2019年10月6日説教(マタイ5:1-12、貧しい人々は幸いである)

投稿日:2019年10月5日 更新日:

  • 山上の説教

 

・本年10月から11月は、マタイ福音書から「山上の説教」を聞いていきます。「貧しい者は幸いである」、有名な御言葉ですが、何故「貧しい者が幸いなのか」については議論が分かれます。私たちはこの言葉をどう読むのか。イエスは故郷ガリラヤでその宣教を始められました。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された」(4:23)。イエスの宣教は、「御国の福音を宣べ伝える」ことと、「病気や患いを癒す」ことの二つが働きの中心でした。その伝えられた「御国の福音」を、マタイは「山上の説教」として、私たちに提示します。

・イエスは多くの人々の病気や患いを癒され、悪霊を追い出されました。イエスの力ある業を見て、大勢の群衆がイエスのもとにやってきます。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(5:1-2)。イエスは人々を祝福して言われます「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(5:3)。次にイエスは「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(5:4)。そしてイエスは、「柔和な者」、「義に飢え渇く人」、「憐れみ深い人」、「心の清い人」への祝福の言葉を述べられます。

・何時の時代でも人々は幸福を求めます。イエスのもとに集まってきた大勢の人々も幸福を求めていました。ある者は長い間苦しめられている病気を治してもらいたいと願い、別の人は食べるものもない貧乏から解放されたいと集まって来ました。彼らはいずれも「現在の情況さえ変われば、この苦しみさえ取り除かれれば、幸福になれる」と思っていました。しかし、イエスは、「あなた方は貧しい、しかし貧しいからこそ幸いである。あなた方は悲しんでいる、悲しんでいる者こそが幸いなのだ」と言われました。弟子たちも群衆もイエスの言葉を聞いてびっくりします。貧しいことが幸いであり、悲しむことが良いことであるとはとても思えなかったからです。
・私たちも思います「何故貧しい者が幸いなのか、貧しい者が富むようになることが幸いなのではないか。悲しんでいる者の悲しみが取り除かれることこそ幸いと言えるのではないか」。地を継ぐのは力の強い者であって、柔和な者はこの世では捨てられる。憐れみ深いことをしていたら社会の落伍者になってしまうし、心が清いということも世の中では通用しない。イエスはここで、世の中では通用しないことを言っておられます。

 

  • 心の貧しい人々は幸いである

 

・イエスは「貧しい人々は幸いである」と言われました。ここでの「貧しい」には、ギリシャ語「プトーコス」という言葉が用いられています。「極貧者、物乞い」を意味する言葉です。イエスは物乞いを必要とするような貧しい人々を祝福されたのです。そしてイエスは「悲しむ人々」を祝福され(5:4)、「義に飢え渇く人々」を祝福されました(5:6)。何故、「貧しい」「悲しい」、「飢える」等の、この世的に見れば災いとなる事柄を、「幸い」とイエスは言われたのでしょうか。ここでは、「貧しい者が富むようになるから幸いだ」とは言われていないことに留意すべきです。

・山上の説教には、マタイ版の他に、ルカ版があり、ルカ版では「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」(6:21)となっています。マタイに比べるとルカの方がわかりやすい。「飢えている人々は満腹できるようになるから幸いだ。泣いている人は笑うようになるから幸いだ」と語られています。「貧しい者が富むようになるから幸いだ」と語らないマタイ版とは対照的です。ある意味、ルカはイエスの言葉をこの世の常識の中で解釈し、他方マタイはイエスの言葉を霊的に受け止めています。マタイの方がイエスの言葉の真意を正しく受けとめていると思えます。

・イエスは、現在がどういう情況であれ、それを神から与えられた祝福として受け取る時、人は満たされると言われます。「心の貧しい者」はこの世に究極の救いがないことを知るから、この世の栄誉や成功を求めません。「悲しむ者」は自分が泣いたことがあるから、泣く人と共に泣くことが出来ます。「柔和な者」は自らの力に頼らないから、他者に対する憎しみや報復も生れません。「義に餓え渇く者」は神の支配を待ち望み、その日は来ると信じる故に、現在の不正に負けません。

・イエスが言われたことには二つの特徴があります。一つは「思いが自分ではなく他者に向かう」こと、もう一つは「思いが現在ではなく将来に向かう」ことです。人間の求める幸福は、「思いが自己に、そして現在に」集中します。世の人々が求める幸福は、富であり、健康であり、成功であり、栄誉です。それらは全て自己の為のもの、人は「私の富、私の健康、私の成功、私の栄誉」を求めます。そして、誰もがそれを欲しがるから、競争が起こり、競争があれば勝者と共に敗者が生れます。一人が富を得るということは、他の多くの人は富を得られないことを意味します。

