2019年11月24日説教(マタイ5:38-48、敵を愛しなさい)

投稿日:2019年11月23日 更新日:

1.敵を憎むのは当然だ

 

・マタイ福音書を読んでいます。イエスはガリラヤ湖畔の丘の上で、弟子と群集を前にして、説教されました。この山上の説教の中でも、有名な言葉の一つが、今日の聖書個所「敵を愛しなさい」(5:44)です。イエスは言われました「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5:43-44)。「隣人を愛せ」とはレビ記19:18に書いてありますが、後半の「敵を憎め」とは聖書のどこにも書かれていません。多くの民族が狭い地域に混在して住むイスラエルの人々にとって、隣人とは同じ民族の人々、同朋のことであり、同朋でないものは敵でした。

・パレスチナの人々は高い城壁をめぐらした町の中に住み、敵が攻めてきた時には、城門はいつでも閉めることができる構造になっていました。城門の内側にいる人だけが隣人であり、城門の外にいる人々は何をするかわからない人々、敵であり、敵を愛することは彼らにとって身の危険を意味しました。だから、人々の理解では「隣人を愛するとは、隣人でない者=敵を憎む」ことだったのです。その人々にイエスは、「敵を愛しなさい、城門の外にいる異邦人もまたあなたの隣人ではないか」と言われたのです。

・敵を憎むのは人間にとって自然の感情です。「人が愛するのは自分を愛してくれる人であり、人が挨拶するのは自分の兄弟だけ」です。私たちの生活を見ても、私たちが愛するのは自分の家族であり、友人であり、同僚です。共同体の内側にいる人が隣人であって、外にいる人は敵、あるいは無関係の人であって、愛する対象ではありません。しかし、イエスは言われます「あなた方は私の弟子ではないか。取税人でもすること、異邦人でもすることをして十分だとすれば、あなた方が私の弟子である意味は何処にあるのか」。イエスは続けて言われます「あなた方は私を通して父なる神に出会った。そして、神の子となった。天の父が何を望んでおられるのか。父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(5:45)。「父はあなた方が敵と呼び、悪人と呼ぶ人たちも愛されている。だから、あなた方も父の子として敵を愛せ。父が完全であられるようにあなた方も完全であれ」(5:48)。
・古代において、イエスの時代においても、敵を愛するのは危険でした。現代でもそうです。多くの人々はイエスの言葉はあまりにも理想主義的であり、非現実的だと考えます。人々は言います「愛する人が襲われた時、愛する人を守るためには力の行使も止むを得ない。そうしなければ、この世は不正と暴力で支配される。悪を放置すれば、国の正義、国の秩序は守れない。力には力で対抗するしかないではないか」。この論理は古代から現代まで貫かれています。軍隊を持たない国はないし、武器を持たない軍隊はありません。武器は敵を殺すためにあります。襲われたら、襲い返す、その威嚇の下に平和は保たれています。

2.しかし、イエスは敵を愛せよと言われた。

 

・イエスはこのような敵対関係を一方的に切断せよと言われます。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かが、あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(5:38)。人々はイエスを理解することが出来ません。カール・マルクスは言います「あなた方はペテンにかけられても裁判を要求するのは不正と思うのか。しかし、使徒は不正だと記している。もし、人があなた方の右の頬を打つなら左を向けるのか。あなた方は殴打暴行に対して、訴訟を起こさないのか。しかし、福音書はそうすることを禁じている」。

・マルクスにとって、山上の説教は愚かな、弱い人間の教えに映りました。彼は殴られたら殴り返すことが正義であると信じ、その正義が貫かれる社会を作ろうとしました。彼の弟子レーニンやスターリンはマルクスの意志を継いで、理想社会としての共産主義社会を目指しましたが、それは化け物のような社会になってしまいました。殴られたら殴り返すことが正義である社会においては、仲間以外は敵であり、敵とは何をするか解らない、信用の出来ない存在です。人間がお互いを信じることができない社会においては、人間は他者を排斥します。だから共産主義社会では、必ず「血の粛清」が起こります。自分以外の人間は信じられない故に、自分の地位を脅かす存在を殺したり、収容所に投獄したりします。毛沢東やスターリンは何百万人もの人を殺したと言われています。敵を愛さない限り、平和は生まれないことを歴史は示しています。

  • 敵を愛する時、平和が生まれる。

 

・今日の招詞にローマ12:19-21を選びました。次のような言葉です。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われると書いてあります。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。「復讐する」とは「敵を憎むこと」です。その場合、敵意はいつまでも残ります。だからイエスは、「敵を愛しなさい」と語られ、パウロはイエスの言葉を受けて、迫害の中にあるローマ教会に手紙を送りました。それが招詞の言葉です。「神は天だけではなく地も支配しておられるのだから、すべてを神に委ねて静かに待て」と彼は語りました。しかし人は「神に委ねて静かに待つ」ことができず、自分の手で報復をしようとします。

