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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年9月9日説教(士師記11:29-40、犠牲と贖罪)

投稿日:2018年9月9日 更新日:

2018年9月9日説教(士師記11:29-40、犠牲と贖罪)

 

1.アンモン人との戦いのために立てられたエフタ

 

・士師記の二回目です。前回に引き続き、士師エフタの物語を読んでいきます。イスラエルは主の前に罪を犯し、主はイスラエルをアンモン人の支配下に放置され、アンモン人はヨルダン川東岸のギレアドを侵略し、川を越えて西岸の地域をも侵し始めました。「敵は、その年から十八年間、イスラエルの人々、ヨルダンの向こう側ギレアドにあるアモリ人の地にいるすべてのイスラエルの人々を打ち砕き、打ちのめした。アンモン人はヨルダンを渡って、ユダ、ベニヤミン、エフライムの家にも攻撃を仕掛けて来たので、イスラエルは苦境に立たされた」(10:8-9)。

・イスラエルは主に救いを求め、主は彼らを救うためにエフタを士師として選ばれます。このエフタは仲間と徒党を組んで隊商を襲う夜盗集団の頭でした。エフタはギレアドの出身でしたが、遊女の子であったので、故郷を追われてトブの地にいました(11:1-3)。その勇敢さは聞こえていたので、人々は彼に指揮官になるよう頼みます。エフタはギレアデ人の指導者となっても、アンモン人に対して直ちに戦闘を開始しませんでした。彼は先ず、平和的手段で争闘の根を絶とうとしました。彼は使者をアンモン人の王に派遣して、その要求の非をただし、和平交渉をします。11:12-28までは、当時の外交談判の記録です。エフタは平和解決の方法を試みましたが、ギレアデ人の力を侮ったアンモン王は、これを斥けました。ここに至って、「主の霊がエフタに臨んだ」(11:29a)。戦闘の力は、平和の手段が尽きる時に降ります。エフタはアンモン人との戦いに臨みます。「彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた」(11:29b)。

・しかし強大な敵を打ち負かす自信はありません。彼は戦場に臨むに先だって、神に誓いを立てます「もしあなたがアンモン人を私の手に渡してくださるなら、私がアンモンとの戦いから無事に帰る時、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその者を、焼き尽くす献げ物といたします」(11:30-31)。彼が担った責任は、余りに重大でした。彼は自己の力に頼ることができず、そうかと言って、未だ全く神の援助を信じることができませんでした。誓願は人の至情から出るものですが、同時に前後を顧みない無謀な誓いでした。自分の家の者を人身御供に出すから、この戦に勝たせてほしいと嘆願したのです。彼は如何なる犠牲を払っても、この戦争に勝たなければならないと思ったのでしょう。戦争は、大勝利で終わり、強敵は征服され、民の自由は回復されました。そして勇者は、凱旋の栄光を担ってその家に帰りました。ところが、エフタが家に帰ってみると、彼を最初に迎えたのは、彼の娘でした。

・士師記は記します「エフタがミツパにある自分の家に帰った時、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った『ああ、私の娘よ。お前が私を打ちのめし、お前が私を苦しめる者になるとは。私は主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない』」。エフタは娘を生贄として捧げることになってしまいます。彼はおそらく召使を捧げる心積もりであったのでしょう。しかし、現れたのは娘でした。

・娘は悲しみますが、誓願の言葉を破ることは出来ません。彼女は「生贄」として捧げられ、死んで行ったと士師記は記します。「彼女は言った『あなたは主の御前で口を開かれました。私を、その口でおっしゃったとおりにしてください・・・二か月の間、私を自由にしてください。私は友達と共に出かけて山々をさまよい、私が処女のままであることを泣き悲しみたいのです』。二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓い通りに娘を捧げた」(11:36-39)。

 

2.犠牲の死

 

・「人はどこから来て、どこへ行くのか。そして何ものなのか」、いくら考えても答えが出ない問いです。私たちは生活の忙しさの中で、普段はそのことを考えません。しかし、自分の命がかかった事態に遭遇すると考えざるを得ません。エフタは戦争という、「負ければ自分は死ぬし、国は亡びる」という極限状況の中で、「勝利の暁には家の者を生贄として捧げます」と誓願してアンモン人との戦いに臨みました。愚かな決断で、そのために彼は娘の命を失ってしまいます。しかし士師記はこれを愚かな出来事とは考えません。内村鑑三は「士師エフタの話~少女の犠牲」という文の中でこの出来事を語ります。「誓願そのものが、既に間違いであったのです。その成就は、敢えて怪しむに足りません。私共は、エフタの迷信を憐れみましょう。彼の浅慮を責めましょう」と語ります。「しかし」、と彼は続けます「彼の誠実を尊び、彼の志を愛せざるを得ません。燔祭の事実はどうであったとしても、犠牲の事実は、これをおおうことはできません。エフタはここに、凱旋の帰途において、彼の一人の娘を失ったのです。この事によって、彼の高ぶった心は低くされ、誇ろうとした心はへりくだされたことでしょう」(内村鑑三全集第19巻、明治45年6月10日)。

