2017年2月26日説教(マタイ14:22-36、たとえ嵐の中にいても)
1.嵐に悩む弟子たち
・マタイ福音書を読んでいます。イエスはガリラヤを回って、教え、人々の病をいやされました。大勢の人々がイエスの周りに集まって来ました。ある時、イエスの話を聞くために、ガリラヤ湖のほとりに数千人の人が集まりましたが、食べるものもない群衆を憐れまれたイエスは、手元の五つのパンで、5千人の人を養われます。群衆はその奇跡に驚き、賞賛の声が大波のように広がりました。ヨハネ福音書の並行個所では「人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言い、イエスを王にするために連れて行こうとした」と記します(ヨハネ6:14-15)。興奮状態の中で、今にも暴動が起こりそうになり、また弟子たちも興奮に巻き込まれていました。そのため、イエスは弟子たちを舟に乗せて向こう岸に行かせ、群衆を解散させ、ご自身は祈るために山に登られます(14:22)。
・弟子たちが舟に乗ったのは夕方でした。その時、山の方から強い北風が吹き、舟は湖の真ん中で立ち往生してしまいます。強風が吹き荒れ、波は逆巻き、舟は嵐に翻弄されます。弟子たちは必死に舟を進めようとしますが出来ません。時はいつの間にか、明け方に近くなりました。イエスは対岸からそれを見て、弟子たちを救うために、湖上を歩いて、弟子たちのところに行かれます。弟子たちはその姿を見て、幽霊だと思いました。人が水の上を歩くことは出来ない。そのありえない出来事が今、目の前に広がっています。弟子たちがおびえるのは当然です。しかし、「私だ、恐れることは無い」というイエスの言葉に弟子たちは我に帰ります。嵐は続いていますが、イエスが来られたことで安心感が広がりました。
・その時、弟子のペテロが突然に行動を始めます「あなたでしたら、そちらに行かせて下さい」。ペテロは途方も無いことを言い出します。人が水の上を歩くことなど出来るわけがない。しかし、ペテロは歩き始めました。彼は自分が何をしているかに気づかず、ただ、助けるために来られたイエスだけを見つめています。その時は歩けました。しかし、やがて、風の音が耳に入り、大波が目に入ると、途端にペテロは怖くなります。そしてペテロは水に沈み始めます。ペテロは叫びます「主よ、助けてください」。イエスはペテロに手を伸ばし、体を引き上げられ、二人が舟に乗り込むと風は静まりました。彼らはイエスの前に告白します「あなたこそ神の子です」。弟子たちの初めての信仰告白です。
・不思議な出来事です。私たちはこの出来事をどのように理解したらよいのでしょうか。イエスが弟子たちを助けるために湖を歩いて来られた、「水の上を歩く」、そんなことが本当に起こったのか、現代の多くの人がこの個所に躓きます。この物語はおそらく、復活後のイエスとの出会いを描いたものでしょう。聖書学者のE.シュバイツアーは注解で叙述します「ヨハネ福音書21章7-8節によれば、ペテロは復活したイエスに向かって水の中に飛び込み、彼に向って水の中を歩いて渡る。これがイエスの地上の生涯の中での物語へと発展していったのではないか」(NTDマタイ注解436p)。この物語が、復活後に顕現されたイエスとの出会いであれば、イエスが水の上を歩かれてもおかしくないし、闇の中を歩いてこられるイエスを見て、幽霊だと思っても不思議はありません。ヨハネ福音書では復活のキリストと出会ったペテロたちが「その人がイエスだとはわからなかった」(ヨハネ21:4-7)と記します。ルカ福音書では、復活のイエスに出会った弟子たちが、顕現されたイエスを幽霊と思ったという記事も残されています(ルカ24:3-37)。この記事が復活のイエスとの出会い体験から生まれたものだとすれば、それは私たちにも起こりうる出来事です。復活体験は言葉では説明の出来ない出来事です。しかしイエスの十字架刑の時に逃げ去った弟子たちが、やがてまた集められ、「イエスは死からよみがえられた。私たちはそれを見た」と宣教を始め、死を持って脅かされても信仰を捨てなかったことは歴史的事実です。私たちもまたいろいろな場面でイエスとの出会い体験(あるいは神秘体験)をしています。
2.私たちは一人ではない
・「助け主が来られる」、それがこの物語の主題です。弟子たちは嵐の中で苦闘しており、イエスは岸からそれを見て、彼らを救い出すために歩き出されます。弟子たちには暗くて見えませんが、救いは既に始まっています。見えない時には、救い主を幽霊と誤認しておびえますが、「私だ、恐れることは無い」と言う声で、救いが始まった事を知ります。それでも私たちは、取り巻く現実を見て、怖くなって、沈みます。人が自分の事だけを、自分を取り巻く困難さだけを考える時、その人は沈みます。しかし、私たちを助けるために来られた方を見つめ続ける時、私たちもまた水の上を歩くことが出来ます。仮に不信仰のために一旦沈んでも、助けの手が来ます。ペテロはイエスから目をそらしましたが、イエスはペテロを見つめ続けておられた。ペテロの手はイエスに届きませんでしたが、イエスが手を伸ばして、捕らえて下さいました。
