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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年4月1日説教(マルコ16:1-8、ガリラヤへ行きなさい)

投稿日:2018年4月1日 更新日:

2018年4月1日説教(マルコ16:1-8、ガリラヤへ行きなさい)

 

1.空の墓

 

・イースターの時を迎えました。今日はイエスの復活の出来事をマルコ福音書から聞いていきます。マルコはイエス復活の出来事を、「空の墓」として私たちに提示します。マルコ16章には「イエスが十字架につかれて三日目に婦人たちが墓に行ったが、墓は空であった」という短い記述があるだけです。他の福音書にあるような、婦人たちや弟子たちが復活のイエスと出会ったという記事がありまません。マルコはただ「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8)で唐突に福音書を終わらせます。なお結びとして16:9-19までありますが、この部分が当初のマルコ福音書にはなく、後代の付加であることは、写本研究等で明らかにされています。あくまでも、マルコ福音書の最後は「婦人たちは恐れた」で終わっています。このマルコの記事は何を物語るのでしょうか。
・イエスは金曜日の午後3時に息を引き取られたとマルコは記します。弟子たちは逃げていなくなっており、婦人たちだけが十字架を遠くから見ていました。金曜日の日没と共に、安息日が始まり、安息日を汚さないために、遺体はあわただしく葬られました。イエスの遺体を引き取ったのは、アリマタヤのヨセフで、彼は「身分の高い議員であった」とマルコは記します(15:43)。マルコは「この人も神の国を待ち望んでいた」と記します(15:43)。生前にイエスと何らかの関わりを持ち、イエスに好意を持っていたのでしょう。ヨセフはイエスの遺体を十字架から降ろして、亜麻布で巻き、岩を掘って作った自分の墓の中に納めます(15:46)。婦人たちは何も出来ず、ただ遺体が納められた墓を見つめていました(15:47)。

・安息日が終わった日曜日の夜明けと共に、婦人たちは香料を買い整え、墓に向かいます。あわただしく葬られたイエスの体に香油を塗って、ふさわしく葬りたいと願ったからです。婦人たちは墓に急ぎますが、墓の入り口には大きな石のふたが置かれており、どうすれば石を取り除くことが出来るか、わかりません。ところが、墓に着くと、石は既に転がしてありました。ユダヤの墓は岩をくりぬいて作る横穴式の墓です。婦人たちが中に入りますと、右側に天使が座っているのを見て、婦人たちは驚き、怖れたとマルコは伝えます。婦人たちは天使の声を聞きます「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(16:6-7)。

・マルコの記す復活の根拠は「イエスの墓は空であった」という事実です。聖書学者の多くも「イエスの墓が空であった」ことを史実と考えています。イエスの遺体消失に驚いた婦人たちは「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8)とマルコは記します。マルコ福音書の終わり方はあまりにも唐突で、後の教会の信仰の土台となった復活物語を書いていません。そのため、後代の人々はマルコ福音書の付録として、9-20節の顕現物語を付け加えました。しかしマルコはあくまでも9節で福音書を閉じているゆえに、私たちも9節までしか読みません。

 

2.ガリラヤへ

 

・マルコの物語では、天使が現れ、婦人たちに語ります「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(16:6-7)。このマルコの記事は二つの事実を私たちに知らせます。一つはイエスの遺体を納めた墓が空になっていたという伝承があり、二つ目は弟子たちがガリラヤで復活のイエスと出会ったという伝承があることです。
・最初に「空の墓の伝承」を見てみましょう。マルコでは「婦人たちは墓を出て逃げ去った・・・そして、だれにも何も言わなかった」とありますが、その後の消息を伝えると思われる記事がルカ福音書24章にあります。ルカは述べます「婦人たちは・・・墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた・・・使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ 24:8-12)。婦人たちは「イエスの遺体がなくなっている」と弟子たちに伝え、弟子たちは墓が空であることは確認しましたが、「まさかイエスが復活されたとは考えもしなかった」とルカは報告しています。ユダヤ教には世の終わりに、神が死者たちを復活させて下さるとの思想がありました。しかしそれは世の終わりであり、今ではありません。ですから、イエスの復活の報告を聞いても弟子たちは信じることができなかったし、弟子の一人トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ私は信じない」と言い放ちました(ヨハネ20:25)。また反対派の人々は「イエスは復活したのではなく、弟子たちが夜中に来て死体を盗んでいったのだ」と言いふらしていました(マタイ28:13-15)。イエスの墓が空であったことは反対派の人々も認めています。
・その後、弟子たちはどうしたのでしょうか。おそらく故郷のガリラヤに戻ったと思われます。その間の事情を伝えると思われる記事がヨハネ福音書21:2-7にあります。そこには、弟子たちがエルサレムを去ってガリラヤに戻り、元の漁師として働いていた時に、復活のイエスと出会ったとあります。弟子たちがガリラヤで復活のイエスと出会ったという伝承を元に、マルコは「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と天使に語らせているのです。

