2017年2月12日説教(マタイ12:22-32、神の国は来ている)
1.悪霊につかれた人のいやし
・マタイ福音書を読み続けています。イエスはガリラヤ中を回って、病気の人々をいやされました。ある時、悪霊につかれて目が見えず、口の利けない人がイエスのもとに連れられて来られます。イエスはその人を見て憐れみ、悪霊を追い出されました。口の利けない人が話し始めた、人々は驚いて「この人はダビデの子ではないだろうか」と言い始めます。それを聞いたファリサイ人たちは「この人は救い主などではない。魔術を用いて悪霊を追い出しているだけだ」とイエスを非難した。こうして、イエスとファリサイ人との間に、いやしを巡っての論争が為された。その箇所が、今日の聖書テキストです。
・イエスのもとへ連れて来られた人は「見えない、聞こえない、話せない」という三重の障害を持った人でした。当時、そのような障害は悪霊=サタンの業と考えられていました。病気や障害が治らないのは、神に呪われているためであり、人々は病人や障害者を汚れた者、罪人として社会から排斥しました。イエスはその人を憐れみ、いやされました(12:22)。口の利けない人が話し始めた、人々はその奇跡を見て素朴に驚き、イエスの業の中に神の力を見ました。だから言います「この人はダビデの子、神から遣わされた救い主かもしれない」(12:23)。病気をいやすとは悪霊を追い出すことであり、それは神にしか出来ない業だと人々は思ったからです。
・しかし、ファリサイ人はイエスの中に民衆を惑わす危険性を見ました。ですから彼らはイエスを非難し始めます「イエスの力は悪霊の頭ベルゼブルから来るのだ。迷わされてはいけない」(12:24)。それに対してイエスは反論されます「あなたたちは、私のいやしの力がサタンから来ると言う。しかし、サタンがサタンを追い出せば、内輪もめだ。どんな国も内輪で争えば荒れ果ててしまう。サタンはそんなに愚かではない。私は神の力でサタンを追い出している。もし、神の力がサタンを追い出しているのであれば、神の国は既にあなたたちのところに来ているのだ」(12:25-28)。神の国は死んでから行く天国のようなものではない、今ここで始まっているのだとイエスは言われるのです。病気や障害の人がいやされる、そのいやしを通じて、人々が神の呪いの下にあるのではなく、神の祝福の下にあることが明らかにされる。「その神の業を何故素直に喜べないのか」とイエスは反論されたのです。
・そして言われます「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(12:31-32)。「あなたたちが私を受入れず、私の悪口を言うのはかまわない。しかし、神が為されている救いの業を否定することは許されない。神は『人が人として生きる』ことが出来るように、今サタンと戦っておられる。あなたたちは神の救いを否定しているのだ」とイエスは言われたのです。
2.弱い者を守る社会こそ神の国
・人は原因のわからない病気や治らない病を悪霊のせいにします。今日でも人間の力ではどうしようもない病、特に精神の病は悪霊に結び付けられ、「気味の悪い」病気として、社会から隔離されています。日本では30万人の人が精神の病で入院されており、二人に一人は5年以上入院されています。症状が落ち着いても退院できない、帰り先がない、いわゆる社会的入院が多いのです。イエスは私たちに問いかけられます「そのような人たちもあなたの隣人か。あなたはそのような人たちを“悪霊に取り付かれている”として、排除していないだろうか」。
・生命科学者の柳澤桂子氏は新聞のコラムに次のように書きました「遺伝子に突然異変はつきものである。一見正常な私たちも十個前後の重い病気の遺伝子を持っている。それがたまたま正常な遺伝子にマスクされているので、発現しないだけである。私たちは、ヒトの染色体の大きな集団から、46本の染色体をあたえられて生まれてくる。けれども、人類という集団のなかには、かならずある頻度で、障害や病気を持った子供が生まれてくる。ヒトの遺伝子集団のなかに入っている病気の遺伝子を誰が受け取るかわからない。それを受け取ったのがたまたま自分でなかったことに感謝し、病気の遺伝子を受け取った人にはできるだけのことをするのが、健常者の義務であろう。そして、どのような病気の子供も安心して産める社会をつくらなければならない。」(2005年2月8日朝日新聞コラムから)。柳澤桂子氏は原因不明の病のため、30年間も寝たきりの闘病生活を送り、自身が差別に苦しんだ人です。だからこのように言えるのです。
