2016年7月17日説教(第三ヨハネ1:1-13、家の教会への手紙)
1.家の教会への手紙
・ヨハネ第三の手紙はガイオという家の集会の指導者に宛てられた牧会書簡です。ガイオはヨハネから薫陶を受けた弟子で、小アジアの地方集会(伝承ではペルガモン)の指導者であったと思われます。紀元1世紀ごろの教会は各地に点在する家の集会の集合体であり、各地の有力者が自分の住宅を会堂として提供し、今日的に言えば、家庭集会がいくつか集まって共同体を形成するような形であったと考えられています。ヨハネの共同体はエペソの母教会を中心に各地に複数の家の集会から構成され、母教会から派遣された巡回伝道者が各集会を定期的に訪問する形で指導していたようです。ヨハネはガイオに宛てて次のように書きます「長老の私から、愛するガイオへ。私は、あなたを真に愛しています。愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています」(1:1-2)。
・小アジアの諸集会を巡回伝道していた伝道者がエペソに帰り、ガイオの集会で歓待を受けたことをヨハネに報告し、そのお礼を兼ねて書状が出されたと思われます。ヨハネは書きます「兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません」(1:3-4)。兄弟たちとは巡回伝道者のことでしょう。彼らがペルガモンで歓待を受け、次の訪問地に向かう経済的支援を受けたことへの感謝があります。「愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください」(1:5-6)。当時の巡回伝道者たちはイエスが言われたように、「何も持たずに、旅をした」(ルカ9:1-5)ようです。そして彼らを経済的に支援することを、各地の集会は求められました「この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。だから、私たちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです」(1:7-8)。
・今日でも牧師になる者は「何も持たない」との覚悟が必要です。牧師が自己実現を目指したり、生活の安定を求めた時、欲が出ます。牧師の基本は「仕えることであり、仕えられることではない」。ヨハネ10章が語るように「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)のです。そして、そのような働きに対して報酬が与えられるのもまた、当然です。パウロは語ります「主は、福音を宣べ伝える人たちには、福音によって生活の資を得るようにと指示されました」(1コリント9:14)。牧者は信徒の魂を養うために働き、その働きは報酬という形で報われます。
2.牧会者を受け入れない教会もあった
・しかし、全ての人がガイオの集会のように、巡回伝道者を受け入れたわけではありません。別の集会では、自分たちは自分たちでやっていくとして、エペソ教会からの伝道者受け入れを拒否したようです。ヨハネは書きます「私は教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、私たちを受け入れません。だから、そちらに行った時、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉で私たちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています」(1:9-10)。ベルガモンは人口20万人を擁する当時の大都市でした。ガイオの集会とは別に、ディオトレフェスの主催する集会もそこにあったと思われます。そのディオトレフェスの集会ではエペソ教会からの指導を喜ばない信徒たちがいたことが推測されます。
・ヨハネの手紙とほぼ同じ時代のヨハネ黙示録では、ベルガモン集会について次のように述べています「ペルガモンにある教会の天使にこう書き送れ・・・私は、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたは私の名をしっかり守って、私の忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺された時でさえ、私に対する信仰を捨てなかった。しかし・・・あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる・・・彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、私の口の剣でその者どもと戦おう」(黙示録2:12-16)。ペルガモンにはサタンの王座(ゼウス大神殿)があり、皇帝礼拝が盛んで、逆らう者は迫害されました。迫害があれば当然棄教する人も出てきます。バラムの教え=偶像礼拝とは皇帝礼拝に従う者も出てきたことを指しているのでしょう。またニコライ派の教えに傾倒する者も出て来たとあります。ニコライ派の詳細は不明ですが、霊的熱狂主義の一派であったと思われます。第一ヨハネによれば、彼らはやがて共同体から出ていきます(1ヨハネ2:19)。イエスがキリストであることを認めず、神の子の受肉や十字架の贖いを信じない者たち、つまりグノーシス派の異端であったと思われます。ディオトレフェスの集会ではその傾向が強かったのではないかと思われます。
