2017年10月15日説教(ヨブ記34:5-15、36:15-16、苦難に意味があることを見出した時)
1.エリフの登場
・ヨブ記を読んでいます。ヨブは家族と財産に恵まれ、周りの人からも尊敬されていました。しかし、そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられ、子どもたちが次々に取り去られ、何千頭もの家畜が強盗に奪われるという出来事が起こり、更に彼自身に忌まわしい病気(らい病)が与えられます。周りの人々は相次ぐ災いを見て、「この人は神に呪われている」と考え、近づかなくなりました。そのヨブを見舞うために、三人の友人が見舞いに来ます。ヨブは自分の苦しみを友人に訴えました。しかし、返ってきた答えは「あなたが罪を犯したから災いを招いたのだ。悔い改めて、神に許しを請いなさい」という冷たいものでした。
・ヨブはこれほどの罰を受けるほどの罪を犯したとは思えず、神に対して異議申し立てを始めます。「私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手に委ねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。違うというなら、誰がそうしたのか」(9:22-24)。人は苦難に意味を認める限りはその苦難を耐えていけますが、苦難の意味がわからなくなった時、苦難は人を圧倒します。ヨブと三人の友人たちの議論が31章まで続きますが、ヨブは友人たちの説得に納得できず、叫びます「どうか黙ってくれ・・・私の議論を聞き、この唇の訴えに耳を傾けてくれ」(13:5-6)。ヨブはそれ以上、友人たちと議論をしてもしょうがないと思い、直接神に訴えます。「どうか、私の言うことを聞いてください。見よ、私はここに署名する。全能者よ、答えてください。私と争う者が書いた告訴状を、私はしかと肩に担い・・・頭に結び付けよう。私の歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう」(31:35-37)。ヨブは神を被告席に立たせ、三人の友人たちはもはや語る言葉を持たず、沈黙します。
・この後、32章からエリフという新しい登場人物の弁論が挿入されます。エリフは神を被告席に立たせて、自分の正しさを主張するヨブに我慢がなりません。「エリフは怒った。この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。また、ヨブの三人の友人が、ヨブに罪のあることを示す適切な反論を見いだせなかったので、彼らに対しても怒った。彼らが皆、年長だったので、エリフはヨブに話しかけるのを控えていたが、この三人の口から何の反論も出ないのを見たので怒ったのである」(32:2-5)。エリフはヨブを追求します「ヨブはこう言っている。『私は正しい。だが神は、この主張を退けられる。私は正しいのに、うそつきとされ、罪もないのに、矢を射かけられて傷ついた。』ヨブのような男がいるだろうか。水に代えて嘲りで喉をうるおし、悪を行う者にくみし、神に逆らう者と共に歩む」(34:5-8)。「神は人よりも大なる方であり、被造物であるあなたが何故創造主である神と争うのか。そこにあなたの根本的な間違いがある」とエリフは主張します。「神には過ちなど、決してない。全能者には不正など、決してない。神は人間の行いに従って報い、おのおのの歩みに従って与えられるのだ。神が罪を犯すことは決してない。全能者は正義を曲げられない」(34:10-12)。
2.苦難を神の教育とみるエリフの議論
・エリフの主張は明解です。「神が罪を犯すことは決してない。全能者は正義を曲げられない」(34:12)。確かに被造物である私たちが、創造主である神と争うことはできない。それでも神に異議申し立てをせざるを得ない現実があります。イギリスのあるラジオ番組で流された実話があります。「一人の父親が癌に冒された娘を見舞うために、病院に向かっていた。父親はケーキの箱を抱えていた。途中に教会があり、彼は中に入って娘の癒しを祈った。やがて病院に着くと、彼は娘が死んだことを告げられた。彼は直ちに教会に戻り、祭壇の後ろの十字架像にケーキを投げつけた。それは命中して、ねばねばしたクリームがキリスト像の顔から肩にかけて、ゆっくりとしたたり落ちた」。ケーキを投げつけても娘は生き返りません。ヨブがいくら神を罵っても死んだ子供たちは生き返りません。しかし、悲しみを癒すためには、それは必要な「喪の作業」です。そのような異議申し立てを通して私たちは神と出会うのです。
・それは苦しい道のりです。でもその苦しみを通じて何かがなされる。弁護士の岡村勲氏は山一證券の顧問弁護士でしたが、山一破綻で損をした投資家の逆恨みで妻を殺され、犯罪被害者になって初めて、自分の目が開けたと語ります。「1997年、仕事の上で私を逆恨みした男によって妻が殺害されました。弁護士生活38年目にして犯罪被害者の遺族となって、被害者や家族がどんなに悲惨で、不公正な取り扱いを受けているかということを、初めて知りました。加害者の人権を守る法律は詳細に整備されているのに、被害者の権利を守る法律はどこにもありません・・・経済面では加害者は一切国の費用で賄い、弁護士も国の費用で依頼できますが、被害者は、被った傷害の医療、介護費、生活費はすべて自己負担なのです・・・私たちは、『犯罪は社会から生まれ、誰もが被害者になる可能性がある以上、犯罪被害者に権利を認め、医療・生活保障・精神的支援など被害回復のための制度を創設することは、国や社会の義務である』と考えます」。岡村氏の働き等により、犯罪被害者基本法(2004年)、刑事訴訟法が改正され(2007年)、事態は改善しました。苦難には自分が直面してこそ初めて知る真理が含まれています。ある信仰者は歌いました「病まなければ、ささげ得ない祈りがある。病まなければ、信じ得ない奇跡がある。病まなければ、聞き得ない御言葉がある。病まなければ、近づき得ない聖所がある。病まなければ、仰ぎ得ない御顔がある。おお、病まなければ、私は人間でさえもあり得ない」(河野進・病まなければ)。不条理を受け入れた時、見えてくる真実があるのです。
