2017年2月19日説教(マタイ福音書13:36-50、天の国のたとえ)
1.毒麦のたとえ
・聖書教育に従ってマタイ福音書を読んでいます。今日の聖書個所はマタイ13章で、13章36節から読んでいきます。そこには「毒麦のたとえ」の解説が記してあります。たとえそのものは24節から始まっています。このようなたとえです。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」(13:24-26)。「神の造られた世界になぜ悪(毒麦)があるのか」をイエスが群衆に語られた箇所です。人々がイエスに質問します「『だんな様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った」(13:27-28a)。敵とはサタンを指します。神の造られた創造世界の中に悪がある。それはサタンが入り込んで悪が生まれたと主人は語ります。人々はイエスに言います「では、行って、(毒麦を)抜き集めておきましょうか」。それに対して主人は言います。『いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう』」(13:27-30)。
・不思議なたとえです。聞いていた弟子たちもたとえの意味が分からず、イエスに質問します。それが36節以下です。「それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、『畑の毒麦のたとえを説明してください』と言った」(13:36)。それに対してイエスは答えられます。「良い種をまく者は、人の子である。畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである」(13:36-39)。イエスが語られた毒麦のたとえ(この世界になぜ悪があるのか)を、初代教会が自分たちの経験において解釈したのがこの解説部分です。イエスが福音の種を播かれて教会が生まれたのに、現実の教会に中には良い麦と共に毒麦が混ざっている。「教会の中に悪(毒麦)が存在する、その悪を抜こう」という声が教会中で挙がった。異端者や背教者が続出した初代教会の現実を踏まえての解釈でしょう。
・しかし主人(復活のイエス)は「そうするな」と語られます。それが40節以下の言葉です「だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。その時、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい」(13:40-43)。現実の教会の中に悪い麦としか思えない人々がいる。「しかし、誰が良し悪しを判断するのか、判断する人は果たして良い麦なのか」。「もし人が悪い麦を抜こうとする時、その人はファリサイ人のように他者を裁く者となるのではないか。毒麦を抜くのは神に委ねよう、教会はどのような人をも受入れて一緒に礼拝を行う場所だ。他者を裁かない、その時、教会は天の国に近づいて行く」と初代教会は、イエスのたとえを解釈したのです。
2.網の中にいろいろな魚がいるたとえ
・次の段落の「天の国の網のたとえ」も、毒麦のたとえの続きを為します。これも初代教会の現実に対する解釈だと思われます「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める」(13:47)。網を打って魚を取ったら、中に悪い魚も良い魚も、大きいのも小さいのもかかります。同じように、多くの人が教会に招かれますが、その中に、良い魚も悪い魚もいます。しかし、「選別するは終わりの時である」と語られます「網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる」(13:48-49a)。終末の時が来れば、「天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(13:49b-50)。
・人は共同体の中で意見の異なる人を異端者として排除しようとします。これまでも「悪を断ち切る」として多くの革命が為されましたが、世の中は少しも良くなりませんでした。人が裁き主になった時、良い結果は生まれない。教会はイエスの言葉をそのように聞いたのです。選別されるのは神であり、人が自分で選別を始めた時、「私たちはサタンの業に加担するようになる」と理解したのです。教会の中に何故悪があるのか、私たちには分かりません。しかしあるのは事実です。また何を持って悪と言いのかも難しい問題です。イエスは12人の弟子を招かれましたが、その中にはイスカリオテのユダもいたし、ペテロもいました。ユダはイエスを裏切ったから毒麦だったのか。しかし、彼はイエスならば世を救う力をお持ちだとの希望を持って弟子団に入り、他の弟子たちがイエスを見捨てた後も信従して来ました。彼は良い麦として招かれたのに、何時の間にか毒麦に変ってしまった。ペテロは十二使徒の筆頭として殉教していますが、イエス逮捕時に三度イエスを否認したと福音書は明記します。ペテロはイエスを裏切った、その時の彼は毒麦であったのか。ペテロの行為とユダの行為は本質的に同じです。言い換えれば、ユダは良い麦であったのに毒麦に変えられ、ペテロはイエスを裏切った時は毒麦であったが、やがて良い麦に変えられた。同じ人が良い麦にも毒麦にもなりうるのです。12弟子の中にも良い魚と悪い魚がいた。良い麦も悪い麦も、あるいは良い魚も悪い魚も、それぞれの役割を担って、共に初代教会を形成したのです。
