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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年7月30日説教(創世記3:20-4:1、創世記から学ぶ出産の意味)

投稿日:2017年7月30日 更新日:

2017年7月30日説教(創世記3:20-4:1、創世記から学ぶ出産の意味)

 

1.楽園追放後の人の歩み

 

・創世記を読み続けています。人は共に生きる者として女を与えられた時、「これこそ私の骨の骨、肉の肉」と呼びます。女が造られる事によって、人は一人ではなく、隣人と共に生きる存在となります。しかし、この関係が罪を犯すことによって変化していきます。2章17節で「善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と命じられますが、人は、禁じられたその実を食べてしまいます。

・人が禁断の木の実を食べ、「何故食べるなと命じた木から食べたのか」(3:11)と責任を問われるようになると、彼は「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)と答えます。「あなたが与えてくれた女が食べよと言ったから食べたのです。悪いのは私ではなく、あの女です」と彼は責任を妻に転嫁し、さらに「あなたが妻を与えなければこのような罪を犯さなかった。悪いのはあなたではないか」と神を非難し始めます。人は他者との関係が破れただけではなく、神との関係も破れました。女も言います「蛇がだましたので、食べました・・・あなたが蛇さえ創らなければ罪を犯さなかったのです」。「私が悪いのではない。神様、あなたが悪いのだ」、被造物である人間が創造主である神を非難しています。

・ここにおいて、人間の罪とは何かが明らかにされています。人間の罪は、神が「食べてはいけない」と禁じられたものを食べたことにあるのではありません。過ちを犯してもそれを自己の責任として受け止めることができず、その責任を他者に、最後には神のせいにしてまで逃れようとする、そこに人間の罪の原点があると創世記は語ります。罪とは過ちを犯すことではありません。その過ちを悔い改め、謝罪することができないところにあります。ですから、神は人を楽園から追放することを決められます。楽園に住むにはあまりにも幼く、外に出て成長する必要があったからです。

・楽園追放は罪に対する呪いではありません。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。神は着物を人間のために用意し、彼らを保護した上で追放されたのです。人は楽園を追放され、額に汗して地を耕す者になります。地を耕して初めて、太陽と雨がなければ収穫はなく、それは人の力では支配出来ないもの、神の恵みにより与えられる事を知りました。楽園の外に出ることを通して、初めて人は自分の限界を知り、神を求める者に変えられていきます。女も同じです。女は苦しんで子を産むことを通して、死ぬべき存在であるのに、生命の継承を許して下さる神の恵みを知りました。労働は苦しみであり、出産もまた苦しみでありますが、その苦しみを通して、本当の喜びを知る道を神は与えて下さったのです。人は楽園追放を通して、初めて神の愛を知ります。ですから、失楽園、楽園追放とは決して呪いではなく、祝福なのです。人は過ちを通して成長していく、ここから人間の歴史が始まったと創世記は語っています。

 

2.エバの出産

 

・アダムとエバは楽園を追放され、エデンの園の外で生き始めます。「アダム」とは元来、土(アダマ)から造られた「人間」という意味であって、その段階では男の固有名詞ではありません。しかし、女が造られて後、アダムは男となり、固有名詞になりました。そのアダムが、女を「エバ」と名付けます(3:20)。「エバ」、「ヘブル語=ハッファー」は命という意味で、エバはそのラテン語訳です。「彼女がすべて命あるものの母となった」、女こそが命を生み出す性です。男と女の信頼関係は崩れましたが、それにも関わらず、性の交わりを通して、新しい命が生まれることを神は赦して下さったのです。

・しかし罪ある人間はそれを感謝せず、自分で命を作り出し、「神のような」力を持ちたいと願います。彼らは罪を犯し、楽園から追放され、その荒野で人間が最初に行ったことは性の交わりです。創世記は記します「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『私は主によって男子を得た』と言った」(創世記4:1)。「知った」とは、性的な交わりを持ったということです。そして女は身ごもってカインを産み、続いて弟のアベルを産みます(4:2)。子が生まれた時、エバは言います「私は主によって男子を得た」。新共同訳では子を与え与えられたことを神に感謝する表現になっていますが、原文では微妙に異なります。

