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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年9月3日説教(士師記2: 6-23、人生になぜ試みがあるのか)

投稿日:2017年9月3日 更新日:

2017年9月3日説教(士師記2: 6-23、人生になぜ試みがあるのか)

 

1.カナン定着の困難

 

・9月は4回にわたって士師記を読んでいきます。士師はヘブル語でショフェティーム、英語ではJudgesと呼ばれ、裁きつかさ、治める者という意味です。イスラエルが約束の地に入り、ダビデ・ソロモンの統一王朝を形成するまでの250年間の苦難の歴史が、時代時代の指導者「士師」の物語を通して、描かれています。紀元前1250年頃、イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを出て(出エジプト)、神が与えると約束された地に向かって歩んで行きます。そして40年の荒野の旅の後、民はモーセの後継者ヨシュアに率いられて、約束の地、カナンに入ります。約束の地と言っても、そこには先住民族が住んでおり、イスラエルは彼らと戦いながら、土地を獲得しなければいけません。しかし、鉄製の武器を持ち、城壁で守られた都市を攻略することは難しく、当初は人があまり住んでいない山地に入り、そこに定着を始めたようです。士師記1:19は記します「主がユダと共におられたのでユダは山地を獲得した。だが、平野の住民は鉄の戦車を持っていたので、これを追い出すことはできなかった」。

・神が与えると約束された土地をイスラエルはなかなか占領し、支配することが出来なかった。歴史的には武力に勝る敵を追い払えなかったという現実がありますが、士師記はそれを「神を信頼しない」不信仰の故と記します「私はあなたたちをエジプトから導き上り・・・先祖に与えると誓った土地に入らせ、こう告げた・・・あなたたちもこの地の住民と契約を結んではならない、住民の祭壇は取り壊さなければならない、と。しかしあなたたちは、私の声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。私もこう言わざるをえない。私は彼らを追い払って、あなたたちの前から去らせることはしない。彼らはあなたたちと隣り合わせとなり、彼らの神々はあなたたちの罠となろう。」(2:1-3)。

・多くの戦いを通して、イスラエルはカナンの地に徐々に足場を築いていきますが、周辺部族からの絶え間ない侵略にイスラエルは悩まされます。士師記はそれを「民が主を忘れ、罪を犯した時に裁きとして略奪者が送られた」と理解します。士師記には繰り返し、「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行ったゆえに、主は敵の手に彼らを売り渡された」と記します(2:11、3:7、3:12、4:1他)。

 

2.とげとしての異邦人の存在

 

・イスラエルは約束の地カナンに入りましたが、全ての土地は与えられず、先住民がその地に残りました。それは歴史的には占領地の支配が難航したことを示しますが、信仰的にはイスラエルに、目に見えるとげ、罠が与えられたことを意味します。士師記は記します「主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた・・・その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった」(2:7-11)。出エジプトを体験し、荒野で養われた主の恵みを体験した者たちは主に従いましたが、次の世代は「主の目に悪とされることを行い」、その結果侵略者が与えられたと士師記は記します。ちょうど日本において、戦前・戦中世代は戦争の悲惨を知るために「二度と戦争は繰り返さない」と誓いますが、戦後70年たつと、次の世代はそれを忘れてしまうのと同じです。

・カナンの人々が信仰していたバアル神は雷や雨を支配し、豊かな収穫を与えると信じられていました。その配偶神アシュタロテは豊穰の女神です。農耕生活に移った民にとって、天からの恵みを与える豊穣の神々は大きな誘惑でした。士師記は、「彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えた」(士師記2:12-13)と記します。その偶像崇拝は先住民との婚姻を通してイスラエルの中に入ってきます(士師記3:5-6「イスラエルの人々はカナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の中に住んで、彼らの娘を妻に迎え、自分たちの娘を彼らの息子に嫁がせ、彼らの神々に仕えた」)。主を裏切った民に対する措置は、敵の手に民を放置することでした「主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われた通り、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた。彼らは苦境に立たされた」(2:14-15)と士師記は語ります。

