2017年3月5日説教(マタイ18:21-35、私たちは人の罪を赦せるのか)
1.人は何度他者を赦すべきなのだろうか
・マタイ福音書を読み続けています。今日の個所はイエスの言葉「あなた方の一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるだろう」(18:35)をめぐる物語です。「赦す」ということは難しい事柄です。2016年5月、東京都小金井市で、芸能活動を行っていた20歳の女性をファンの男性がSNS上でストーカー行為を繰り返した後、ナイフで刺殺しようとしました。被害者は一命を取り戻し、加害者には懲役14年の判決が言い渡されました。被害者女性は裁判の中で語りました「普通に過ごしていたはずだった毎日を返してほしい。傷のない、元の身体を返してほしい。犯人は何一つ傷ついていないのに、私だけが身体にも心にもこんなに多くの傷を負って、これから先も痛みに耐えて生きていかなければならないと思うと、悔しいし、赦せません」(2017年2月23日、毎日新聞)。当然の気持ちの表明です。私たちもそうだと思います。それに対してイエスは「七の七十倍まで赦しなさい」と無限の赦しを語られます。このイエスの言葉を私たちはどのように聞くのかが、今日の主題です。
・兄弟が罪を犯した時、私たちは赦すように教えられています。でも何度赦せばよいのでしょうか。ペトロはイエスに尋ねます「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(18:21)。ユダヤ教の教えでは、「三度までは赦しなさい」と教えていました。日本でも「仏の顔は三度まで」という諺があります。人間として三度までは我慢しなさいというのは東西共通のようです。それをペテロは「七回まで」に拡大し、イエスの賞賛を期待します。しかし、イエスはペトロの決定をはるかに越えた答えをされます。イエスは「七の七十倍まで赦しなさい」と指示され(18:22)、「仲間を赦さない家来」のたとえを語り始められました。
・「仲間を赦さない家来」のたとえでは、主君が家来に1万タラントンの返済を求めた所から話が始まります。1万タラントンは6千万デナリオン、1デナリオンは当時の労働者1日の賃金ですから、仮に1日の賃金を1万円と仮定すれば、1万タラントンは今日の通貨基準では6千億円に相当します。権勢を誇ったユダヤ領主ヘロデ大王の租税年収が900タラントン(500億円)といわれていますから、1万タラントンは途方もない金額です。イエスは語られます「ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めた処、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するよう命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部返済します』としきりに願った。主君は憐れに思って、彼を赦し、彼の借金を帳消しにしてやった』」(18:23-27)。家来の負債1万タラントンという金額は、彼が到底弁償できるはずがない大金です。彼はひれ伏して赦しを乞うしかありません。そして寛大な王は彼の負債を赦しました。このたとえが象徴することは明らかです。私たちは「神から無限の赦しをいただいて今を生きている」ということです。
2.人を赦さない者は赦されない
・物語は続きます。第二の場面では、1万タラントンという巨額の負債を帳消しにしてもらった家来が、立場が逆になり自分が債権者になると、わずか100デナリオンの負債も赦さなかったという話です。100デナリオンは単純化すれば100万円です。負債者はひれ伏して赦しを乞いますが、家来は赦すどころか、首を絞めて痛めつけ、あげくに牢にぶちこんでしまったとイエスは語られます。「ところがこの家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して『どうか待ってくれ、返すかから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた」(18:28-30)。この債務者が借りていたのは100万円、6000億円の負債を赦してもらった家来が100万円の負債者を赦さなかったという話なのです。
・負債者の仲間はこれを見て心を痛め、王に訴え出ます。王は激怒し、この不埒な家来を捕えて、一万タラントンを返済するまでは赦さないと彼を牢に入れます「『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」(18:32-34)。投獄された王の家来が解放されることはあり得ないでしょう。当時奴隷一人の値段が500デナリオンですから、家族を奴隷に売ったとしても1万タラントンの調達は不可能です。贖いきれないほどの大きな罪を神の憐れみで赦されていることを忘れ、兄弟の小さな罪を赦さない忘恩の行為が、どれほど罪深いかを、このたとえは教えています。だからイエスは語れます「あなた方の一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるだろう」。(18:35)。
