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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年1月7日説教(マルコ1:1-15、神の国は来た)

投稿日:2018年1月7日 更新日:

2018年1月7日説教(マルコ1:1-15、神の国は来た)

 

1.イエスの伝道の始め

 

・2018年度は1月から3月まで、マルコ福音書を読んでいくことになりました。新約聖書には四つの福音書がありますが、その中でマルコが最初に書かれた福音書です。紀元70年代初めに書かれたと伝えられますが、当時の教会は混乱の中にありました。紀元64年、ローマ皇帝ネロによる迫害により、教会の指導者ペテロやパウロが殺されました。ユダの地ではローマ帝国支配に抵抗する騒乱が生じ、エルサレム教会の指導者ヤコブも殺され(62年)、66年からはローマからの独立を目指す絶望的なユダヤ戦争が始まっています(紀元70年エルサレムは壊滅)。教会を支えて来た使徒たちが次々に殺され、ユダの国そのものも滅亡に直面する中で、マルコは「このままでは教会は滅びるのではないか」と思い悩み、残された信徒のために、「主イエスこそ本当のメシアである」と証しする書を書きました。彼は「ペテロの通訳で、パウロの伝道旅行にも同行した」と言われている人物であり、ペテロから聞いた事柄や、イエスについての伝承を集め、文書にまとめました。それがマルコ福音書です。最初に書かれた福音書であり、マタイ福音書やルカ福音書はこのマルコを参照しながら自分たちの福音書を書いています。従って、「イエスとはどのような方であったのか」を知る上で、このマルコ福音書が基本となる大事な書です。

・マルコは福音書を書き始めます「イエス・キリストの福音の初め」(1:1)。ギリシャ語原文では「始まった、福音が、イエス・キリストの」となります。「始まった」、ギリシャ語「アルケー」、このアルケーは、当時の人々が読んでいた70人訳ギリシャ語聖書の創世記冒頭に用いられています「初めに神は天地を創造された」(創世記1:1)、「初めに」、ヘブル語「ベレシート」がギリシャ語「アルケー」に翻訳され、その言葉をマルコは福音書冒頭に用いています。旧約聖書も新約聖書も、「初めに」という言葉で始まっているのです。この「初めに」という言葉を通して、マルコは「天地創造によって世界は始まったが、イエス・キリストが来られて天地は再創造され、新しい時代が始まった」と宣言しています。

・何が始まったのか、「福音が始まった」とマルコは語ります。福音=ギリシャ語「エウアンゲリオン」は良い知らせの意味です。「イエスが来られて良い知らせが始まった」とマルコは語ります。当時エウアンゲリオンという言葉はローマ皇帝即位時に使われました。ローマ皇帝が世界を支配し、戦争をなくし、人類に平和と救いをもたらした、その皇帝の出現こそ、エウアンゲリオン=良い知らせであると帝国の人々は告知されました。その言葉をマルコはキリストの出現に用いています。使徒たちがローマ皇帝によって殺され、祖国ユダもローマ帝国の支配にあえぐ中で、マルコはあえて「福音」という特別な言葉をイエスに用いるのです。それは「ローマ皇帝ではなく、イエス・キリストこそ救い主である」と語るためです。マルコは続けます「イエス・キリストの」、イエスはヘブル名「ヨシュア」のギリシャ語訳、キリストはヘブル語「メシア」のギリシャ語訳です。「ナザレのイエスこそキリスト、救い主だ」との信仰告白です。

・そしてマルコは「洗礼者ヨハネがイエスの宣教を準備するために遣わされた」と説明します。それが1:2から始まる記事です。「預言者イザヤの書にこう書いてある『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」(1:2-3)。当時のユダヤはローマの支配下にあり、反乱が各地に起こり、多くの血が流されていました。人々はユダヤを救うメシアを待望していました。その待望に応えて、マラキは歌います「見よ、私は使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」(マラキ3:1)。「世を救うためにメシアが遣わされる、そのしるしとしてまず使者が送られる」とマラキは預言し、マルコはその使者こそ「洗礼者ヨハネ」であり、ヨハネの紹介でイエスが世に出られることを予告します。

 

2.イエスの伝えた福音

 

・マルコは記します「(ヨハネは)荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(1:4-5)と。イエスは故郷ガリラヤで、ヨハネの「神がイスラエルを救うために行為を始められた」との宣言を聞き、燃える思いで、ガリラヤを出られました。30歳であったとルカは伝えています。イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられますが、その時、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とマルコは記します(1:10)。この洗礼を通してイエスは、自分が神から使命を与えられた者として召されたことを自覚されました。