・彼女の言葉は、マタイ12章を考える上で重要です。「生まれても苦しむだけの重い病気を背負う子供は生まれない方が幸せだ」とする現代人の考え方は、「障害や病気を持った人は、神に呪われた罪人だ」と弾劾するファリサイ人と同じです。ファリサイ人、あるいは世の人々は、目の前に、病気や障害を持って苦しんでいる人がいても気にかけないし、病気や障害がいやされても喜ばない。イエスが怒られたのは、このような人々が自分たちこそ神に仕えていると思っていたことです。イエスはいやしの業を通して言われます「神は苦しむ人に無関心ではない。神は、病気や障害を持つ人を見て『はらわたがねじれる』怒りを覚え、これを憐れまれる方だ。だから神は私に病をいやす力を与えられた」と。
3.傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない
・今日の招詞にマタイ12:19-20を選びました。次のような言葉です「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」。イザヤ42章「主の僕の歌」からの引用です。イザヤ42章は国を滅ぼされて遠いバビロンに捕囚となり、絶望に瀕していた民のために働く無名の預言者(便宜上第二イザヤと呼ばれている)の記事です。彼は公衆の面前にて大声で叫ぶのではなく、隠れた所において、傷つき、倒れようとする人々に手を差し伸べました。マタイはイエスこそ「主の僕」の働きをされた方だとここで述べています。人々が求めていたメシアは、「剣を持ち、悪を懲らし、罪なき人を解放する」、政治的・軍事的指導者でした。ユダヤをローマ支配から解放し、ダビデ・ソロモン時代の栄華を回復するメシアを人々は望んでいました。
・しかし、マタイは、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことの無い」方こそメシア、救い主だと証言します。当時の人々は、重い病気や障害は神の呪いから来ると考えていましたから、病人や障害者は罪人として、社会から排除されていました。人々は病気や障害に苦しむだけでなく、社会からの疎外に苦しんでいたのです。「何故、私たちは社会から排斥されねばならないのか。何故、神はこのような冷たい仕打ちを許されるのか、神はおられるのか」。彼らは神の愛を疑い始め、信仰の火は消えようとし、生きる意欲も折れようとしていた。彼らこそまさに、「傷ついた葦であり、くすぶる灯心」でした。その彼らの病をいやし、障害を取り去ることこそが、まさに彼らを救う神の憐れみでした。マタイは「イエスの働きの中にこそ、神の救済の業が示されている。その業を妨害する者は「“聖霊を冒涜し、聖霊に言い逆らう”」(12:31-32)ことなのだと証言しているのです。イエスとファリサイ人を分けるものは、相手の苦しみに対する痛みです。イエスは悪霊追放を「争い」と言われました。いやしは戦いであり、いやす人は自分の身を削っていやす。イエスは、「彼は悪霊に取り付かれている」として排除されている人がいるからこそ、憐れまれた。障害があることはつらいことですが、それ以上に、障害ゆえに差別され、排除されることが問題なのです。
・カトリック司祭の本田哲郎氏は自分でギリシャ語原典から聖書本文を訳し直し、福音書に繰り返し出てくる「癒しの意味」が変わってきたと語ります。「文字通り“癒す”という言葉“イオーマイ” が出るのは、マタイとマルコ両福音書について言えば、合わせて五回しかない・・・あとはすべて“奉仕する”という意味の、“セラペオー”が用いられる。マタイとマルコ合わせて二十一回も出てくる。英語 Therapy の語源となった言葉だが、これを病人に当てはめると、“看病する”、“手当てする”となる・・・イエスにとって、神の国を実現するために本当に大事なことは、“癒し”を行うことではなく、“手当て”に献身すること、しんどい思いをしている仲間のしんどさを共有する関わりであった」(本田哲郎「小さくされた人々のための福音」)。イエスがなされたのは病の治癒ではなく、「病人の苦しみに共感し、手を置かれる行為だった、その結果病が癒されていったのだ」と本田氏は語ります。
・マザー・テレサが行ったことも病気の治癒ではありません。彼女は路傍で死ぬ人々を「死を待つ人の家」に運び込みこみ、最後の看取りをしました。彼女は語ります「私は彼女の病気を救いたいのではありません。彼女が最後を迎える時に“自分は愛された。大切にされた”という思いで天国に帰ってもらいたいのです」(五十嵐薫「マザー・テレサ、愛の贈り物」)。私たちにはイエスのような病のいやしは出来ませんが、差別され、排除された人を、隣人として迎えることは出来ます。そのことが「束縛からの解放」をもたらす。教会の外では「権力を持った人々が支配し、命令する」かもしれないが、教会の中では「仕えることに喜びを見出す」人々がいる。教会の外では「金の切れ目は縁の切れ目」かもしれないが、教会の中では「困っている人たちのためになすべきことをする」人々がいる。それが神の国です。神の国が既にここに来ている、それを証しするのが、私たちの伝道です。