3.裁きは主に委ねよ
・教会の中に何故悪があるのかを追求した人がアウグスティヌスです。彼は言います「誰が毒麦で誰が良い麦であるかは私たちにはわからない。全ての信徒が毒麦にも良い麦にもなりうる。ある意味では、私たち各自のうちに毒麦と良い麦が共存している。だから、他人が毒麦であるか否かを裁くよりも、むしろ自分が毒麦にならないように、自分の中にある良い麦を育て、毒麦を殺していくように」と彼は勧めます。つまり、教会の中にある毒麦的なものはただ否定されるべきものではなく、むしろ、その責任を私たち教会の仲間が共に引き受けていくのが、教会に生きる私たちの課題であると説きます。だから最後の裁きは神に委ねる。「例え教会の中に弱い信徒があってもそれを助け、それに耐えて、それによって自分たちの信仰をいっそう清め、強めていく。そのためにあるものとして教会の中にある悪を理解しよう」(山田昌「アウグティヌス講話」p130-131)とアウグスティヌスは語るのです。
・遠藤周作は小説「沈黙」の中で、踏み絵を踏んでは後悔する「キチジロウ」を描きました。この世的には背教者(毒麦)です。しかしイエスは彼をお見捨てにはならなかったと遠藤は書きます。遠藤が問題にする沈黙は「神の沈黙」(信徒が殺されても何もしない神)ですが、同時に、殉教者を賛美するあまり背教者を歴史の彼方に抹殺する「人間の沈黙」を彼は問題にしています。「キチジロウ」を排除しては天の国は成り立たないと彼は語るのです。「良い麦と毒麦」を教会を越えて考えた時、そこに神の国と地の国という思想が生じてきます。アウグスティヌスは語ります「神を愛して自己愛を殺すに至るような愛が神の国を造り、自分を愛して神に対する愛を殺すに至るような愛が地の国を造る」。「現実の私たちは神中心の愛と自己中心の愛の双方を持つ弱い人間であるから、ありのままを神に告白し、その助力を乞い、そういう仕方で絶えず神の国に加えられていく、生かされていくことが神の国に生きる」ことだと彼は語ります。最期に彼は言います「神は悪をも善用されるほどに全能であり、善なる方である。裁きはこの神に任せよ」と。
・自分の手で裁きを行った時、何が生じるのか。私たちは9.11以降の世界史の中にその姿を見ることが出来ます。2001年9月11日、テロ攻撃を受けた米国のブッシュ大統領は、報復を求めて、アフガニスタンやイラクを攻撃しました。それから10年以上が経過し、イラク・アフガン戦争の米軍死者は6,742人となり、報道機関推計による一般市民犠牲者17万人を加えれば、アメリカ軍の行動により計18万人が死んだことになります。同時多発テロの犠牲者は2,973人でした。報復により、9.11の犠牲者の60倍近い人が亡くなったのです。一時はブッシュを支持したアメリカ国民も、今ではブッシュの政策は間違っていたと認めます。「自分の手で裁く」ことの恐ろしさを私たちは知りました。「神は悪をも善用されるほどに全能であり、善なる方である。裁きはこの神に任せる」。それしかないのです。
・今日の招詞にマタイ10:16を選びました。次のような言葉です「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。毒麦のたとえは私たちに何を教えるのでしょうか。麦と毒麦は地上では見分けることができますが、地下では根が複雑に絡み合い、毒麦を抜こうとするとまだ生育途中の良い麦まで抜いてしまいます。両方が収穫の時まで育てば、両方を抜いて、毒麦だけを除くことは可能です。だから「収穫まで、終末まで待ちなさい」と言われています。私たちの暮らす社会は自己愛が中心の地の国です。イエスが言われたように、私たちは「蛇のように賢く、鳩のように素直になる」ことが必要です。神の国に本籍を持つ者として「鳩のように素直」に生きますが、地の国に暮らす者として「蛇のように賢く」生きることが必要です。理想主義だけでは挫折しますし、現実主義だけでは神なき世界となります。私たちは理想と現実の双方の知恵が必要なのです。ラインホルド・ニーバーが語ったように、です「神よ、変えることの出来るものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることの出来ないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることの出来るものと、変えることの出来ないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。