2016年8月21日説教(第一ペテロ4:7-14、終末の希望の中で生きる)
1.迫害の中で書かれた手紙
・ペテロの手紙はローマ帝国のキリスト教徒迫害が始まった60年代後半に書かれたと言われています。キリストの十字架と復活を信じ、御言葉に従って生きようとしただけなのに、その生き方が世から迫害を受けます。ローマ帝国は皇帝を神として拝むように諸国民に命じましたが、キリスト者たちはこれを、「偶像礼拝」として拒否しました。兵士としての義務に応じよとの命令にも、「主は剣を捨てよと言われた」として従いませんでした。いつの間にか、キリスト者たちは、「世の秩序を乱す不埒もの」との烙印を押され、投獄され、殺される者も出てきました。
・迫害の中で、人々は怖れ、困り果て、教会の中にも動揺が生じていました。ローマにいたペテロは小アジアの信徒たちを慰めるために、手紙を書き、語ります「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れる時にも、喜びに満ちあふれるためです」(4:12-13)。キリストは正しい方であったのに、囚われ、十字架で苦しまれ、その苦しみを経て復活の栄光に入られたのだから、あなたがたも与えられた苦しみを神からの試練として受け入れ、喜びなさいと言われています。迫害の中で、キリスト者はどのように生きるべきかをペテロはこの4章に記します。
・4章7節でペテロは語ります「万物の終わりが迫っています」。初代教会の人々は終末の接近を信じて生きていました。イエスは言われました「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)そのイエスが十字架で死なれた後、復活されて、弟子たちの前に現れました。弟子たちはその出来事を、「終末が始まった」と理解しました。パウロはテサロニケの信徒への手紙で語ります「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです・・・ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいなさい」(第一テサロニケ5:1-6)。「目を覚まし、身を慎んで」とパウロは語りました。同じくペテロは、「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(4:7)と語ります。「思慮深く=心を確かに、慌てふためかず」、「身を慎め=我を忘れるな、きちんと見定めよ」の意味です。
・「目を覚ましている」とは、今がどういう時かを見定めることです。その時行うべきことは「心を込めて愛し合う」(4:8a)ことです。何故ならば「愛は多くの罪を覆うからです」(4:8b)。人を愛する者は自分の罪を赦されます。同時に人を愛するとは、他人の罪を赦し、覆うことです。愛する者は他人の罪を認めても、それを責めたり、咎めたりせず、むしろ包んで許します。そこから「不平を言わずにもてなし合いなさい」(4:9)という行為が生まれてきます。そして、「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(4:10b)と命じられます。何故ならば「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから」(4:10a)。私たち人間は健康や才能、富等を神から賜物として預かっているのだから、それを神のために、隣人のために用いなさいとペテロは語るのです。ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)やマック・ザッカーバーグ(フェイスブック創業者)、ティム・クック(アップルCEO)等が自分の全財産を財団に寄付し、社会活動に注力しているのは有名です。税制上の問題もありますが、それ以上に「神により与えられた財産を神に帰す」という意味合いが大きいと思います。アメリカで影響力の大きいメソジスト教会の創設者ジョン・ウェスレーは「できる限り稼ぎ、できる限りたくわえ、できる限り与えよ」と教えています。これが健康な資本主義の在り方です。
・しかしすべての人が神を信じているわけではありません。神を信じることのできない人々は「地上に富を積む」ことに執着します。「死ねばすべてが無に帰す」と考える人間にとって、地上の富の最大化こそ生きる目標になります。地上の富の最大化を目指す運動こそ不健康な資本主義であり、現代の資本主義はその最終段階である市場原理主義になり、市場が「神」になっています。ペテロは、「皇帝を神として拝め」と命じるローマ帝国の支配の中でどう生きるべきかを信徒に教えました。現代の私たちは、「地上に富を積むことを最終目標とする強欲資本主義社会の中でどう生きるべきか」を考える必要があります。
2.無自覚の時代の中で