3.人は理論では救われない
・今日の招詞にヨブ記38:1-4を選びました。次のような言葉です。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」。ヨブは神に「私が何をしたので、あなたはこのような苦難をお与えになるのか」を問い続けてきました。しかし神は、「何故私に苦しみが与えられるのか」というヨブの問いに、何も答えられず、ただ言われます「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」。神が天地を創造された時、ヨブはどこにもいません。まだ生まれていなかったからです。神は問い続けられます「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」(38:12)。誰が夜を終わらせて朝をもたらすのか、お前なのかと神は問われます。ヨブは答えられません。天体を支配しているのはヨブではないからです。神は更に問われます「お前は海の湧き出る所まで行き着き、深淵の底を行き巡ったことがあるか」(38:16)。ヨブは答えられません。ヨブの知っている世界はパレスチナだけだからです。
・ヨブの苦難は、自分を中心にした時には大問題になります。しかし、神は言われます「神を中心にして世界を考えてみなさい。一体お前はどれだけのことを知り、どれだけのものについて責任が取れるというのか。何一つお前は知らず、何一つ責任を取ることができないではないか」。このような問いかけが38章から41章まで続きます。神が語られたことは、前にエリフが語ったこととほぼ同じです。しかしエリフの語りはヨブに何の悔い改めも生じさせず、神の語りはヨブを変えました。エリフは正しいことを言いましたが、言葉は正しいから伝わるのではありません。人が自分の体験したこと、直面したことを語る時にはその言葉は伝わりますが、知らないことを知っているように語ってもその言葉は伝わりません。苦難を体験した者でなければ、苦しむ人を慰めることはできないのです。
・40章12-14節で神はこのように問われます「すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き、神に逆らう者を打ち倒し、ひとり残らず塵に葬り去り、顔を包んで墓穴に置くがよい。そのとき初めて、私はお前をたたえよう。お前が自分の右の手で、勝利を得たことになるのだから」。神は語られます「お前が地上の悪人どもを滅ぼし尽くし、この地上に完全な正義を実現することが出来るなら、私はお前をほめよう。しかし、何故私が悪人どもを滅ぼし尽くさないのか、お前は知っているか。私は悪人さえ滅ぶのを喜ばず、彼らが悔改めて命に入る日が来ることを望んでいる。だから彼らを滅ぼし尽くさないのだ。そのことをお前は知っているのか」。ここでヨブは知らされます。創造世界の中心にいるのはヨブではなく、神であり、神の働きについて何も知らないのに、自分に起こった理不尽な苦しみだけを見て、神を問い詰め、神を告発していたのです。神との対話を通じて、ヨブは自分の罪を悔い改めます。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔改めます」(42:5-6)。
・私たちが苦難にあった時、「何故」と聞くのを止めて、「何処へ」と聞き始めた時、苦しみは恵みになります。「この苦難を通してあなたは私をどこに導かれるのか」と問い始めた時、苦難の意味が変わってきます。ヨブは、苦しみを通して、「自分が生きているのではなく、生かされている」ことを知り、状況は何も変わらないのに、苦しみが苦しみでなくなりました。人は苦しみや悲しみを通じて、神に出会い、その出会いを通じて新しい世界が与えられます。パウロは語ります「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(第二コリント7:10)。苦難の中で、私たちは神と出会い、苦難の中に意味を見出した時、新しく生きることが出来ます。そのことについてエリフは正しいことを語っています「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。神はあなたにも、苦難の中から出ようとする気持を与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を備えて下さる」(36:15-16)。この苦しみを経験しないと本当の喜びはないのではないか。病気のために生涯寝たきりの人生を送った、水野源三さんは歌いました「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛は現われなかった」。