2018年9月23日説教(士師記15:9-20、サムソンの生き方と私たち)
1.サムソンとペリシテ人との戦い
・9月は礼拝の中で士師記を読んでおります。士師記はサムソン物語を13-16章の4章にわたって記します。士師記の中で、最も長い物語です。サムソンはペリシテ人と対峙した士師(戦争指導者)です。ペリシテ人は、紀元前15-13世紀に、エーゲ海よりパレスチナ海岸に侵入した海洋民族で、それ以降、彼らの名によってこの地域は「パレスチナ=ペリシテの地」と呼ばれるようになりました。彼らは、ガザ、アシュドデ、アシュケロン、ガテ、エクロン等の海岸部に都市を築き、士師時代後期からイスラエル最大の強敵となります。そのペリシテ人の支配からイスラエルを救い出すために、士師サムソンが起こされました。
・サムソンはペリシテ人からイスラエルを守るために士師として召命されますが、「彼はナジル人として召命されて生まれた」(13:5)と描きます。ナジル人は神から特別の召命を受け、聖別(ナーザル)された者という意味で、強い酒を飲まないこと、髪をそらないことが求められました。「サムソンは聖別された者として、人々の期待の中で生まれ、成長した、主は彼と共におられた」(13:24-25)と士師記は描きます。
・そのサムソンが成人した時、彼はペリシテ人女性を愛し、結婚します。サムソンの両親は異民族の女性との婚姻に反対しますが、士師記は、これは主の計画であったと描きます(14:3-4「父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた」)。サムソンはペリシテの女性をめとりますが、妻はサムソンの力の秘密を同胞のペリシテ人に漏らしてしまい、怒ったサムソンはペリシテ人30名を殺してしまいます(士師記14:17-19「宴会が行われた七日間、彼女は夫に泣きすがった。彼女がしつこくせがんだので、七日目に彼は彼女に明かしてしまった。彼女は同族の者にそのなぞを明かした。七日目のこと、日が沈む前に町の人々は彼に言った。『蜂蜜より甘いものは何か、獅子より強いものは何か。』するとサムソンは言った。『私の雌牛で耕さなかったなら、私のなぞは解けなかっただろう。』その時主の霊が激しく彼に降り、彼はアシュケロンに下って、そこで三十人を打ち殺し、彼らの衣をはぎ取って、着替えの衣としてなぞを解いた者たちに与えた。彼は怒りに燃えて父の家に帰った」。)
・サムソンの乱暴に憤慨した妻の父は娘をサムソンと離縁させ、同胞のペリシテ人の男に嫁がせます。怒ったサムソンは報復にペリシテ人の畑を焼いてしまう乱暴をします(士師記15:3-5「サムソンは出て行って、ジャッカルを三百匹捕らえ、松明を持って来て、ジャッカルの尾と尾を結び合わせ、その二つの尾の真ん中に松明を一本ずつ取り付けた。その松明に火をつけると、彼はそれをペリシテ人の麦畑に送り込み、刈り入れた麦の山から麦畑、ぶどう畑、オリーブの木に至るまで燃やした」)。
2.ペリシテ人の報復
・ペリシテ人たちは自分たちの畑を焼いたサムソンへの報復に、最初にサムソンの嫁と舅を殺し、さらにサムソンの身柄引き渡しをイスラエルに求めます(15:9「ペリシテ人は、ユダに上って来て陣を敷き、レヒに向かって展開した」)。恐れたイスラエルの人々はサムソンを縛って、ペリシテ人に差し出します。ここにサムソン物語の本来の意味、支配者たちが敵を怖れる中で、一人でペリシテ人と戦うサムソンの姿があります。イスラエルの人々は言います「我々がペリシテ人の支配下にあることを知らないのか。何ということをしてくれた」(15:11a)。それに対してサムソンは答えます「彼らが私にしたように、彼らにしただけだ」(15:11b)。ここにあるのは、現在の沖縄・普天間基地の辺野古移転問題と同じ構造です。基地の県内移転に反対する沖縄住民に対して、日本政府は威嚇します「我々がアメリカ軍の支配下にあることを知らないのか」。それに対して沖縄の人々は応えます「私たちは自分の国で平和に暮らしたいだけなのだ」。政府の役割は、住民の切実な声を汲み上げて官民一体で米軍と交渉することですが、政府はその役割を放棄し、先頭に立ってアメリカ軍基地造成を行っています。それはペリシテ軍の圧力に押されて、「我々は、お前を縛ってペリシテ人の手に渡すためにやって来た」(15:12)と語るイスラエルの指導者と同じです。
・共に戦うイスラエル人は誰もいなかったのに、サムソンは一人で立ち向かっていきます。「サムソンがレヒに着くと、ペリシテ人は歓声をあげて彼を迎えた。そのとき、主の霊が激しく彼に降り、腕を縛っていた縄は、火がついて燃える亜麻の糸のようになり、縄目は解けて彼の手から落ちた。彼は、真新しいロバのあご骨を見つけ、手を伸ばして取り、これで千人を打ち殺した」(15:14-16)。ここには敵を殺すことに対する罪悪感はなく、殺した敵の数を誇る風潮があります。サウルやダビデの時代もそうでした(サムエル記上18:5-7「イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』」)。これは、ある意味やむを得ないことかもしれません。戦国時代とは、敵を殺すことが正義である時代なのです。
