2018年1月28日説教(マルコ4:35-41、人生の嵐の中にあっても)
1.嵐の中で慌てふためく
・マルコ福音書を読んでいます。今日与えられたテキストは「湖上の嵐」の物語です。イエスが弟子たちと舟に乗って向こう岸に行こうとされた時、突然の嵐になり、舟が沈みそうになりますが、イエスが風と波をお叱りになると嵐は静まったという不思議な物語です。現代の私たちは、このような奇跡があったことを信じるのが難しくなっています。しかし初代教会はこの物語を通して大きな励ましを受けました。今日は、この初代教会の受け止め方を通して、この物語が現代の私たちに何を語りかけてくるのか、聞いていきます。
・物語は4章前半から続きます。イエスはガリラヤ湖のほとりで人々を教えておられましたが、夕方になりましたので、人々を解散させ、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われました。一日の働きに疲れて、休息の時を持ちたいと思われたのでしょう。弟子たちは舟を出して、漕ぎだし始めました。イエスは疲れのためか、すぐに深い眠りにつかれます。舟を漕ぎ出してまもなく、突然強い風が吹き始め、波が激しくなりました。あたりは全くの暗闇です。風が強まり、波は荒れ、舟は木の葉のように舞い、沈みそうになります。
・ペテロやアンデレはガリラヤの漁師でしたので、湖のことはよく知っています。最初は自分たちで何とか出来ると思い、努力しました。しかし、このたびの嵐は彼らの手に負えないほどの嵐で、舟は水をかぶって沈みそうになります。ところが、イエスは平気で寝ておられます。弟子たちはイエスを揺り動かし、訴えます「先生、起きてください。私たちがおぼれてもかまわないのですか」(4:38)。イエスは起き上がり、風を叱り、湖に黙れと言われました。すると、風も波もおさまり、静かになりました。イエスは弟子たちを叱られました「何故怖がるのか、まだ信じないのか」(4:40)。
・イエスは弟子たちを叱られました。それは、イエスが共におられたのに、彼らが恐れおののき、慌てふためいたためです。「私と毎日共にいて、神の不思議な業を見、話を聞きながら、なぜ嵐になると、あたかも神がおられないかのように慌てふためくのか」。イエスは嵐の中で熟睡されておられました。天地を支配される父なる神に対する信頼の故です。「一羽の雀さえも神の許しなしには死ぬことはない、ましてやあなたがたは神の子とされているではないか、それなのに何故怖れるのか」とイエスは言われています。
2.嵐を静めるキリスト
・この物語はイエスがガリラヤ湖で嵐を静められたという伝承を元にマルコが編集したものと思われています。イエスは紀元30年に十字架で死なれ、復活され、復活のイエスに出会った弟子たちは、「イエスは神の子であった。イエスの死によって私たちの罪は赦され、イエスの復活によって私たちにも永遠の命が与えられた」と福音の宣教を始めました。その結果、ローマ帝国各地に教会が生まれ、首都ローマにも教会が生まれました。しかし、教会は、ローマ帝国内において邪教とされ、迫害され、紀元64年にはローマ皇帝ネロによる大迫害を受けます。教会の指導者だったペテロやパウロたちもこの迫害の中で殺されていきます。
・マルコ福音書は紀元70年ごろ、ローマで書かれたと推測されていますが、マルコが福音書を書いた当時のローマ教会は、迫害の嵐の中で揺れ動いていたのです。人々はキリスト者である故に社会から締め出され、捕らえられ、処刑されていきます。教会の信徒たちは神に訴えます「あなたはペテロやパウロの死に対して何もしてくれませんでした。今度は私たちが殺されるかもしれません。私たちが死んでもかまわないのですか」。ガリラヤ湖の弟子たちは「私たちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えましたが(4:38)、この「おぼれる=アポルーマイ」の本来の意味は、「滅ぼす、殺す」です。また「起きて下さい」の「起きる」には、ギリシャ語「エゲイロー」が使われています。この言葉は「イエスが死から起き上がられた」という時に使われます。弟子たちは、「私たちが滅ぼされても平気なのですか」、「どうか私たちを助けに来て下さい」と叫んでいるのです。つまり、マルコは湖上の嵐の伝承の中に、迫害の中にある初代教会の人々の叫びを挿入して、物語を構成しているのです。
・嵐の中で慌てふためく弟子たちを見て、イエスは「風を叱り、湖に黙れ、静まれと言われます」(4:39)。この「叱る」という言葉エピテモーは、他の箇所では悪霊を叱る場面で出てきます(1:25,3:12)。当時の人々は、海の中には、竜とかレビヤタンという怪物(悪霊)がおり、その悪霊どもが騒ぎ立てるので嵐になると考えていました。ですから「悪霊を叱る」ことによって、海は平安を取り戻すのです。迫害の中で慌てふためく教会の人々に、マルコは「何故怖がるのか、まだ信じないのか。天地は全て神の支配の下にある。それを信じて静まりなさい」と語っているのです。
・私たちは、順調な時には、神が共にいてくださるという事実を、感謝をもって承認します。しかし、危急存亡の時には慌てふためきます。神がおられるという事実が何の意味もないように思えます。人生には嵐があります。信仰者も末期癌だと告知されれば慌てふためきます。愛する人を病気で奪われた人々は訴えます「主よ、何故あの人を取り去れたのですか」。仕事を失くした人は「主よ、これからどのように生きればよいのですか」と訴えます。教会分裂が起こり、残された人は言います「主よ、この教会を壊そうとされるのですか」。私たちは救いを求めて叫びます。しかし、目に見える助けがすぐに来ない時、私たちの信仰は揺らぎます。叫んでも応答がない神に自分を委ね続けることが出来なくなるのです。