3.教会とは何か
・ヨハネの手紙の主題は「教会分裂」です。そもそも、「教会とは何なのか」。信仰は個人ではなく教会共同体の中ではぐくまれます。教会を離れては私たちの信仰は枯れていきます。今日の招詞にヨハネ15:4を選びました。次のような言葉です「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない」。教会を離れた信仰は死にます。また共同体を離れた教会も死にます。教会もまた、他の教会との連帯の中にあってこそ、孤立せず、独善に陥らない。見える教会が集まって、見えない公同の教会=キリストの体を形成します。パウロが語るように、「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」(1コリント12:12)。教会が閉鎖的になっている時は教会が病んでいる時です。
・バプテストの各個教会主義、教会の自立は優れた理念ですが、同時に教会が孤立化し、閉鎖的になる危険性を持ちます。バプテストの各教会が他の教会と連帯するのも、キリストの体を形成するためです。ディオトレフェスはそれを忘れていました。ヨハネは語ります「愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は神を見たことのない人です」(1:11)。ヨハネは手紙を書き送った後に、近いうちに訪問する旨を伝えます。「あなたに書くことはまだいろいろありますが、インクとペンで書こうとは思いません。それよりも、近いうちにお目にかかって親しく話し合いたいものです」(1:13-14)。
・先週の執事会で私たちの教会の問題点、「最近礼拝参加者が減少しているのはなぜか、どうすれば良いのか」を話し合いました。答えは出ませんでした。何かが不足しているのです。何が不足しているのか、答えのヒントを見つけるためにネット検索をしましたら、「一キリスト者からのメッセージ~日本で若者が教会に行かない理由」という投稿を見出しました。30代のクリスチャン男性と思われる方の投稿です「教会の礼拝は日曜日の午前中に行われるが、若者にとって面白くもなければ、魅力も感じられない場所に、せっかくの休みをつぶして彼らは行かない」。
・投稿者は続けます「モルモン教会やものみの塔の人々は熱心に勧誘するが、一般教会の必死のアプローチなど見たことがない。若者は聖書には価値を認めるが、その価値が認められる形での提示がなされていない」。私たちのバプテスト連盟には4万人の信徒がいますが、ものみの塔は21万人、モルモン教会は12万人の信徒登録がなされています。彼は続けます「日本ではキリスト者は絶対的マイノリティーである。家族の反対を押し切り、周囲から奇異の目で見られながら、自らマイノリティーになる人は少ない。仮に洗礼を受けてキリスト者になっても、教会には同世代の若者たちがいない。教会にいるのは年配者ばかりで、若者は『おひとり様クリスチャン』として孤立する。また教会に新規来会者がなく、教会を支える財政負担が一人一人に重くかかってくるため、負担を嫌がって逃げ出す人が出てくる。キリスト教信仰と所属集団への忠誠は別のものである」。
・厳しい指摘ですが、語られていることは的をえているような気がします。「現代の教会は魅力がない、だから人が集まらない。最大の問題はコミュニティーとしての吸引力がないことだ」と私自身も思います。ではどうすればよいのか、信仰の原点に戻る必要があるのではないかと思います。それは何か、どのように科学技術が進歩しても科学では解明できない事柄、すなわち「死と病気と不条理」に真正面から取り組むことではないかと思います。人間は必ず死にます。いつの時代でも人間にとって死は恐怖です。また医学がいくら進歩しても治らない病気は治らない。これも大きな恐怖です。三番目が不条理の問題です。震災や戦争がなぜ起こるかわかりませんが、必ず起こり、多くの人が苦しみ、泣いています。前にご紹介した映画「シリア・モナムール」が示すことは、今この時間にも違う場所では多くの人が殺され続けている事実です。教会はこの「死と病気と不条理」の三つの事柄に二千年間取り組んで来ました。
・教会の蓄積の一つは御言葉に対する感動です。先週の水曜祈祷会で「善きサマリア人の譬え」を読み、そこにある言葉に惹かれました。「旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカ10:33-34)。サマリア人は「憐れに思った」、この「憐れに思う」の原語はギリシア語スプラングニゾマイで、これはギリシア語スプランクノン(内臓)から来ています。異邦人であるサマリア人が、民族として敵になるユダヤ人を介抱したのは、「内臓が痛むほど、心が揺り動かされた」ためだとイエスは言われました。この感動が教会にはあります。彫刻家のオーギュスト・ロダンは人生の意味を次のように語りました「肝心なのは感動すること、愛すること、希望を持つこと、打ち震えること、生きること。そして、芸術家である以前に、人間であることだ」。人生の岐路に立って、生きる意味が見出せなくなった時、キリストの十字架に出会い、心が打ち震えた体験を私たちは持っています。この感動を体験した人が自分たちの感動を証ししていけば、世代を超えたコミュニケートは可能だと確信します。