・2001年9月11日に無差別テロがアメリカを襲い、NY貿易センタービルが破壊され、2973人が殺されました。アメリカ大統領G.ブッシュは「テロとの戦い」を宣言し、アメリカ国内では「仕返しと報復を立法化せよと要求する怒りの声」が巻き起こり、町には星条旗があふれ、「アメリカに忠誠を誓わない者はアメリカの敵だ」との大統領声明が出されます。その中で教会は祈ります「復讐を求める合唱の中で『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』と促されたイエスの御言葉に聞くことが出来ますように」。アフガニスタンに対する空爆が始まると、教会はさらに祈ります「キリストは全ての人のために贖いとして御自身を捧げられました。キリストはアフガニスタンの子供や女や男のために死なれました。神はアフガニスタンの人々が空爆で死ぬことを望んでおられません。国は間違っています、神様、為政者のこの悪を善に変えて下さい」(ジェームズ・マグロー「グランド・ゼロからの祈り」から)。祈りにも関わらず、アフガニスタンは攻撃され、イラクへの軍事攻撃も始まりました。イエスの教えは無力なのでしょうか。

・10年年後の2011.6.29にニューズウィークは次のような記事を掲載しました「9・11の同時多発テロで、亡くなった人数は2973人だった。テロ報復のための戦争で死者は総計22万人になった。この数字を見て、あの戦争にブッシュによって、煽られて突進していったアメリカ市民はどう思うのだろう。それに同調したマスコミは、何と思うのだろう。煽動にのった国民、わが子を兵士として送ってわが子を亡くした国民は、どのような思いで、この数値をみるのだろう。戦争の方便となった大量殺人兵器は、結局存在しなかった。アメリカにとって、アメリカに同調したヨーロッパ諸国にとって、この数値は一体何だろう。米軍戦死者6000人は9・11の同時多発テロで亡くなった2973人を大幅に超えている。米軍帰還兵は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩み、就職難に面している。支出186兆円、アメリカ国民の税金が戦地で、悪戯に消耗されてしまった。アメリカよ、一体全体あなた方は、何をしていたのだろう」。イエスの言葉を、そしてパウロの言葉を真剣に聞かなったアメリカは苦悩の中にあります。聖書の言葉は生きているのです。

・「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」、この偉大な言葉こそ争いを平和に変えるのです。「キリストの十字架が敵意を滅ぼす」(エペソ2:14-16)とパウロは語ります。平和が生まれないのは、敵が敵であり続ける為であり、キリストを信じることによって、私たちは敵意と言う隔ての壁を取り除くことができます。何故ならば、キリストは敵のためにも死なれたからです。イエスは十字架上で自分を殺そうとする者に対して、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と祈って死んでいかれました。イエスの弟子たちはイエス亡き後、宣教を始めますが、弟子たちにも迫害の手は容赦なく襲い掛かります。弟子の一人ステパノは石打の刑で殺されますが、その時、彼は「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫んで死んでいきました(使徒7:60)。イエスの言葉がステパノにおいて祈られました。その後、教会はローマ帝国によって迫害されていきますが、イエスの弟子たちは迫害の中で為政者のために祈り、報復せず、伝道しました。イエスの十字架から300年後、キリスト教はローマの国教になります(313年ミラノ勅令)。報復しなかった敗者が力を誇った勝者を征服したのです。「善をもって悪に勝て」というパウロの言葉が世界史の中で成就したのです。
・私たちは敵を好きになることはできません。「好き」は感情であり、私たちは感情を支配することはできないからです。しかし、敵を愛する愛、アガペーは感情ではなく、「意思」です。イエスは言われました「自分を迫害する者のために祈れ」、嫌いな人を好きになることはできなくとも、彼らのために手を合わせることはできる。嫌いな人、自分の悪口を言う人のために祈るという実験を私たちも始めるべきです。祈り続ける時、私たちは、「憎しみが愛に変わっていく」体験をします。祈りながら、その人を憎み続けることはできない。何故ならば、神の赦しを乞い求めながら、他方で兄弟の赦しを拒むことはできないからです。

・この時、私たちは「神の子」となります。「父が完全であられるようにあなた方も完全であれ」、ルカは別の表現で語り直します。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」 (ルカ6:36)。パウロは言いました「知識(グノーシス)は人を高ぶらせるが、愛(アガペー)は造り上げる」(第一コリント8:1)。アガペーの愛は相手の悪を数えないゆえに、その愛は人を造り上げます。神から憐れまれた者、赦された者、愛された者ゆえに、私たちはアガペーへの道、敵を憎まない道に導かれています。「敵のために祈る」、これは私たちキリスト者だけに許されたことなのです。

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