2017年2月5日説教(マタイ11:2-19、イエスを救い主として受入れる)
- イエスの使信にヨハネがつまずく
・今日の宣教箇所マタイ11章前半は、洗礼者ヨハネがイエスにつまずいた記事です。洗礼者ヨハネはイエスに洗礼を授けたイエスの師でした。イスラエルはヘロデ王の死後、ローマ総督が治める植民地になりましたが、反乱が頻発し、世情は騒然としていました。そのような中に、洗礼者ヨハネが現れ、「神の国は近づいた」、「終末の裁きの時が近づいた」と宣言し、人々に悔改めを迫りました。人々はこのヨハネの宣教に心動かされました。故郷ナザレにおられたイエスも、ヨハネが「世の終わりが来た」として宣教を始めたのをで聞かれ、「内なる声」に導かれて、ユダに来られ、彼からバプテスマを受けられました(3:13)。イエスは受洗後も、故郷には戻られず、ヨハネの下で学びを深められました。
・しかし、イエスは次第にヨハネの言動に違和感を持たれるようになります。ヨハネのように「罪びとを断罪し、悔い改めに至らせる」ことが、果たして「神の国の知らせなのか」という疑問を持たれたのです。やがてヨハネはガリラヤ領主ヘロデ・アンテイパスを批判して捕えられ、死海のほとりのマケロス要塞に幽閉されます。イエスはそれを契機にヨハネ教団から独立して、宣教を始められます。マタイは記します「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた・・・その時から、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた』」(4:12-17)。
・やがてイエスの評判が獄中のヨハネに届きます。ヨハネの使信は、「裁きの時は近づいた、悔改めなければおまえたちは滅ぼされる」というものでした。ヨハネが期待したメシアは、不信仰者たちを一掃し、新しい世を来たらせる裁き主でした(3:11-12)。しかし、イエスは罪人と交わり、貧しい人を憐れみ、病人をいやされている。裁きの時に罪人は滅ぼされる運命にあるのに、イエスは罪人の救いのために尽力されている。だからヨハネはイエスに尋ねます。「イザヤの預言した、来るべき方はあなたなのですか。あなたは本当にメシアなのですか」(11:3)。
・そのヨハネにイエスはイザヤ35:5-6を引用してお答えになります。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と(11:4-5)。イエスは人々に天の父が彼らを愛し、養い、導いて下さることを告げ知らせました。その喜ばしい知らせのしるしとして、病や悪霊に苦しんでいる者をいやされました。しかし、人々は理解しなかったし、ヨハネもわかりません。人々は自分の期待を込めた勝手なメシア像を作るのです。民衆は「貧しい暮らしから解放するメシア」を求め、支配者は「ローマから解放してくれるメシア」を求め、ヨハネは「悪に満ちた社会を裁き、正義と公平を実現されるメシア」を求めていました。
2.私につまずかない者は幸いである
・イエス自身もそのことを知っておられた故に言われます「私につまずかない人は幸いである」(11:6)。「つまずく」の原語は「スカンダロン」、この言葉から英語「スキャンダル」が生まれています。イエスはユダヤ人にとって不浄とみなされた取税人や罪びとと食事を共にされました。触れてはいけないと禁止されていたらい病人に触れて彼を癒されました。当時の人々が「罪びと」として排斥し、「不快だ」と思っていた人々にこそ、救いが必要だと判断され、行動されました。人々はそのようなイエスにつまずきました。それは「スキャンダル」だと人々は思ったのです。イエスが期待したような方でないことがわかると、民衆はイエスに失望し、離れて行きます。それをイエスは次のように言われました「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに悲しんでくれなかった」(11:17)。ヨハネが来て「罪を悔い改めよ」と言うと、「ヨハネは人間の罪ばかりを見て、悔い改めよとしか言わない。彼は悪霊につかれている」と批判し(11:18)、イエスが来て「喜べ」と言うと、「断食もせず、罪人と交わっている。大食漢の大酒飲みで、徴税人や罪人の仲間だ」と受入れません(11:19)。イエスにつまずいた人々は、やがて「イエスを十字架につけろ」と叫び始めます(27:22)。
・弟子たちもまたイエスにつまずきました。イスカリオテのユダはイエスを裏切った弟子として嫌われていますが、彼はイエス共同体の財政責任を担っていた人物です。他の弟子たちと違って、イエスと同じユダ族の出身であり、学識もあり、おそらくイエスから最も信頼されていた人物です。その人物がイエスにつまずきました。おそらくはユダは解放者メシアを求め、イエスが無力であることを見て、失望し、つまずいたのです。人々は自分の期待を込めたメシア像を抱きます。人々にとってメシアとは、自分たちの願いをかなえてくれる人のことでした。イエスがそうでないことを知った時、ユダはつまずいた。ほかの弟子たちもつまずいた。だからイエスの十字架時には、弟子たちは皆逃げ去りました。