・「男子を得た」と訳された「カーナー」という言葉は、創造したという意味をも持ちます。ある旧約学者はこの個所を「私は神と同じように人を創造した」と訳すべきだとします(J.C.ギブソン他)。「神だけが命を与えるのではない。私も命を創造した(カーナー)」とエバは意気揚々と語っていると読み取るべきだと。女はここで「神のように」なった自分を誇っています。女性は子供を産んだ時に非常に誇らしい気持ちになります。それは出産が命がけの大仕事であると同時に、女性にしか出来ないことだからです。しかし、出産そのものに自分の力を誇るようになる時に、人は過ちに陥っていきます。現代人は「子を生む」ことを「子を造る」と言います。自分の力で妊娠し、出産し、誰の世話にもなっていない。だからその子をどうしようと私の勝手だと考え、出生前診断で異常が見つかれば、不良品として中絶します。子供は自分たちが生む(造る)と考える時、そこにエゴが入ります。年間20万件に及ぶ妊娠中絶はその結果です。子は自分たちが造るのか、それとも神により授けられるのか、生き方の分岐点がそこにあります。信仰者は、命は男女の愛の交わりの中で母胎に宿り、生み出されるべきもので、そこに神の祝福、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」が与えられると理解します。その祝福の中で、親たちは子を神から与えられた子として受け止め、神の子として心から愛していく。その親の愛の中で、隣人を愛する人間が育っていく。

・しかしエバは、神の祝福など必要としない形で、誇らしげにカインを生みます。その結果、子のカインはどう育ったのか。彼は、自分の兄弟を妬んで殺す最初の殺人者になります。彼の母エバは新しい生命をつくる彼女の能力を誇って胸が一杯になりました。このようにしてつくられた新しい生命は、彼の仲間に対する責任を放棄し、仲間が彼の邪魔をするのであれば、彼を殺して取り除く存在になりました。彼らは、そういう子を育てた、そういうふうにしか育て得なかった。そのようにして、彼らは自分たちの「力」が何であり、どういうものであったかを知っていくのです。出産の日から何年もたって、自分の兄息子が弟息子を殺すという悲劇の中で、彼らは「人が子を創造するのではない」ことを知らされることになります。

 

3.しるしとしての十字架

 

・今日の招詞に創世記4:25-26を選びました。次のような言葉です「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」。神はカインを追放されましたが、彼にしるしをつけて保護されました。カインは妻を娶り、彼女は子を産みます。カインの子孫からレメクが生まれ、レメクは言います「私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍」(4:23-24)。七倍の復讐はカインを保護するためのものでしたが、レメクが主張する七十七倍の復讐は自己の力を誇示するためのものです。神の赦しを知らない者は、孤独と不安から自己の力に頼り、その結果、他者に対して敵対的になります。他者を威嚇することによって自分の安全を図ろうとする、この人間中心主義の流れが現代にも継続されています。

・アダムとエバは次男を殺され、長男は追放されます。その二人に、主は新しい子、セトを与えられます。セトのヘブル名シャトは「授かる」という意味です。「主によって子を授かった」との感謝の気持ちが込められています。前にカインを生んだ時にはエバは「私は主のように人を創った」(4:1)と誇りました。カインを生んだ時、エバは自分の力で子供を産んだと理解していました。しかしその傲慢の罪の結果、弟息子は殺され、兄息子は遠い所に追放されます。その罪の悔い改めが、次の子セトを「授かった(シャト)」いう言葉に反映しています。子供は産む(造る)のか、それとも授けられるのか、この理解が子供に対する親の意識を大きく変えます。そして、セトの子の時代に「主の名を呼び始めた」(4:26)と創世記は記します。「主の名を呼ぶ」、神を礼拝するという意味です。弱さを知り、それ故に主の名を呼び求める人々の群れがここに生まれたのです。

・イエスは「七の七十倍赦しなさい」と教えられました(マタイ18:22)。この流れの中で、「七十七倍の復讐をやめ、七の七十倍の赦しを」求める人々が生れていきます。神に赦されたから人を赦していく、神中心主義の流れです。人間の歴史はこのカインの系図とセトの系図の二つの流れの中で形成されてきました。カインの子孫たちは「人間に不可能はない。劣った者は滅びよ」という考えを形成して来ました。現代社会ではこの流れが多数派です。しかし少数であれ、「人間は弱い者であり、神の赦しの下でしか生きることが出来ない」ことを知るセトの流れを汲む者たちが存在し、信仰者は自分たちがセトの子孫であることを自覚します。

・私たちはエデンの東に住み、「殴られたら殴り返す」社会の中で生きています。その中で、私たちは「七の七十倍までの赦し」を求めていきます。それはイエスの十字架を見つめる時にのみ可能になります。カインさえも赦しの中にあり、殺されたアベルもセトという形で新たに生かされたことを知る時、私たちもカインの末裔でありながら、「主の名を呼び求める者」に変えられていきます。そして十字架を仰ぐ時、イエスが死から復活されたように、私たちも新しい命を与えられることを信じて生きます。

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