・民は苦難に陥ると主の名を呼び、主は危機における指導者として士師を送られます。士師たちの働きでしばらくは平和になります。「主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである」と士師記2:18は記します。ただその士師が死ぬと、「彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった」(2:19)。その繰り返しの中で主は宣言されます「イスラエルを試すために、私は異邦人を彼らの中に置く」と。「この民は私が先祖に命じた私の契約を破り、私の声に耳を傾けなかったので、ヨシュアが死んだ時に残した諸国の民を、私はもうこれ以上一人も追い払わないことにする。彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見る」(2:20-22)と。

 

3.士師記の物語は私たちとどうかかわるのか

 

・荒野の民は苛酷な状況の中では主に従って来ました。主の護りなしでは、水も食料もない荒野で生存することは不可能だったからです。しかし豊かな地に入れば、厳しい労苦は不要になり、民は安易に偶像礼拝に走ります。豊かな地において信仰を維持する唯一の道は、「とげを負って生きる」ことしかないと主は決断されたのです。それは今を生きる私たちも同じです。今日の招詞に第二コリント12:7-9を選びました。次のような言葉です。「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。すると主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」。

・パウロは深刻な病気を抱えていたようです。ある人は「癲癇ではないか」と推測し、別の人は「目の病」と考えています。何であるかはわかりませんが、それは彼の心身を苦しめると同時に、伝道の妨げにもなっていたようです。彼はその病を「サタンから送られた使い」と表現しています。パウロはこのとげを取り去ってくれるように、繰り返し主に祈りましたが、彼に与えられたのは「私の恵みはあなたに十分である」との言葉でした。彼は語ります「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(12:9)。この体験を通してパウロは「キリストのために、キリストと共に苦しむことこそ恵みである」ことを理解しました。だから彼は語ります「それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」(12:10)。

・パウロの祈りは聴かれませんでした。彼に与えられた「とげ」は取り去られませんでした。しかしパウロはそのことを主に感謝しています。私たちの人生にもいろいろな「とげ」が与えられます。試練や苦難が次々に与えられます。その時、私たちはパウロと同じように「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言えるでしょうか。内村鑑三の書いた文章に、「聴かれざる祈り」という短文があります。彼は「聴かれざる祈祷の著しき例が三つある。モーゼの祈祷が聴かれず、パウロも聴かれず、イエスご自身もまた聴かれなかった」と語り始め、パウロについて、このコリント12章の体験を語り始めます「パウロは一つの切なる祈願があった。彼は、単に彼の肉体の苦痛としてだけ、これを感じたのではなく、伝道に従事するに当って、大きな妨害としてこれを感じたのであろう。彼は幾回となく、このために敵の侮辱を受けたであろう。彼の福音は、幾回となくこのために人に嘲られたであろう。彼は自分の健康のためばかりではなく、福音のために、神の栄えのために、この痛い刺が彼の身から除かれることを祈った・・・ところがこの忠僕に対する、主の答は何であったか。『我が恩恵、汝に足れり』というものだった。君の痛い刺は除かれる必要はない。私の恩恵は、これを補い得て足りているということであった。パウロの切なる祈求もまた、モーセのそれと等しく聴かれなかった。新旧両約の信仰の代表者は、その厚い信仰を以てしても、その祈祷の応験を見ることが出来なかったのである」(内村鑑三「聴かれない祈り」、全集第20巻の現代語訳から)。

・主は、人を悔い改めに導くために、私たちに試練を与え、試練を通して、救いの道を開かれるとヘブル書は語ります「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。・・・わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。・・・鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」(ヘブル12:4-12)。士師記が私たちに語ることも同じメッセージです。「異邦人の軍事力が強大のために、約束の地に入れないのではない。あなたたちの信仰のなさがそれを招いている」、私たちに与えられる苦難の真の原因は私たちにあります。たとえ外部の問題が解決されても新しい問題が次々に生まれます。個々の問題解決にいかに尽力しても真の解決にはならない。私たち自身が変えられるとき、外部の問題も自然に解決していきます。人生には「とげ」が必要です。そのとげを私たちが神からの恵みとして受け入れる時、すべての問題は解決し、私たちは「神の平和」の中に、導かれるのです。

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