・マタイが福音書を書いた当時、教会は迫害と困窮の中にありました。ペテロとパウロという二つの柱をローマ皇帝迫害の中で失い(60年代)、エルサレム教会の指導者ヤコブも殉教し(62年ごろ)、教会自身もユダヤ戦争(66-70年)の嵐の中でエルサレムを追われて放浪生活をしています。まさに彼らは、「逆風の中で漕ぎ悩み、教会という舟は沈もうとして」いました。教会の人々は「主は自分たちを見捨てられたのではないか」と疑い始めていました。ペテロが疑って水に沈んだ時のように、です(14:31「信仰の薄い者よ」というイエスの言葉がそれを示唆する)。その教会にマタイは、「漕ぎ悩む弟子たちを助けるためにイエスが来られたように、主は私たちの苦難を知っていてくださる。そして真夜中であっても、私たちを救うために来てくださる」と語ったのです。ですから物語の最後で彼らはイエスを、「本当にあなたは神の子です」といって礼拝します(14:32)。この嵐に悩む小舟は「イエスを主と告白する」教会の物語なのです。
・私たちもまた人生の嵐の中でどうしてよいかわからない時があります。その時、イエスの声が聞こえてきます。それを讃美歌にしたのが、ポール・サイモン作詞の「明日に架ける橋」です。「明日に架ける橋」、原語では「Bridge over troubled water」、「荒海に架ける橋」です。こういう歌詞です「生きることに疲れ果て、みじめな気持ちで涙ぐんでしまう時、その涙を僕が乾かしてあげよう。僕は君の味方だよ、どんなに辛い時でも、頼る友が見つからない時でも。荒れた海に架ける橋のように、僕はこの身を横たえよう」。キリストが私たちの贖いとして自分の身を投げて下さった、神の側から私たちの方に橋を架けて下さった。だから私たちもこの荒海に、人生の嵐が荒れ狂う海に、橋を架けよう、そういう歌です。この「明日に架ける橋」は、ベトナム戦争と公民権運動による混迷の70年代にアメリカで生まれ、人種隔離政策が続いていた80年代の南アフリカで歌われ、最近では2001.9.11テロの犠牲者を追悼する集会の中で歌われてきました。この歌はまさに讃美歌なのです。
3.私たちのところに来られる方
・今日の招詞に詩篇107:25-29を選びました。次のような言葉です「主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされたので、彼らは天に上り、深淵に下り、苦難に魂は溶け、酔った人のようによろめき、揺らぎ、どのような知恵も呑み込まれてしまった。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった」。嵐が起きると、舟に乗っている人は、「上に、下に」大きく揺さぶられ、勇気はくじけ、酔った人のようによろめきます。ある人は、嵐は自然現象だから、起きたら、通り過ぎるまでやり過ごすしかないと考えます。別の人はそうなるように定められているのだから、仕方がないとあきらめます。自分は罪を犯したから、罰として嵐が与えられたのだと思う人もいるでしょう。
・しかし、聖書は、嵐は「主が起こされる」と言います。「主は仰せによって嵐を起こし、波を高くされた」(107:25)。主によって起こされるとしたら、主に訴えれば、嵐は取り去られます。ですから、詩篇の作者は訴えます「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された」。人は海を怖れます。海は底なしのもの、恐ろしいものの象徴です。そして、人生は海を航海するのに似ています。平穏な時には、私たちは自分の能力、可能性、築き上げた生活の基盤を信じて生きていくことが出来ます。しかし、嵐になると、私たちはあわて惑います。ある人には、事業の失敗や、家族の死や病気、あるいは離婚等の激しい嵐が来るでしょうし、別の人には、家族内の不和、友人の裏切り、仕事や学業の挫折等の静かな嵐として襲って来ます。その時、これまで磐石だと思っていたものが何の役にも立たない事を知ります。全てが虚しくなり、生きていてもしようがないと思い、苦しみ、もだえます。そのもだえを通して、私たちはより大きな存在に生かされている事に気づき、叫びます「主よ、助けてください」。
・主から期待される助け以外に何ものも所有していないことに気づくことが信仰です。嵐の中を一人で歩くことは恐怖です。しかし、二人であれば、それほど怖くありません。しかも、同伴される方が、この嵐を取り去る力をお持ちであれば、何も怖くない。キリストを心に受入れた人にも危険は迫ります。不安になり、動揺し、おじまどいます。現在、そのような苦しみの中にある方もいるかもしれません。しかし、私たちは「主よ、助けてください」と叫ぶことが出来、その声に応えて、助け主は来て下さる。私たちは一人ではない。イエスが共に歩いて下さる。この信仰が与えられていれば、他に何も要らないではないかと思います。