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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年5月21日説教(ローマ8:18-30、将来の栄光のための現在の苦しみ)

投稿日:2017年5月21日 更新日:

2017年5月21日説教(ローマ8:18-30、将来の栄光のための現在の苦しみ)

 

1.現在の苦しみ

 

・今日はローマ書8章を読んでいきます。キリストに出会う前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。彼は律法=神の戒めを守ることによって救われようと努力しましたが、戒めを守ることのできない自分を見出し、その結果神の怒りの下にあることの恐れが彼を苦しめ、うめかせていました。彼は叫びます「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(7:24)。その彼がキリストとの出会いを通して変えられていきます。パウロは告白します「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(8:3)。キリストの十字架を通して自分の罪が購われた、神との和解が為された、神の子としていただいた、とパウロは感謝します。

・私たちは「神の子」とされた。しかし現実の私たちはまだ肉の体をまとって、地上の生を生きています。そしてこの地上は、イエスを十字架で殺した場所、罪が支配している「邪悪な」場所です(使徒2:40)。この世の支配原理はエゴイズムです。競争社会の中で他者を押しのけて勝つ者たちは「勝ち組」と呼ばれ、敗者は「負け組」と蔑まれます。当時の社会ではローマ帝国が勝ち組であり、キリスト者は小さな存在でした。人々は「世界を支配するローマ皇帝こそ神の子だ」と賛美し、皇帝を拝みましたが、キリスト者は復活された「ナザレのイエスこそ神の子である」と主張して皇帝礼拝を拒否し、迫害されていきました。パウロはその現実を見据えて言います「この世でキリスト者として生きることはキリストと共に受難の人生を送ることだ」と。しかし「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける。現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」(8:17-18)と語ります。

・パウロがローマ8章で取り上げているのは死の問題です。パウロは言います「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(8:5-6)。あなたがたが「肉に従って」、「この世の価値観に従って」生きるなら、その結果は死である。ローマ皇帝を拝んでもそれはこの世だけのことであり、ローマ皇帝もやがて死ぬ。いつかは死ぬ人間を拝んでもそこに命は生まれない。しかし神はイエスを死から起された。命は神とともにある。だから「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」(8:9)。

・肉の思いから解放され、霊に生きる時、世の有り様が見えてきます。パウロは語ります「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものです」(8:20)。ここで言う被造物とは「自然」と言い換えてもよいでしょう。パウロは、自然そのものが人間の罪によって、虚無の中でうめいていると言います。自然と人間は不可分です。人間の罪が戦争を引き起こし、戦争は大地を荒廃させます。預言者エレミヤが語る通りです「いつまで、この地は乾き、野の青草もすべて枯れたままなのか。そこに住む者らの悪が、鳥や獣を絶やしてしまった」(エレミヤ12:4)。人間の欲望が森林を乱開発し、地球規模で砂漠化を進行させ、鉱物や石油が大地から掘り出され、大地は汚染され、世界各地で公害や大気汚染が起きています。炭素エネルギーの過剰使用は地球を温暖化させ、異常気象を招きます。フクシマが人の住めない土地になった罪を反省せず、原発の再稼働を進めるのはエゴの行為です。人間の果てしない欲望、罪が自然を破壊しています。「人間の罪により自然が破壊されている」というパウロの視点は、地球規模の環境破壊が進む現代においては、特に大事な言葉です。

 

2.苦しみを超えて

 

・しかしパウロは絶望しません。人間が贖われることによって、自然もまた回復することが出来ると彼は語ります。今は生みの苦しみ、救済への過程にあると彼は信じます「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(8:21-22)。パウロは続けます「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(8:23)。私たちは霊の初穂をいただいている、霊の救いという内面的な救済はすでに始まった。しかし体は肉を持つゆえに罪の虜になっている。救いは始まったがまだ完成していない、いつの日かこの体が贖われるその日を待ち望んでいるとパウロは言います。

・今現在、私たちの救いは目に見えません。現実の世界では、苦難が繰り返し襲い、私たちは疲れ果てて祈ることさえできない。しかし神は私たちのうめきを聞きとって下さる。私たちが祈れない時には共に祈って下さる「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」( 8:26-27)。

・神の霊が私たちを支えてくれるゆえに、不信仰な私たちも神の約束を信じて人生を歩み続けることが出来ます。その時、私たちは「万事が益となって働く」(8:28)ことを経験します。私たちの生活は苦難に囲まれています。苦しみそのものは決して良いものではありませんが、それが私たちのために最善に用いられることを知るゆえに、困難や苦しみを喜ぶことが出来る者とされています。パウロはフィリピ教会への手紙の中で語っています「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1:29)。病も死も神がお与えになる故にそれは祝福なのだと受け止めていく時、人生に怖いものはなくなります。

 

3.将来の栄光のために

 

・今日の招詞にローマ8:33-34を選びました。次のような言葉です「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです」。キリスト者になることは、イエスが十字架の苦しみを負われたように、私たちも苦しみを担っていくことだとパウロは言います。しかし一人で担うのではないと彼は言います「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか」(8:31)。ここでパウロは裁判のことを考えています。彼はそれまでの生涯で、何度も投獄され、鞭打たれ、法廷に引きずり出されています。法廷には告発する者と弁護する者、そして裁きを行う者がいます。「もし裁く者(裁判官)が神であり、神が私たちの味方であるとすれば、何も恐れることはないではないか」と彼は言うのです。
・パウロの生涯は苦難の連続でした。彼は同胞ユダヤ教徒からは、「裏切り者」として、命をねらわれていました。彼は母教会のエルサレム教会からは、律法を無視する異端者として批判されていました。自分が開拓伝道したコリント教会やガラテヤ教会からも、「彼は本当に使徒なのか」と疑われていました。そして生涯の最後には、ローマで処刑されます。この世的に見れば、パウロの生涯は苦労ばかり多く、報いは少なかった。しかし、パウロ自身の認識は異なります「私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けてくださるのです」(第二テモテ4:7-8)。「やるべきことをやり終えた」といえる人生は素晴らしい。私たちの目の前には、二つの人生の可能性があります。一つは「幸福な人生」、自己実現に励み、他者からの評価を求める人生です。しかし死ねばすべて終わり、死後には何も残しません。もう一つの人生は「意味ある人生」、他者のために働く人生です。その人生は死んでも終わりません。新しい命がそこから生まれてくるからです。いかに多くの人々がパウロの言葉に励まされ、新しい人生を生き直すことが出来たことでしょう。

・パウロは語ります。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。キリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです」(8:33-34)。地上においては聖霊が私たちの心の内に働いて執り成し、天上においては復活されたキリストが私たちのために執り成される。神はこのような形で私たちを守って下さるのだから、たとえ地上で迫害や困難があっても恐れる必要はないと彼は書き送ります。

・人が地上の出来事のみに目を奪われている時、彼の信仰は揺らぎます。しかし彼が天上に目を向け、すべては神の支配の中にあることを確認する時、不条理も一時的なものであることに気づきます。彼を取り巻く現実は変わっていません。悪は栄え、彼は神の栄光に預かっていない。しかし心は平安です。彼はやがて死ぬでしょう。しかし神は死を超えて慈しんで下さると信じる故に彼の心は平和です。例え虐げられている人が戦乱の中で殺され、栄養不足で餓死したとしても、彼らは天上で迎え入れられます。救いは肉体の死を超えて存在します。信仰とは、この「目に見えないものを望んでいく」ことです。パウロは述べます「私たちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(8:24-25)。現在の苦難は将来の栄光のためにある、それを知った時、「苦難が苦難のままに祝福になっていく」。それが私たちに与えられた福音なのです。

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