・また健康が幸福の指標になる時、健康でない者、病気や障害をもっている人は不幸だと断定されます。妊婦の血液から胎児の染色体異常を調べる「新出生前診断」が2013年4月に開始して以来、受診者が3万人を超え、その中で547人が陽性と判定され、その後の羊水検査で染色体異常が確定した417人のうち、94%にあたる394人が人工妊娠中絶を選択したと新聞報道は伝えます(西日本新聞、2017.1.2)。障がいを持っている子供はいらないと世の人は考えます。突き詰めてみれば、この世の幸福は他者の犠牲(例えば障がいを持っている子は中絶する)の上に成り立っており、それは空間的広がりを持ちません。
・また世の幸福は時間的限界を持ちます。現在は健康であっても、その健康はやがて崩れます。勝者も何時かは敗者になります。現在の幸福のみを求める時、その幸福が何時崩されるのか、常に不安と隣り合わせです。今は健康な人も、80歳になり、90歳になれば、寝たきりになり、認知症になる人が増えてきます。その時、介護する家族の幸福は崩れる可能性が増します。世の幸福は空間的及び時間的広がりを持たないのです。世の求める幸福とは、「貧しい者が富むようになること、悲しんでいる者が笑うようになること」です。しかしその結果としての富や健康や成功や栄誉がやがて崩れるとしたら、イエスの言われる幸福こそ現実的なのではないかと思います。「思いが自分ではなく他者に向かう」生き方、「思いが現在ではなく将来に向かう」生き方こそ、神の国を受け継ぐのです。

3.私たちにとってこの言葉は何なのか。

 

・今日の招詞にルカ6:20-21を選びました。ルカ版・山上の説教です「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる』」。ルカにおいては「貧しい人々は幸いである」と言われていますが、マタイにおいては、「心の貧しい人々は幸いである」として、心が付加されています。この個所はギリシャ語を直訳すると、「霊において貧しい人たちは幸福だ」となります。ルカでは「今、貧しい者も豊かになるから幸いである」と言われていますが、マタイでは「神の前に貧しい者はそのままで幸いなのだ」という意味合いです。英語訳聖書(NEV)は「自分が神を必要としていることを知っている者は、どんなにか祝福されているだろう」と訳します。

・イエスが言われた「貧しい者は幸いである」という言葉を、ルカは「今、貧しい者も豊かになるから幸いである」と解釈しました。他方マタイは「神の前に貧しい者はそのままで幸いなのだ」と理解しました。マタイの解釈の方がイエスの真意に近いのではないかと思います。イエスの言葉はイエスご自身の宣教体験から生まれています。イエスと弟子たちは、町から町へ、村から村へ、放浪しながら宣教を続けられ、パンを食べることの出来ない日もあったし、寝る場所がなく野宿されたこともあった。その中で神はイエスと弟子たちを保護され、パンを与えて下さった。その神への信頼をイエスは山上の説教の中で語られています。だからイエスは言われます「生きるために必要なものは父なる神が与えて下さる。その神を信頼して生きよ」と。この信頼に生きる者が、マタイの理解のように、「神の前に貧しい者」、「自分に寄り頼むものが一切ない者」は幸いであると語られています。

・福音書によれば、イエスの宣教に積極的に応答したのは、取税人や遊女、異邦人等の社会的に疎外されていた人々であり、反発したのはパリサイ人やサドカイ人等の支配階級でした。満足している者は神を求めず、満たされていない者は求めます。そして求める者には命が与えられ、求めない者には与えられないとしたら、今、満たされていない者(貧しい者、飢えている者、泣いている者)こそが、祝福されるのは当然なのです。

・モルトマンの「希望の倫理学」を翻訳した福嶋揚は語ります「死ねばすべてが無に帰すと考える人間にとって、天に宝を積むことは無意味で抽象的なことである。天の富に関心を持たない生は、地上における富の最大化を目指し、地上だけで完結しようとする。そのような生の最も支配的な形態は資本主義である・・・その資本主義が今終末期を迎えている。(その中で)キリスト教的終末論が地上の富を最大化する生とは異なる生の可能性を開く一つの思想である・・・(聖書の物語は)地上の生の意味を、自己の富を最大化することではなく、社会の周辺へと追われ苦難の中にある人々を友にすることにある」(福嶋揚、終末論と資本主義、福音と世界2014年12月号)。「神の前に貧しい者こそ幸いである」、この言葉を今日、胸に刻むことが出来れば、私たちの人生は大きく変わって行きます。

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