2016年9月25日説教(フィレモンへの手紙1:1-21、赦しのもたらす奇跡)
1.フィレモンへの手紙
・今日私たちは、「フィレモンへの手紙」を読みます。フィレモン書は非常に短く、教会に宛てた公の手紙と言うよりも、パウロの私信に近いものです。このような個人的な手紙が新約正典の中に組み入れられるのは、異例なことです。今日はフィレモン書を通して何が見えるのかを考えていきたいと思います。フィレモン書の冒頭で、パウロは書きます「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、私たちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」(1:1-2)。パウロは自分自身を「キリスト・イエスの囚人」と呼びます。それはパウロが実際にエフェソの獄中に、キリスト・イエスの故に捕らえられているからです。書かれた時期は50年代後半と見られています。
・宛先はコロサイ教会の代表者フィレモンです。姉妹アフィアはフィレモンの妻、戦友アルキポは夫妻の子供であろうと推測されています。コロサイはエフェソ東部にあり、パウロの弟子エパフラスの宣教により教会が立てられました(コロサイ1:7)。パウロはフィレモンとは面識がなかったようです。おそらく、フィレモンと家族はエパフラスのコロサイ伝道を通して福音を受け入れ、洗礼を受けたのでしょう。そのエパフラスは今パウロと共に獄中にあります(1:23)。フィレモンは裕福な人で、自宅を開放して集会を執り行っていたようです(家の教会)。フィレモンの働きについてパウロは同労者エパフラスからいろいろ聞いており、教会における彼の働きに感謝の言葉を書きます「私は、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつも私の神に感謝しています。主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです・・・兄弟よ、私はあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです」(1:4-7)。
・8節からパウロは本題に入ります「それで、私は、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが、監禁中に設けた私の子オネシモのことで、頼みがあるのです」(1:8-10)。パウロは当時、アジア州の諸教会を監督する立場にありました。そのパウロがフィレモン家の奴隷オネシモの件で手紙を書いています。パウロはオネシモを「監禁中に設けた私の子」と呼びます。オネシモはフィレモン家の奴隷でしたが、おそらく自由を求めて逃亡し、その旅費に充てるために、フィレモンの家からお金をくすねたようです。そして彼はアジア州の州都であるエフェソに逃げて来ました。そのエフェソでお金を使い果たし、身を寄せる場所もなく、主人が尊敬している使徒パウロがエフェソの牢獄に監禁されていることを聞き、パウロの許に今後の身の振り方について相談に訪れたようです。エフェソの牢獄では、囚人の面会や手紙は許されており、オネシモは何度もパウロに会い、その話を聞くうちに、パウロの内に働く神の恵みを知り、洗礼を受け、今は獄舎にいるパウロの世話係として仕えるようになりました。
・パウロは若いオネシモをかわいがったようです。パウロはエパフラスを通してコロサイ教会を設立し、その後も教会と関わって来ました。フィレモンもパウロを使徒として尊敬していたと思われます。そのパウロが頭を下げて、オネシモのことをフィレモンに執り成しています。「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにも私にも役立つ者となっています。私の心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、私の元に引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません」(1:11-14)。オネシモはフィレモンの許から逃亡した奴隷であり、フィレモンから見れば彼を裏切った人間です。そのオネシモを受け入れてほしいと使徒が頭を下げています。パウロはオネシモを「私の心」と呼びます。「今のオネシモは昔とは違う、今はあなたに代わって私に仕えてくれる大事な人になっており、出来れば今後も私の仕事を手伝ってほしい」とパウロは願っています。しかし、「逃亡奴隷は持ち主のもとに返さねばならないため、今オネシモをあなたの所に送る」とパウロは書いています。
2.他者の負債を引き受ける愛
・パウロはフィレモンに語ります「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として、です。オネシモは特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」(1:15-16)。オネシモはフィレモンの所から逃げ出しましたが、それは「あなたの代わりに私に仕えるために、神がオネシモをそのように用いて下さったのだと思う。だから今はオネシモを奴隷以上のものとして、信仰の兄弟として、受け入れて欲しい」とパウロは書きます。オネシモはフィレモンの奴隷だった。しかしキリストの洗礼を受けた以上、彼は「奴隷以上の者、あなたの兄弟になった」とパウロは語ります。何故ならば、「キリストにあっては奴隷も自由な身分の者もなく、人は皆、キリスト・イエスにおいて一つ」だからです(ガラテヤ3:28)。
