2018年11月4日説教(イザヤ56:1-8、帰国後の苦難の中で)
1.捕囚から帰国した民が見たもの
・私たちは11月からイザヤ56章以降を読んでいきます。イザヤ書は40章から第二イザヤという預言者の言葉が続きます。バビロニアに国を滅ぼされ、異国の地で捕虜となって苦しんだイスラエルの民に語られた慰めの預言です。50年間も異国の地に捕囚されていた民に「主は私たちを解放してくださる」との希望の預言が語られます。そしていよいよ帰国の時が始まり、人々はイスラエルを目指して帰国します。ところがエルサレムに帰国した民を待ち受けていたのは、飢饉や不在中に自分たちの土地を占領していたサマリア人の敵意でした。経済生活は改善せず、人々は「パラダイスはどこにあるのか」と不満を募らせる。その中で第三イザヤ(第二イザヤの弟子たち)が活動を始めます。それが今日から読むイザヤ56章以下です。
・帰国した人々が最初に行ったのは、廃墟となった神殿の再建でした。解放して下さった主に感謝したからです。帰国の翌年には、神殿の基礎石が築かれましたが、工事はやがて中断します。先住の人々は帰国民を喜ばず、神殿の再建を妨害しました。また、激しい旱魃がその地を襲い、穀物が不足し、飢餓や物価の高騰が帰国の民を襲いました。神殿の再建どころではない状況に追い込まれたのです。そして人々はつぶやき始めます「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。約束が違うではないか、どこにエデンの園があるのか。帰らなければ良かった、バビロンの方が良かったと民は言い始めているのです。
・イスラエルの民は50年ぶりに帰国しました。帰ってみると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。彼らは「主がこの荒野をエデンの園にして下さる」と励まされて帰国しましたが、現実は予想を上回る厳しさです。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。主に対する信仰まで揺らぎ始めます。これに対して、そうではない。問題は主にあるのではなく、あなたがたにあるのだと言って立ち上がった預言者が、第三イザヤと呼ばれる人です。彼は言います「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(59:1-2)。
・預言者は人々に悔改めを求めますが、悔改めは喜びをもたらすと言います。「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(61:1)。主は、困難の中にあるあなたがたを慰めるために私を立てられた、良い知らせを伝えるために私に言葉を与えられたと。「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」(61:3前半)。良い知らせ(福音)は灰(悲しみ)を冠(喜び)に変える。主は悲しんでいるあなた方に、喜びの冠を与えると言っておられる。主はあなた方を通して、この廃墟をエデンの園に変えられる。あなた方こそ「とこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興す者」なのだ(61:4)。
・中断された神殿工事は、ハガイ、ゼカリア等に励まされて再開され、前515年神殿は完成します(第二神殿)。帰国後20年が経っていました。しかし神殿が完成しても経済状態は改善せず、共同体内部で争いが起き、民族主義者は異邦人排斥を主張します。このような混乱の中で、第三イザヤは第二イザヤの教えた「正義と公平」を取り戻せと人々に訴えます。「主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。私の救いが実現し、私の恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このように行う人、それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人は」(イザヤ56:1-2)。
・ここでは安息日を守ることが律法の中心にあります。神殿を喪失した捕囚の民は、「安息日を守り、割礼を受ける」ことに、民族のアイデンテティーを求めました。その結果、割礼を受けていない異邦人や宦官たちは共同体から排除されていきます。第二イザヤの「主は全ての民を救済される」との教えを受けた弟子たちは、民族を超えた救済に人々を導きます。主のもとに集って来た異邦人は言うな、主は御自分の民と私を区別される、と。宦官も、言うな、見よ、私は枯れ木にすぎない、と」(イザヤ56:3)。
2.絶望の中で再び希望を
・第三イザヤは「主なる神はユダヤ人だけの神ではなく、全世界の神である」として、継承された律法の書き換えを要求します。「なぜなら、主はこう言われる。宦官が、私の安息日を常に守り、私の望むことを選び、私の契約を固く守るなら、私は彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、私の家、私の城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。また、主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、私の契約を固く守るなら、私は彼らを聖なる私の山に導き、私の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、私の祭壇で、私はそれを受け入れる。私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(56:4-7)。
・救いは肉のユダヤ人だけでなく、全ての民族に解放されています。ここに民族の枠を超えた救済論があります。「追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる、既に集められた者に更に加えて集めよう」(56:8)。そのことを知らされたエチオピア人の宦官は、ピリポの勧めに従い、バプテスマを受けたと使徒言行録は記します。「宦官はフィリポに言った『どうぞ教えてください。預言者(イザヤ)は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか』。フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った『ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか』。フィリポが『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた」(使徒言行録8:34-37)。
3.新しいイスラエルの創造
・今日の招詞にガラテヤ3:26-28を選びました。次のような言葉です「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」。キリストの十字架を通して、私たちは、律法の束縛から自由になったとパウロは主張しています。「私たちは、信仰によって神の子とされた」、だから「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(3:27-28)。
・律法主義の下にある人間関係の基本は差別です。割礼を受ければ救われると信じるユダヤ人は、無割礼の異邦人をさげすみました。当時の女性は、結婚前は父親の、結婚後は夫の財産でした。女性は人ではなく、ものだったのです。奴隷も同じです。奴隷には人権などなかった。律法主義の下にあっては、人は優劣で順位付けられていました。しかし、律法からの解放は、差別からの解放をもたらします。「キリストを着る」という意味において同じだからです。だから、キリストにあっては「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない」のです。今日の世界において、依然、民族の差別があり、女性は男性と同権ではなく、貧乏人は卑しめられるのは、まだ優劣概念、すなわち律法主義が根強く残っているからです。私たちの社会は、福音によって解放されていないのです。だから、私たちは、キリストの福音を宣べ続けなければいけないのです。
・イザヤの時代は今から2500年前です。イエスの時代は今から2000年前です。時代が変わっても、本質的な問題は何も変わっていません。人々は現在の生活に不満を持ち、明日の生活に不安を持っています。その中で唯一変わった事は預言者の言葉に耳を傾け、イエスの言葉を受け止める人々が生まれたことです。私たちは神の業を行うように、ここに集められ、神の言葉を聴いています。もう自分のことにかかわりわずらうことをやめ、隣人のために働く者となりたいとの希望を持っています。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:31-33)と言う言葉が真実であることを知っています。ですから、私たちも出来る範囲の行動を始めます。「クリスマスとは私たちが楽しむ時ではなく、隣人を招き、良い知らせを伝える時」なのです。