・「人を裁くな」とは、イエスが繰り返し教えられたことです。7章でもイエスは語られています「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(7:1-2)。しかし私たちは自分に罪を犯した他者を赦すことが出来ない。マタイはこの物語を教会の中の出来事として語っています。教会は人間の集団ですから、そこには「毒麦も良い麦も」生えます。網を投じれば「良い魚も悪い魚も」収穫されます。どうしても好きになれない人も、尊敬できない人も、私たちをないがしろにする人もいます。しかし彼らと共に生きること、「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」(18:10)と語られています。
3.私たちはこの物語をどう聞くか
・イエスは「七の七十倍赦せ」と語られました。イエスの言葉は明らかに創世4章のレメクの言葉を受けています。レメクは兄弟殺しの罪を犯したカインの子孫です。レメクは語ります「私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍』」(創世記4:23-24)。神は兄弟殺しを行い、楽園を追放されたカインを憐れみ、「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受ける」として保護されました。カインの子孫レメクは、その神の言葉を逆手にとって「カインの復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」と語るのです。神の赦しを知らない者は、孤独と不安と恐怖から自己の力に頼り、その結果他者に対して激しく敵対します。権力者が自分の周りの人間を恐れて粛清を行うのもこの恐怖から来ます。聖書の中ではヘロデ王もソロモン王も競争相手を粛清しています。この人間中心主義の流れが現代にも継続されています。私たちの社会は、「やられたらやり返す、そうでなければ秩序を保てない」と考える人が多数を占める社会です。「核の傘」とは威嚇による安全保障を指します。
・今日の招詞に、創世記4:26を選びました。次のような言葉です「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」。神は失われたカインの代わりに、アダムとエバに新しい子セトを与えられ、このセトの子孫たちが主の御名を呼び始めたと創世記は語ります。ここに、「七の七倍の復讐をやめ、七の七倍の赦しを」求める人々の系図が生れていくのです。「赦されたから赦していく」、神中心主義の流れです。人間の歴史はこのカインの系図とセトの系図の二つの流れの中で形成されてきました。キリスト者は自分たちがセトの子孫であることを自覚します。
・「アーミッシュの赦し、なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか」という本があります(ドナルド B.クレイビル著、亜紀書房)。2006年10月2日、アメリカ・ペンシルベニア州ニッケルマインズの「アーミッシュ学校」で銃の乱射事件が起こり、女生徒5人が殺され、犯人は自殺するという事件が起こりました。アーミッシュはキリスト教少数派の再洗礼派に属し、現代文明を罪として、電気も自動車も使わない生活している人々です。独自の農業を行い、ほぼ完全な自給自足の生活を送っています。その彼らの学校が襲われ、5人の子供たちが殺され、犯人は自殺します。この惨劇の中で行った彼らの応答が全米の人々を驚かせました。殺された被害者の家族たち(アーミッシュたち)が、殺害者の葬儀に参列し、加害者家族のために生活支援の申し出をしたのです。彼らは「他者を赦す者だけが、神から赦される」という信仰を持ち、今日のみ言葉「あなた方が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさる」(18:35)という教えを文字通りに実行したのです。彼らは文明を拒否する異常人です。聖書を文字通りに生きる愚直な人々です。しかし彼らの行為は私たちを惹きつけます。
・家族を殺された犯罪被害者たちは一様に叫びます「赦せない。極刑をもって罪を贖ってほしい」。当然の感情です。しかしイエスの弟子パウロは語ります「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われると書いてあります」(ローマ12:19)。私たちは現代文明を否定するアーミッシュの人々は愚かだと思いますが、彼らの信仰の中に聖書が求めている真理があるのは事実です。「打たれたら打ち返す」社会の中で、「七の七倍までの赦し」を求めていく。イエスは十字架上で自分を殺そうとする者たちのために祈られました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。そしてイエスは私たちに主の祈りを教えられました「私たちに負債のある者を赦しましたように、私たちの負債をもお赦しください」(6:12)。私たちはイエスやアーミッシュの人々のような生き方はできません。しかし教会内で自分に罪を犯したと思う人を赦すくらいはすべきです。人間関係のもつれで教会を去るような弱い信仰からは解放されるべきです。人を見るのではなく、神を見る教会を形成したいと願います。