・内村は続けます「彼はたびたびギレアデの首領にならずに、トブの地で彼の一人の娘と共に隠れて、幸福な日を終生送りたかったと願ったでしょう。しかし、幸福は人生最大の獲物ではありません。義務は幸福に優ってさらに貴いのです。義務のゆえに私共は、たびたび幸福を捨てざるを得ません。そして義務のために私共が蒙る損失は、決して損失ではないのです。エフタは彼の幸福を犠牲にして、彼の国を救いました。そしてエフタの娘は彼女の生命を犠牲にして、彼女の父の心を清めました。犠牲なしには、人生は無意味です。もしイスラエルを救うためにはエフタの苦痛が必要であり、そしてエフタ自身を救うためには彼の娘の死が必要であったということであれば、神の聖名は讃美すべきです。エフタは無益に苦しまず、彼の娘は無益に死にませんでした。神はそのようにして人と国とを救われるのです」。この内村の解釈をどう受け止めるかが今日の主題です。

・東京大学・高橋哲哉教授は、「戦前の靖国体制は戦争犠牲者を神として祀ることによって戦争を遂行した。戦後の経済成長も安全保障も『犠牲』の上に成り立っている」と批判します。「福島の原発事故は、原発推進政策に潜む『犠牲』のありかを暴露し、沖縄の普天間基地問題は、日米安保体制における『犠牲』のありかを示した。もはや誰も『知らなかった』とは言えない。沖縄も福島も、中央政治の大問題となり、国民的規模で可視化されたのだから。経済成長や安全保障といった共同体全体の利益のために、誰かを「犠牲」にするシステムは本当に正当化できるのか」と問いかけます(『犠牲のシステム 福島・沖縄』から)。

・そして、高橋氏は内村鑑三に言及します。「祖国のための死を称えることは、日本だけではなく、欧米の近代国民国家もそれをナショナリズムの核とし、戦争を繰り返してきた。キリスト教の犠牲の論理としては、内村鑑三が日露戦争中の1904年に出した『非戦主義者の戦死』や、旧約聖書エフタの物語の中で『犠牲に犠牲、人生は犠牲であります。犠牲なくして人生は無意味であります』と書いている」と批判しました。キリスト教の犠牲の信仰の中核は、「贖罪信仰」であり、キリストの犠牲により救われるとの教えが、内村やその他のキリスト者の犠牲礼賛を生んだと高橋氏は考えています。

・文中に引用されている「非戦主義者の戦死」は1904年日露戦争の時に書かれました。国民すべてに兵役命令が出て、内村の非戦主義に賛同する若い弟子たちに戦争に参加すべきかどうかを問われた時代です。内村は彼らに対して、「博愛を唱うる平和主義者は、この国やかの国のために死なんとはしない。されども戦争そのものの犠牲になって、彼の血をもって人類の罪悪を一部分なりとあがなわんためには、彼は喜んで、神に感謝して、死に就かんとする。彼は彼の殉死によって彼の国人を諌めんと欲し、また同胞の殺伐に快を取る、罪に沈める人類に悔い改めを促さんとする。」と書きました。高橋哲哉氏はこの内村の考え方こそ「犠牲のシステムを推進した」と批判するのです。

 

3.私たちはこの物語をどう読むか

 

・今日の招詞に第一ヨハネ3:16を選びました。次のような言葉です「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」。ヨハネにとっては「愛し合う」とは「相手のために命を捨てる」ことであり、その根拠は「イエスが私たちのために命を捨てて」下さったという贖罪愛にあります。キリスト教の根本教理は、「贖罪による救い」です。神の子が私たちのために死んでくださった、だから私たちも他者のために死んでいこうと信仰です。人間の愛は常に自己の利益を求めて相手を裏切りますが、神の愛はその裏切り続ける者のために死ぬ愛です。神の子が自分のために死んでくれた、そのことを知った時、私たちはもう以前のような生き方は出来ない。この贖罪愛が私たちをキリスト者にします。

・この贖罪の信仰は理性で理解することが難しい事柄です。だから高橋氏のような批判が出てきます。それは自分が血を流して体験した時に初めてわかる信仰です。「宝島」や「ジキルとハイド」を書いた作家のロバート・スティーヴンスンは、ある時、らい病者たちが収容されたハワイのモロカイ島を訪れます。島では、ダミアン神父がライ病者救済のために働き、神父死後は修道院のシスターたちがらい病者の世話をしていました。島を訪れた彼は次のような詩を歌います「この所には哀れなことが限りなくある。手足は切り落とされ、顔は形がくずれ、さいまれながらも、微笑む、罪のない忍苦の人。それを見て愚か者は神なしと言いたくなろう」。なぜ、らい病のような忌まわしい病気があるのかわかりません。不信仰者はそれを見て「神はどこにいるのか」とうそぶきます。

・しかし、彼は続けます「もう一度見つめるならば、苦痛の胸からも、うるわしさ湧き来たりて、目に留まるは歎きの浜で看取りする姉妹たち。そして愚か者でも口をつぐみ、神を拝む」(スティーヴンスン「旅の歌」より)。らい病者のために自分の生涯を捧げる人がいます。この人たちこそ、キリストの贖罪死に心動かされたキリストにある愚者です。この世は神がいないかのように悪で満ちている社会です。不条理の中で多くの涙があります。その中で世の力に迎合しよとせず、キリストの苦難と連帯しようとする人々がいます。そのような人を通して、「神を見た者は、まだ一人もいない。もし私たちが互に愛し合うなら、神は私たちのうちにいまし、神の愛が私たちのうちに全うされる」(第一ヨハネ4:12)という言葉が成就します。知性や理性を超えた信仰の力、贖罪愛こそが、私たちが証ししていくべきものなのです。

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