・人々はキリストにつまずきました。キリストが来ても何も変わらない。生活は良くならないし、ローマは相変わらずユダヤを支配し、世の不正や悪は治らない。「本当にこの人はメシアなのか」というつぶやきが生まれます。このつまずきは私たちにもあります。信じてバプテスマを受けても、病気が治るわけではないし、苦しい生活が楽になるわけでもありません。私たちも心のどこかで疑っています「この人は本当にメシア=キリストなのだろうか」、「この人に自分の人生を委ねても良いのだろうか」と。
3.つまずきを超えて
・今日、私たちは招詞として、マタイ11:28-30を選びました。今日のテキストのすぐ後にある言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」。私たちは、この招きが、人々の心がイエスから離れ、最大の理解者であったはずのヨハネさえもイエスにつまずいた後でなされたことに注目すべきです。人間的にみれば、四面楚歌の中で、なおもイエスは人々のために、「重荷を負おう」と申し出られています。
・弟子たちは、この時にはイエスの言葉の真意がわからなかったでしょう。やがて、イエスが捕えられる時、弟子たちはイエスを見捨てて逃げ、その見捨てを通して自分たちの罪を知ります。この福音書を書いたマタイは徴税人でした(9:9)。徴税人はローマのために税を集め、汚れた異邦人のために働く者として、社会のつまはじき者でした。その自分にイエスは声をかけてくれた。マタイにとり、イエスは恩人です。しかしマタイを含めた弟子たちは、彼らを招かれたイエスを見捨てて逃げます。
・十字架に照らされて、初めて、私たちは自分たちの罪が見えます。人を愛そうとしても出来ないし、他者に尽くそうとしても出来ない。他者の痛みを理解することさえ出来ない。十字架を通して罪を知った弟子たちは、復活を通して、その赦しを知りました。逃げ去った彼らの下に復活のイエスが来て下さり、彼らの宣教の業を委ねられました。十字架と復活を通じて、弟子たちは罪を悔い改め、赦しに涙しました。そして、弟子たちの生活は変えられていきます。もう前のような生活は出来ない。イエスの死後、弟子たちは「イエスは復活された。イエスこそメシアである。私たちはその証人だ。だから、あなたたちも悔い改めて、イエスの招きを受入れなさい」と説きました。ユダヤ当局者は彼らの言動に腹を立て、捕らえ、鞭打ちます。その時、弟子たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と使徒行伝は記します(5:41)。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい」という言葉をイエス亡き後、弟子たちが代わりに担って行ったのです。
・「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい」(マタイ11:28)というイエスの言葉を刻み込んだ建物が、ニューヨークの港の入り口に建てられている「自由の女神像」です。その台座にはエマ・ラザラスの14行詩が刻まれています「疲れた者たちを、貧しい者たちを、自由の空気にこがれひしめく人々を、ここへ寄こしなさい、あふれかえる岸であわれにも拒まれた者たちを。これら、寄る辺ない、嵐に打たれた者たちを、ここに来させなさい、私は掲げる、金色の扉に、この灯かりを」。アメリカはピルグリムと呼ばれたイエスの弟子たちの理想をもって建国されました。その合衆国の硬貨にはラテン語で「エ・プルビウス・ウヌム(E Pluribus Unum)」と書かれています。「多様の中の統一」という意味です。そのアメリカが変質しようとしています。移民増大に伴う混乱につまずく人々がトランプ政権を誕生させ、新政権は移民排除の大統領令を出し、世界に混乱をもたらしています。この政権はマタイ11:28「私のもとに来なさい」という教えを否定する政権であることを認識すべきです。ただその後、ワシントン州シアトル連邦地裁が2月3日に「一時差し止め」を命じる仮処分決定を出し、命令は全米に適用されるようになりました。アメリカの理念は死にませんでした。
・アメリカでは「日曜日の午前11時は人種差別がもっとも励行される時間である」と言われます。白人は自分たちのプロテスタント教会に行き、黒人はバプテスト等の黒人教会に行き、ギリシャ系の人々は正教会に行き、日本人は日本語教会に行きます。これはある意味で仕方のないことです。そのお互いの違いを認め合い、尊重することこそ、「多様の中の統一」です。その現実を踏まえたうえで、「私につまずかない人は幸いである」というイエスの言葉に聞く必要があります。私たち現代人は「神は死んだ」として、人間の知性・理性に究極の信頼を置く生き方をしてきました。その結果、私たちは神を見失い、相対的存在である人間が絶対化され、人は他者よりも優位に立つことを競い、能力の劣る者を障害者、敗者として排除するようになり、争い合い、殺し合い、世界大戦という全世界的な殺し合いまで行いました。世界大戦を経験した人間は、自分が有限な存在であること、「神なしには生きていけない」ことを知ります。今、私たちはもう一度神に立ち返ることが必要な時に来ています。