・オネシモは逃亡する時に、主人のお金を持ち出していたため、彼は赦されるためには賠償金を払う必要がありました。そのお金は「自分が代わって支払おう」とパウロは語ります。「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それは私の借りにしておいてください。私パウロが自筆で書いています。私が自分で支払いましょう」(1:18-19)。「自筆で書く」、この手紙が連帯保証書となり、パウロはオネシモの負債を公式に肩代わりします。そしてパウロは手紙を締め括ります「兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、私の心を元気づけてください。あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。私が言う以上のことさえもしてくれるでしょう」(1:20-21)。パウロはオネシモに一通の書簡を持たせて、主人フィレモンの許に送り返そうとしています。これは大いなる冒険でした。フィレモンがオネシモを赦して迎え入れてくれるかどうか、わからなかったからです。フィレモンはこの世的にはオネシモを受け入れる義務はなかった。しかしパウロはフィレモンの信仰にかけます。「あなたが聞き入れてくれると信じています」と語ります。
3.赦しがもたらした奇跡
・今日の招詞に第一コリント7:21を選びました。次のような言葉です「おのおの召された時の身分にとどまっていなさい。召された時に奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」。パウロは奴隷制を攻撃もしなければ弁護もしません。当時の社会は奴隷制を前提にしており、奴隷が自由になろうとすれば逃亡奴隷になるしかなく、逃亡奴隷は捕まれば処罰され、処刑されることもありました。仮に捕まらなくとも、地下生活者になるしか道がなかった。パウロはその現実を踏まえ、「奴隷であることを不当として主人の下から逃走し、一生を逃げ隠れしてその生涯を送ることが神の御心ではない」と語るのです。彼は続けます「主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」(7:22)。ある聖書学者は語ります「アリストテレスやプラトンのように優れた思想家であっても、奴隷は本質的に普通の人より劣っていると論じた時代にあって、パウロは雇い主と奴隷の間の売買契約が十字架によって取り壊されたと語る。これがパウロの採った奴隷解放の方法であった」(松本貞夫「ピレモン書注解」)。
・フィレモンがオネシモを赦して受け入れたかどうかは不明です。ただその後に書かれたコロサイ人への手紙には、オネシモがパウロの使者としてコロサイに行くということが書かれており(コロサイ4:9)、おそらくオネシモはフィレモンにより奴隷から解放され、その後、エフェソのパウロの下で働いていたと思われます。紀元110年頃に書かれたイグナティウスの「エフェソ教会への手紙」の中で、「エフェソの監督オネシモ」という名前が登場します。聖書学者はこの間の事情を次のように推測します「パウロの死後、その活動拠点であったエフェソ教会を中心にパウロ書簡の収集がなされ、その中心になったのが、エフェソの監督オネシモであったと思われる」と。
・オネシモは主人の許を逃げ出した逃亡奴隷です。しかし彼はパウロに出会って変えられ、パウロの執り成しで元の主人フィレモンと和解し、その後、パウロに仕える者になった。パウロの死後はエフェソ教会の監督になり、パウロ書簡の収集活動を行い、彼の尽力でパウロの多くの手紙が聖書正典として残された。そして彼は、「自分がどのように赦されて福音に生きる者になったのか」を証しする手紙を、パウロ書簡に編入した。その手紙は、今はエフェソの監督として尊敬される身になったオネシモが、かつてはどのような罪人であったかを明らかにするもので、人間的に見れば公表したくないものです。しかしオネシモは書簡を公表し、神が一人の奴隷にどのように大きな恵みを与えて下さったかを証ししました。ここに福音の奇跡があります。
・小アジア地方の教会指導者であったパウロが一人の奴隷のためにコロサイ教会の管理人フィレモンに頭を下げて懇願し、フィレモンはそのパウロの姿勢に感動して、一人の奴隷を自由にした。そのことによって、「フィレモンへの手紙」やパウロ書簡が後世の人々に残された。「神の赦しは人を動かし、動かされた人は証しの生涯を送る」、そのドラマがこの短い手紙の中に隠されているのです。イエスは語られました「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6:36)。もし私たちが「他者を無条件で赦し、迎え入れる時、そこには必ず奇跡(人格の生まれ変わり)が起こる。だから『あなたもそうしなさい』」と。
・ルターは言いました「私たちはみな神のオネシモである」。私たちの負うべき負債をイエスが代わりに負って死んで下さった、このことを知る時、私たちも他者の負債を担って生きる者になりたいと願います。学者の中にはエフェソ書もオネシモが恩師パウロに代わって書いたのではないかと推測する人がいます。そう考えた時、エフェソ書の次の言葉が私たちに迫ってきます「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2:14-16)。