2018年6月17日説教(2コリント9:6-15、恵みとしての献金)
1.エルサレム教会への献金問題
・第二コリント書を読んでいます。第二コリント書では8章、9章が、「献金」の問題を取り上げています。パウロは異邦人伝道を熱心に行い、コリントやテサロニケに教会を設立し、異邦人教会は母国エルサレム教会を上回るほどの大きな群れに育って行きます。しかし、同時に、異邦人教会とエルサレム教会との亀裂が目立ってきました。信仰の形が違うのです。エルサレム教会はユダヤ教をベースにした保守的な教会で、それに対して異邦人教会はギリシャ文化を土台にしたリベラルな教会群でした。その結果、異邦人教会とエルサレム教会との不和が拡大し、パウロは両者の和解を勧めるために、異邦人教会に呼びかけて、財政的に逼迫しているエルサレム教会への支援献金運動を進めていました。彼は語ります「異邦人はその人たち(エルサレム教会)の霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ15:27)。ただこの献金運動は諸教会に様々な波紋を生みました。コリント教会では「なぜ私たちがエルサレム教会を支援しなければいけないのか、そんな余裕はない」という反発が強く、人々は献金に消極的でした。
・その次第が8章に記述されています。パウロはコリント教会での献金の業を進めるためにテトスと同行者をコリントへ派遣したと語ります「彼(テトス)は私たちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。私たちは一人の兄弟を同伴させます・・・主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すように私たちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした」(8:16-19)。コリント教会の中には「パウロは献金をくすねているのではないか」との批判もあったようです。パウロは語ります「私たちは、自分が奉仕している、この惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。私たちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」(8:20-21)。献金には公平性と透明性が必要です。私たちの教会では毎月第一主日に前月の会計報告を提出し、どれだけの献金があり、どのように用いたのかを報告するようにしています。
・9章は6節から本論に入ります。パウロは「惜しみなく捧げなさい。捧げることは捧げる者の益になるのです」と勧めます。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた通りにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(9:6-7)。パウロは献金を種蒔きに喩えています。「豊かに播く者は豊かに収穫する」、蒔いた種は発芽し、成長し、多くの実を結びます。しかし蒔かない種からは収穫はありません。献金を通して「教会同士の関係の改善」が始まるのです。彼は続けます「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(9:8)。「献金とは、神から与えられた恵みをお返しすることだ」とパウロは語ります。
2.恵みとしての献金
・献金は誰に捧げるのでしょうか。神は献げ物を必要とはされません。しかし、必要とする人たちがいます。私たちの献げ物を用いて、神は私たちの隣人を養われます。今はエルサレムの人々を支援するために私たちは捧げるのだとパウロは語ります。パウロは語ります「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(9:10)。「あなたがたに種を与え、それを豊かに実らせ、食べるパンを与えて下さったのは神ではないか。その神からいただいたものを隣人に与えた時、捧げ物が神の栄光となり、人々は神をほめたたえるようになる」とパウロは語ります。彼は続けます「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、私たちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです」(9:11-12)。
・コリント教会では「なぜ私たちがエルサレム教会を支援しなければいけないのか」という反発が強く、人々は献金に消極的でした。その人々にパウロは語ります「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」(9:13-14)。パウロは最後に締めくくります「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」(9:15)。パウロはここで献金を「贈り物」と表現します。ギリシャ語エウロギア、祝福という意味です。「神が私たちを祝福して下さったので、私たちも他者を祝福する事ができる。その祝福の行為こそ、贈り物としての献金なのだ」とパウロは語ります。お金に心を込める時、そのお金は祝福に変わっていくのです。献金は単なる経済行為ではなく、信仰の行為なのです。
3.恵みとしての献金
・今日の招詞に、1コリント12:26を選びました。次のような言葉です「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。教会はキリストの体です。ここで言う教会とは、一つ一つの地域教会を超えて存在する「見えざる公同の教会」です。一つ一つの地域教会が集まってキリストの体を形成します。ですから一つの教会が傷めば、他の教会も共に苦しみます。私たちの所属する日本バプテスト連盟には325の教会・伝道所がありますが、そのうち礼拝参加者が10名に満たない教会・伝道所が26もあります。多くは地方教会で、礼拝参加者10名以下の教会の多くは経常献金300万円以下であり財政的に牧師招聘が難しく、牧師のいない教会は消滅危険性が高いとされます。バプテスト連盟ではこのような小教会に様々な財政支援をしていますが、その財源は諸教会から捧げられる協力伝道献金です。
・今回、説教準備をしていて、ギリシャ語の献金には「ロゲイア」という言葉と「カリス」という言葉の二つがあることに気づきました。ロゲイアの語源はロゲオー=集める、集金する、です。現代語では「教会維持献金」になるでしょう。教会が成立すると、その維持経費が必要となり、教会はそれを月約献金、建築献金として、教会員の方々に拠出をお願いします。大事な献金です。しかし、パウロがここで用いている言葉はカリス=恵み、恩恵です。「恵みとして捧げもの」です。「エルサレム教会への献金は、自分の教会には直接的な恩恵をもたらさないが、神の宣教の業に参加する恵みの出来事なのだ」とパウロは語るのです。諸教会に捧げるために用いられる協力伝道献金はもちろんこのカリスになります。また今日、私たちは神学校週間を記念して伊藤真知子姉をお呼びし、讃美と証しの時を持ち、席上献金を神学校に捧げますが、この神学校献金もカリス=恵の業としての献金になります。私たちは自分たちの教会を支えるためのロゲイア的献金は捧げますが、直接の見返りのないカリス的献金を捧げることには躊躇します。
・私たちの教会の場合、建築献金を含めた献金総額は約900万円ですが、そのうち800万円は借入金の返済や牧師給等の教会維持のために用いられ(ロゲイア的献金)、外部に献金しているお金(カリス的献金)は100万円です。そのうち諸教会を支援する原資になる協力伝道献金は30万円です。これまでは60万円を協力伝道として捧げていましたが、会堂借入金の返済負担が重く、今年から30万円に減額しています。ロゲイア的献金がカリス的献金を圧迫しているのです。
・今日の聖書個所は私たちに献金に対する考え方の変更を求めているような気がします。私たちの教会は建築借入金返済や教会債返済積み立てために、当面は年間300万円のお金を必要としています。借入金を返済しているのに外部支援を増やす余裕はないという考え方も成立します。しかしある注解者は語ります「捧げ物の最終基準は捧げた後にどれだけ残るかという計算の結果によるものではない。唯一の基準はキリストの愛である」(アーネスト・ベスト「現代聖書注解・第二コリント」)。
・私たちは一つの教会ではできないことを共同して行うために連盟を結成し、連盟は諸教会からの協力伝道献金や神学校献金をそれぞれ必要な場所に届ける仕事を担っています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」、パウロはマケドニア教会の働きについて述べています「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。私は証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに私たちに願い出たのでした」(8:1-4)。今は私たちがマケドニア教会になる時です。「捧げることが出来るのは恵みである」、大事な問いかけをパウロは私たちに与えています。