3.サムソン物語をどう読むか
・今日の招詞にヘブル11:32-34を選びました。次のような言葉です。「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました」。
・サムソン物語をどう読むかは難しい課題です。今日の私たちから見ますと、サムソンは士師にふさわしくない乱暴者です。それにも関わらず、士師記は最大の記述をサムソンについて割り当てます(13-16章)。彼は当時イスラエルを占領し、支配するペリシテ人に、恐れず立ち向かった救国の英雄として描かれています。乱暴者サムソンがペリシテ人を殺したことを士師記は礼賛します。「神の民イスラエルは無割礼のペリシテの支配下にいてはいけなかった。ペリシテを恐れて何もしない民を奮起させるために主はサムソンを用いられた」と理解し、新約時代のヘブル書ですら、彼を信仰の人として描きます。士師記の人物は、ギデオンにせよ、エフタにせよ、サムソンにせよ、不完全な人です。主は不完全な人を用いて御旨を行われることを士師記は示しています。
・勝村弘也は「サムソン物語雑考」の中で語ります「士師記13~16章に描き出されているサムソンの姿は、読者に独特の奇妙な印象を与える。サムソンは、ここで〈士師〉の一人に数えられているようではあるが、イスラエルをペリシテ人の抑圧から解放したわけでもなく、何らかの軍勢を指揮したわけでもない。彼はどこまでも単独で行動する〈テロリスト〉的な人物に見える。聖書の読者は当惑するほかない。」彼は続けます「サムソンは、ふつうの士師でもナジル人でもない。しかし、まさにこの男からイスラエルの解放は〈開始〉されたと申命記史家は主張している。サムソンによってペリシテ人に対する闘争は始まった。ペリシテからの救出ないし解放はダビデによって完成するが、サムソンはこのサウルからダビデへと続く展開の先駆者と見られていることになる。」
・新約のへブル書はサムソンを肯定します。「獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました」と。サムソンは途方もない乱暴者で、また女性の誘惑に弱く、失敗ばかりを繰り返し、最後は敵に捕らえられて目を抉り出されるような悲劇も経験しています(16:21)。しかし民衆は失敗しても失敗しても挑戦を続けるサムソンの姿に感動し、そのことが多くの伝承を生み、士師記に最大のページ数を割り当てさせたと思います。このことは現代日本社会に大事なメッセージを伝えるのではないかと思います。先に述べた沖縄の基地問題です。沖縄に米国の軍事基地を提供することが、本当に日本の「平和と安全」に寄与するのかの議論がなされないままに、新しい基地建設が進められています。それに対して「普天間飛行場の移設先は国外、最低でも県外」と唱えた鳩山前首相はつぶされて行きました。世の人々は「鳩山氏はアメリカという巨大な風車に、ドン・キホーテのように突っ込んで見事にぶっ飛ばされた」と嘲笑しますが、ある意味でペリシテ人という強大な風車に跳ね飛ばされたサムソンの生き方もドン・キホーテに似ています。沖縄の自治が、日本政府とアメリカ政府によってつぶされようとしている現在、ドン・キホーテ的存在は必要です。
・聖書は私たちに世の大勢に流されず、「主によって示された正しいことをせよ」とサムソン物語を通して語っておられます。教会は世にあって世に仕えますが、世にならうことはしません。「人の目ではなく、神の目に何が正しいのか」を求めて生きます。サムソンは、多くの人々がペリシテ人を怖れて何もできなかった時、一人でペリシテ人に立ち向かって行きました。国民の多くがアメリカ軍の威圧の下に何もしようとしない時、「平和に暮らしたい」と基地建設反対を訴える沖縄の人々がいます。かつてユダヤを攻めてきたアッシリアの軍隊から逃れるために、エジプトに頼った人々にイザヤは語りました「災いだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない・・・エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない」(イザヤ31:1-3)。日本の安全保障を何故アメリカの軍事力に頼るのか、アメリカ人も肉に過ぎないではないか。サムソン物語は私たちに、今の日本の国家としての在り方をどう考えるかを、一人一人に迫る物語です。