たちに言われました「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く」(11:11)。イエスにとって死とは父なる神の御許に帰ることであり、悲しむべきことではなかったのです。

・しかし、マルタが泣き、その姉妹マリアもまた悲しみに打ち負かされている様を見られ、イエスは心に憤りを覚えられました。死が依然として人々を支配しているのを見て、憤られたのです。そしてマルタに言われました「墓の石を取り除きなさい」。マルタは答えます「四日も経っていますからもうにおいます」。イエスはマルタを叱責されます「もし信じるなら神の栄光が見られると言ったではないか」(11:40)。人々が石を取り除いたのを見ると、イエスは墓に向かって呼ばれました「ラザロ、出てきなさい」。死んで葬られたラザロが、手と足を布で巻かれたままの姿で出てきました。

・イエスはラザロが危篤であるとの知らせを受けた時に言われました「この病は死で終わるものではない」(11:4)。イエスは「ラザロの病気の終わりは死ではない」と言われたのです。このイエスの言葉に触発されて、「死に至る病」を書いた哲学者キルケゴールは著作の中で語ります。「“この病は死に至らず”、ラザロが死の中から呼び覚まされたとしても、彼は再び死ぬ。ラザロが死の中から呼び覚まされたから、“この病は死に至らず”ではない。よみがえりであり、命であるキリストがそこにいますから、それだからこの病は死に至らないのである」。それに対して、主イエスがそこにいない時は、その病は「死に至る病」になります。キルケゴールが語る「死に至る病」とは絶望です。神を知らない人生は最後には絶望しか残らないのです。「私を信じる者は死んでも生きる」、しかし信じることのできない者は死に放置されます。

・ここで言われている命は肉体的な命のことではありません。ギリシャ語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあります。ビオスとは生物学的命、ゾーエーは人格的な命を指します。復活をビオス、肉体の問題と考える時、人は混乱します。ラザロが生物学的によみがえっても、それは奇跡ではあっても、本質的な問題ではありません。彼は再び死ぬからです。しかし、復活はゾーエー(人格的命)の問題です。大事なことはラザロのよみがえりを通じて、「イエスの復活」がここに宣言されていることです。「私は復活であり、命である」、この言葉こそがヨハネ11章の中核です。私たちは、この世を「生ける者の地」、あの世を「死せる者の地」と考えていますが、真実は違います。全ての人が死にますから、この地上は「死につつある者の地」なのです。しかし、イエスの復活を信じる時、状況は変わります。イエスを信じる時、この地上が「生ける者の地、死に支配されない者の地」に変わるのです。

 

3.愛が人を復活させる

 

・今日の招詞にマルコ9:23-24を選びました。次のような言葉です「イエスは言われた。『できればと言うか。信じる者には何でもできる』。その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のない私をお助けください』」。イエスの下にてんかんに苦しむ子を持つ父親が来て、息子の病をいやしてほしいと頼みました。その時、息子は地面に倒れ、転びまわって泡を吹いていました。イエスは父親に「いつからこのようになったのか」とおたずねになります。父親は答えます「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください」。

・それに対して言われた言葉が今日の招詞です。「できればと言うか。信じる者には何でもできる」。父親は叫びます「信じます。信仰のない私をお助けください」。この切実な叫びが応えられ、てんかんの子はいやされました。そのいやしにより、父親は信じることの出来る者、永遠の命を持つ者になりました。ここで救われたのは、てんかんの子であると同時に、その父親なのです。この父親は私たちです。私たちも、わからないままに、確信がないままに叫びます「信じます。信仰のない私をお助けください」。

・ラザロの復活は、ドストエフスキーの小説「罪と罰」の主題として用いられていることでも有名です。主人公ラスコリニコフは、貧しい学生でしたが、自分のように才能のある若者が貧乏にあえぎ、何の将来性もない金貸しの老婆がたくさんの金を持っているのは不合理であるという思い上がった気持ちから、金貸しの老婆を殺して金を奪います。しかし、実際に殺して金を得ても、良心に責められ、そのお金を使うことも出来ません。その彼が、娼婦ソーニャと知り合います。ソーニャは家族を助けるために娼婦に身を落としていますが、心は純真なままです。彼女はラスコリニコフのために、ヨハネ福音書「ラザロの復活」を読みます。それを聞いて心を動かされたラスコリニコフは自分の罪を認め、自首し、やがてシベリヤの流刑地に送られます。ソーニャはシベリヤまで彼について行きます。地の果てのような所で数年を過ごした後、復活祭過ぎのある朝、蒼白くやせた二人は、川のほとりでものも言わずに腰を下ろしていました。突然、彼は泣いてソーニャの膝を抱きしめます。彼女の無私の愛が、遂に彼を深く揺り動かしたのです。「二人の目には涙が浮かんでいた。・・・愛が彼らを復活させたのである」とドストエフスキーは書いています。

・ドストエフスキー研究家の井桁貞義氏(早稲田大学文学部教授)は述べます「ドストエフスキーが作家として活動するなかでいつも手もとに置いていた新約聖書は現在モスクワのレーニン図書館に保存されており、ヨハネによる福音書第11章19節-23節、「罪と罰」でラスコリニコフの願いによってソーニャが朗読する「ラザロの復活」の箇所には始めと終わりがインクでマークされ、小説ではイタリック体で強調されている25節『私は復活であり、命である』には鉛筆で下線がほどこされています」。ドストエフスキーは復活を信じることの出来なくなった私たち現代人のために、この小説を書いたのです。

・愛が彼らを復活させた。イエスの愛は、ラザロのよみがえりを通して、悲しみに沈むマルタとマリアの姉妹を復活させました。イエスの愛は十字架で逃げ去った弟子たちに再び現れることを通して、弟子たちを復活させました。イエスの愛はソーニャの信仰を通して殺人者ラスコリニコフを復活させました。復活は人を生かす力を持っているのです。イエスは言われました「私は復活であり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。このことを信じるか」。復活を愚かなこと、信じるに値しないこととして捨てることは簡単です。しかし、捨てても何も生まれない。私たちは全てを知っているわけではない。復活の出来事の中に真理がある、復活の出来事を通して、人は命である神に出会うのです。

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