 

3.私たちは復活をどう生きるのか

 

・今日の招詞にマルコ1:15を選びました。次に様な言葉です「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。マルコは最初に「洗礼者ヨハネがイエスの宣教を準備するために遣わされた」と説明します(1:4-5)。イエスは故郷ガリラヤで、ヨハネの「神がイスラエルを救うために行為を始められた」との宣言を聞き、燃える思いで、ガリラヤを出られました。そしてイエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられ、弟子になられました。

・しかし、ヨハネは領主ヘロデ・アグリッパを批判したために逮捕され、それを契機に、イエスはヨハネ教団を離れ、故郷ガリラヤに戻られ、ご自分の宣教の業を始められました。その最初の肉声が招詞の、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉です。「時は満ち、神の国は近づいた」、この「時」には「カイロス」というギリシャ語が用いられています。通常流れる時間(クロノス)ではなく、「今、この時」という言葉が「カイロス」です。人々はやがてイエスの言葉を聞いていきます。その言葉が今この時の「出会いの言葉」となる時、人は「悔い改め」、「時はクロノスからカイロスに変わる」と語られます。

・そして弟子たちが招かれ、イエスと共にガリラヤの町や村を宣教して回りました。ここにイエスと弟子たちの原点があります。この「原点に戻れ」と復活者イエスが語られたとマルコは記します。それが「「あの方は復活なさって、ここにはおられない・・・さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる』と」(16:6-7)のメッセージです。「ガリラヤに行く」は現在形で書かれています。そしてそこで「イエスと出会うだろう」という表現は未来形で書かれています。イエスの復活顕現が「完了形ではなく、未来形でかかれている」ことに留意すべきです。

・マルコが書かれた当時、既にエルサレム教会の中心人物であったペテロたちは、「私たちはイエスに出会った」と自分たちの復活体験を語り、その体験を基礎にエルサレム教会を形成していました。その弟子たちに対してマルコは、「あなたたちはエルサレムではなく、ガリラヤに行け。そこで復活されたイエスと出会うだろう。エルサレムにはイエスはおられない。ガリラヤにいる貧しい者や泣いている者と共にイエスはおられる」とマルコは語っているのです。ガリラヤはヘブル語=ガーリール(周辺)から来ています。中心であるエルサレムから見れば周辺の地です。「周辺で=現場で生きる」、「自分のためだけではなく、隣人と共に生きる」生活を私たちが始めた時、私たちは「生けるイエス」と出会います。

・「時は満ち、神の国は近づいた」とイエスは宣言されました。しかしイエスはユダヤ教当局者に捕らえられ、殺され、「すべては終わった」ように見えました。しかし、終わらなかった。聖書学者ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」という本の中で述べます「イエスが来られても社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった」。キリストにある愚者とは、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分たちには何が出来るのか、どうすれば、キリストから与えられた恵みに応えることが出来るのかを考える人たちであり、この人たちによって福音が担われ、私たちにも継承されているのです。「ガリラヤに行きなさい」、「イエスが活動された現場に行きなさい」、「自分一人の信仰に安住するのではなく、イエスと共に現場に飛び込め」とマルコは私たちに迫るのです。

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