・現代は神なき時代にあると言われています。創価大学の中野毅氏は語ります。「多くの国民は、3.11に東日本をおそった大震災や福島原発事故を、『神の怒り』や『天罰』などとは考えていない。われわれは巨大地震発生の自然的メカニズムを知っており、原爆のみならず原発の有効性とともに、制御不能なほどの危険性も知った。この宇宙の誕生から人類としての進化過程も解明されてきた。病気を引き起こす遺伝子メカニズムも分かってきた。そして、それらが招く災害や被害への対策・対処も、経験科学的な知識と技術によってのみ可能であり、祈りや呪術では解決できないことを知っている」と(中野毅「近代化・世俗化・宗教」、創価大学社会学報、2012.3)
・現代人は「科学こそ神である時代」、「お金こそ神である時代」に生きています。中野氏は続けます「それにもかかわらず、『大災害の中で、私は生き残って、あの方は亡くなった。何故なのか、これからどのように生きていけばよいのか』という実存的な問いに応えるものをこの社会は持っていない」。1985年8月12日に日航機が群馬県上野村山中に墜落し、520名の方々が亡くなりましたが、31年後の今も遺族は慰霊登山を続けます。「何故私の夫や息子や娘が死ななければならなかったのか。彼らは今どこにいるのか」という根源的な問いの答えが見つからないためです。遺族にとって事故は終わっていません。現代人といえども、本当は父なる神なしでは生きて行くことは出来ないのに、彼らはそれを自覚していない。この人々にどのように届く言葉を教会は語るべきなのか。ペテロは語ります「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」(4:11)。
3.試練の先にあるもの
・今日の招詞にヘブル12:11-12を選びました。次のような言葉です。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。ヘブル書もまた、迫害の中で書かれた書簡です。著者は語ります「この迫害は神があなたがたを鍛錬するために与えられた。父は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を鞭打たれるのである。だから負けるな。なえた手と弱くなった膝をまっすぐにせよ」。ペテロが語ることも同じです「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1:7)。迫害に負けるな、それは神が与えたもう試練なのだ、いつかは終わる、そのような希望を、へブル書もペテロも語ります。
・ペテロはこの手紙を書いてまもなく、ローマで殉教します。紀元64年の皇帝ネロ時代のキリスト教迫害時に、十字架にかかって殺されたと言われています。その事実が私たちに告げるのは、試練あるいは鍛錬は、私たちの命を捧げることさえ含まれると言う事実です。それを虚しいと思うか、それで良いと思うかは、私たちの受け止め方次第です。「万物の終わりが迫っている」、私たちは終末という時間の中に生きています。人はやがて来る死を受け入れなければいけない。その時、死の先には何もないのか、それとも死の先に神の国を希望するか。
・初代教会は「終末の希望」の中に生きていました。だから「天に富を積む」ことが彼らの生きざまになりました。しかし今日、教会の中で「終末」が語られることが少なくなりました。イエスの復活から2000年たっても、イエスの再臨も神の国も来ないからです。しかし20世紀最大の神学者といわれるカール・バルトは、主著『ローマ書』の中で述べます「(終末にキリストが地上の裁きのために天国から降りてくるという)再臨が遅延するということについて、その内容から言っても少しも現れるはずのないものが、どうして遅延などするだろうか。再臨が遅延しているのではなく、我々の覚醒(めざめ)が遅延しているのである」(Karl Barth「ローマ書」邦訳、470-471 頁)。キリストは既に来ておられる、私たちの心の中に生きておられるではないか、とバルトは語るのです。
・終末は既に来ている、その中で、私たちは今をどう生きるのか。あくまでも「地上に富を積む」生き方をするのか。しかし地上の富は墓には持っていけない。あるいはもう一つの生き方、「天に富を積む生き方」を選ぶのか。アッシジの聖フランシスは祈りました「主よ、慰められるよりも慰める者として下さい。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それは、私たちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによって、とこしえの命を得ることができるからです」。私たちは慰められ、理解され、愛されることを求めるゆえに、人から裏切られ、理解されず、嘲笑されて苦しみます。だから人生は悲しく苦しいのです。「慰められ、理解され、愛される」人生はあくまでも受動的、人に依存する生き方です。しかし私たちは「人ではなく、神に依存する」。キリストは私たちを赦し、私たちのために死んで下さった。そのことを知ったから、私たちもまた他者を赦し、他者のために死んでいく、そういう能動的な人生を生きるのです。その時、私たちは本当に、意味ある人生を歩む存在に変わっていくのです。