・人々は力強い言葉で神の言葉を語るヨハネこそが、メシア=救い主ではないかと思いましたが、ヨハネは否定し、「私よりも優れた方が、後から来られる・・・私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(1:7-8)と言いました。マルコは、その「来るべき方こそ、ナザレのイエスであった」と主張しています。ヨハネは荒野で人々に悔い改めを迫りましたが、時の領主ヘロデ・アグリッパを批判したために逮捕され、それを契機に、イエスは荒野を出て故郷ガリラヤでその宣教を始められました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)。イエスの最初の肉声は「時は満ち、神の国は近づいた」というものです。この「時」には「カイロス」というギリシャ語が用いられています。通常流れる時間(クロノス)ではなく、「今、この時」という言葉が「カイロス」です。人々はやがてイエスの言葉を聞いていきます。その言葉が「右の耳で聞いて左の耳に流れる」のではなく、今この時の「出会いの言葉」となる時、人は「悔い改め」、「時はクロノスからカイロスに変わる」と語られます。

 

3.福音~喜ばしきおとずれ

 

・今日の招詞としてルカ7:22-23を選びました。次のような言葉です「それで、二人にこうお答えになった『行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである』」。洗礼者ヨハネは捕らえられて、牢に幽閉されていましたが、牢の中でイエスの言動を聞き、この人は本当にメシアなのかを疑い、弟子たちをイエスのもとに派遣して聞かせます「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(ルカ7:20)。

・ヨハネが期待したメシアは罪人たちを滅ぼし、正しい者のための世を来たらせる裁き主でした。しかし、イエスは罪人と交わり、貧しい人を憐れみ、病人を癒されています。裁きの時に罪人は滅ぼされる運命にあるのに、イエスは罪人の救いのために尽力されている。神の国は裁きではなく救いであることをヨハネは理解できず、ヨハネはイエスにつまずきました。そのヨハネにイエスはイザヤ61章を引用してお答えになりました。それが招詞の言葉です。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」、「福音とは喜ばしき知らせであり、喜びの知らせを聞いて、人は神の前にふさわしい者に変えられて行く」のだと。

・「時は満ち、神の国は近づいた、「神の国が始まった、その良い知らせを伝えるために私は来た」とイエスは宣教の業を始められます。イエスは言われます「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」(同6:21)。どのように貧しい人は慰められ、飢えている人は食べることが出来るようになるのでしょうか。沖浦和光「宣教師ザビエルと被差別民」の中にその答えがあるような気がします。日本のキリスト教宣教は1549年のザビエル来日から始まりますが、わずか90年の間に多くの人が洗礼をうけ、最盛期には40万人が信徒になったと言われています。当時の日本人口は2000万人ですから、率にすると5%以上の人がキリスト教に帰依したことになります。戦国時代、戦乱が繰り返され、田畑は荒らされ、人々は戦争に駆り出されて死に、多くの戦争孤児が生まれ、病気になれば看病なしに死んで行き、遺体は放置されました。その中で宣教師たちは、各地に戦争孤児の施設や学校を造り、生活困窮者や戦禍の犠牲者の救助活動を精力的に行い、病人を見舞い、死者を丁寧に葬りました。その活動に感動した人々が次々に洗礼を受けて行ったと沖浦氏は語ります。

・宣教師たちは「悩める人々を救うために神はイエスをこの世に遣わされた、イエスの信仰に生きる人たちは、世の罪の贖いのために、神の愛に応えなければならない。そのためには信徒自らが苦しみ悩んでいる人々への愛、すなわち慈悲の行いを実践せねばならない」と教えました。イエスの生き方に関する感動が宣教師を支え、その宣教師たちの生き方に関する感動が教会を形成していきました。

・聖書学者ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」という本の中で述べます「イエスが来られても社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった」。キリストにある愚者とは、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分たちには何が出来るのか、どうすれば、キリストから与えられた恵みに応えることが出来るのかを考える人たちであり、この人たちによって福音が担われ、私たちにも継承されています。

・私たちがキリストにある愚者になることによって、この世に神の国が生まれていきます。「貧しい人々は、幸いである。あなたがたは、私の弟子たちによって必要なものは与えられる」。「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは、私の弟子たちが運ぶ食べ物で満たされる」。「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは私の弟子たちがもたらす慰めによって笑うようになる」。聖フランシスの祈りが語る通りです「主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです」。神が今年一年、私たち一人一人を器としてお用い下さるように祈ります。

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