・このマルコの物語は、信仰が揺らいだ時には、イエスが起きられるまで、叫び続けよと教えます。イエスは眠っておられるが、求めれば起きて下さり、「黙れ、静まれ」と嵐を静めて下さる。その後で、私たちは叱られるかもしれない。しかし、その叱りを通して、私たちは成長していきます。イエスの弟子たちも、主に従う者として、信仰と信頼にあふれて舟に乗り込みましたが、一旦嵐にあうと、今まで信じていたものはどこかに飛び去り、慌てふためきます。私たちは苦難に会うと信仰をなくしてしまう存在なのです。嵐の中では、神の国の喜ばしい知らせなど、弟子たちの頭から消えうせています。彼らの頭にあるのはおぼれる、死ぬ、その恐怖だけです。
3.天地を支配される方に委ねて生きる
・今日の招詞に詩篇107:28-29を選びました。次のような言葉です「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった」。詩篇107編はバビロン捕囚の地からイスラエルを解放して下さった主を賛美する歌だと言われています(月本昭男「詩編の信仰と思想」より)。「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった」という告白が四度も繰り返されています(107:6,13,19,28、)。
・国が滅びて50年、離散した民が新国家建設のためエルサレムに集められます。バビロンからエルサレムまで1000㎞を超える荒野を捕囚民は歩いて帰り、主は旅路を守って下さいました。地中海地方に離散した民は船で帰国しました。23節から航海の様子が記されています「彼らは、海に船を出し、大海を渡って商う者となった・・・主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされたので、彼らは天に上り、深淵に下り、苦難に魂は溶け、酔った人のようによろめき、揺らぎ、どのような知恵も呑み込まれてしまった。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので波はおさまった」(詩編107:23-29)。
・私たちの人生は、荒海を航海する舟のようです。海の上を航海しますから、常に不安定です。船板一枚の下には、底知れない闇があります。嵐が来れば、木の葉のように翻弄されます。しかし、私たちの舟にはイエスが乗っておられる。眠っておられるかもしれないが、起こせば起きて下さり、嵐を静めて下さる。「風と波を叱り、静める力をお持ちの方が、私たちと共におられる」、その事を私たちは信じることが許されている、これが福音です。
・最後に大泉教会・太田協力牧師のこの個所への説教要約を紹介します。太田先生は語ります「このガリラヤ湖で弟子たちは、嵐に恐れて言う。『私たちが、滅びてもかまわないのですか』、イエスは叱られた。滅びるなどと、なぜ、情けないことを言うのだ。おまえたちは、滅びることのない永遠の命を頂いているのだ。まだ信じられないのか。『おぼれてもかまわないですか』と聞かれたら、イエスはおっしゃるでしょう。『おぼれてもいいのだ。死んでもいいのだ。決して、滅びることはないのだから』」。
・太田牧師は続けます「けれども、人間というのは、弱いものです。この私がそうでした。私は3年前のクリスマスの頃、大病をして手術をしました。直腸癌のステージ4。再発して、三回手術して、最後は腹膜にも転移して、お腹を空けたけれど、何もせずにそのまま閉じました。病院にいたころは、このまま出られずに死ぬのだなと、覚悟していました。正直言って、怖かった。死を恐れました。平静な気持ちにはなれなかった。『死んでもいい』とは思えなかった」。
・太田先生は続けます「しかし、落ち着いて横を見ると、私の舟にも、イエスが乗っているのです。ただ、私たちは苦しさのあまりに、そのことを忘れていた。苦しい時こそ、隣にいるイエスに祈りましょう。眠っているイエスを、起こせばいいのです。イエスはおっしゃるでしょう。『波よ、静まれ』と。しかし、すぐに湖の波は静まらないかもしれない。イエスは、本当はこうおっしゃりたいのではないか。『あなたの、心の波を静めなさい』、試練はいつ襲ってくるかわからない。今日、東京に直下型地震が起こるかも知れない。しかし、地震でも津波でも嵐でも、どんな災難が来ても、心が平静ならば大丈夫です。恐れてパニックになったら、助かるものも助からない。たとえ死んでも滅びることはない、そう思って冷静に対処すれば、逃れる道が見えてくる。神は、試練を与えると同時に、逃れる道を備えてくださる方です」。
・この物語の主題は、「イエスは神の子だから、嵐を静める奇跡が出来る」ということではありません。迫害の嵐の中で、初代教会の人々が、「何故怖がるのか、私が共にいるではないか、私を信じて静まりなさい」というイエスの声を聞き、静まって、迫害を乗り越えることができたことです。嵐や波が静まったことではなく、初代教会の人々の「心の波が静まった」ことにこそ、大きな意味があります。「地震でも津波でも嵐でも、どんな災難の時も、心が平静ならば逃れる道が見えてくる」、それを知ることは、私たちにとって何ものにも勝る祝福であることを覚えたいと思います。