2016年7月10日説教(第二ヨハネ1:1-13、愛は敵を友に変える)
1.教会を出て行った人々とどのように交際するのか
・エペソにある教会の長老ヨハネは、牧会責任を持つ諸教会(ヨハネ共同体と呼ばれる)にあてて三通の手紙を書きました。それがヨハネの手紙です。私たちは5回にわたって第一の手紙を読んできました。そこにあったのは分裂に悩む教会の姿でした。ヨハネの教会ではグノーシスと呼ばれる分派の人々が教会を割って出て行きました。彼らについてヨハネは語ります「彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちの元に留まっていたでしょう。しかし去って行き、誰も私たちの仲間ではないことが明らかになりました」(第一ヨハネ2:19)。第一の手紙から推察すれば、彼らはナザレのイエスが「救い主キリスト」であることを認めず、神の霊がバプテスマの時に一時的にイエスに宿ったと考えました。そして彼らはキリストの受難も否定し、「イエスが十字架にかけられた時に、神の霊はイエスから出て行った」と主張したようです。「神は霊であり、一時的に肉のイエスに神の霊が宿ったに過ぎない」と彼らは考えたようです。
・イエスを救い主として認めないとすれば、それはキリストにある救いを否定する者であり、「反キリスト」です。ヨハネは第二の手紙の中で語ります「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです」(1:7)。彼らは十字架の贖いを否定しました。十字架の贖いを否定するとは、「自分の十字架を背負って、キリストに従う道」を否定することです。彼らが求めるのは、自分たちの願いの成就です。世の人は「苦難がなく、病気もなく、幸福に暮らす人生」を求めますが、人生の現実はそうではありません。それ故イエスは、「苦難や悲しみを見つめ、それを担うことによって命を得る」と繰り返し語られました。「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである」(ルカ9:23-24)。誰も十字架など背負いたくありませんが、そこに救いがあるのであれば背負って行こうというのが信仰です。それを嫌って、ある人々は教会を出て行きました。
・ヨハネは共同体の人々に語ります「気をつけて、私たちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです」(1:8-11)。ここでヨハネは誤った信仰を持って教会から出て行った人々を、「家(教会)に迎え入れるな、手助けするな」と警告しています。
・地上の教会は神の国ではありません。私たちは無罪を宣告されても、本質は罪人のままです。それ故に人間的な思いが教会を壊すこともあります。その場合は「腐敗が広がらないように、病根を分離しなさい」とパウロは語ります「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」(Ⅰコリント5:6-7)。「古いパン種を取り除きなさい」、集会を守るためにはやむを得ない措置でしょう。
・手紙のあて先教会では分裂騒ぎが起きており、真理に歩んでいない人々がいたことを手紙は示唆します「あなたの子供たちの中に、私たちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」(1:4)。教会から出て行った人々と付き合わないのは、外的防御です。しかし、もっと必要なことは内的防御だとヨハネは語ります。それは教会内の人々がお互いに愛し合うことです。ヨハネは語ります「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。私が書くのは新しい掟ではなく、初めから私たちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです」(1:5-6)。
2.愛するとは相手の足を洗うこと
・ここに言われる「愛し合う」とは、仲良くすることや飲食の交わりをすることではありません。イエスが言われたように、「相手の足を洗う」、仕えていく交わりです。イエスは言われました「主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなた方にした通りに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:14-15)。イエスが「互いに足を洗い合いなさい」と言われたのは、最後の晩餐の席上で、弟子たちの間に、「自分たちの中で誰が一番偉いか」という議論が持ち上がったためです。彼らは議論に夢中で、誰も他の人の足を洗おうとは考えていません。そのため、イエス自らが立ち上がって弟子たちの足を洗い始められました。イエスが自ら弟子たちの足を洗ったのは、互いに仕え合う手本を弟子に見せるためだったとヨハネは記します。足を洗うとは奴隷が行う行為です。その行為をイエスは弟子たちに対して為された。イエスはユダの足を洗われた。そのユダはやがてイエスを裏切る存在です(13:30)。イエスはペテロの足を洗われた。そのペテロはやがて「イエスを知らない」と三度否認します(13:38)。イエスはユダやペテロの弱さを知っておられた。他の弟子たちも同様です。彼らはイエスが捕らえられると逃げ出し、イエスが十字架に殺された時は誰もそこにいませんでした。悪の故か、弱さの故か、裏切るであろう者たちの足をイエスは洗われた。それが「イエスが示された愛だ」とヨハネは語ります。
・ヨハネ共同体はイエスの死後パレスチナで成立し、その中心になったのが愛弟子と呼ばれた使徒ヨハネだと言われています。やがてユダヤ戦争が起き(66-70年)、エルサレムは破壊され、ユダヤ人たちは国を追われて難民となります。ヨハネ共同体は小アジアに逃れ、エペソを中心にしたいくつかの教会を生み出しました。その共同体の信仰告白として生まれたのがヨハネ福音書です(90年頃)。共同体はやがて皇帝礼拝の強制に直面し、共同体の指導者であった預言者ヨハネが95年ごろヨハネ黙示録を書き、迫害に苦しむ信徒を慰めました。ローマ帝国からの迫害はドミティアヌス皇帝の暗殺により終わりましたが、今度は共同体内にグノーシスと呼ばれる異端的キリスト論が生まれて教会分裂の危機が訪れ、それに呼応して長老ヨハネが書いたのが三通のヨハネの手紙と言われています。
・ヨハネ福音書とヨハネ黙示録、三通のヨハネの手紙は同じ共同体の中で生まれたものです。黙示録そのものが小アジアにある七つの教会(ヨハネ共同体)に宛てて書かれた手紙であり、その中心になったエペソ教会にあてて次のように書かれています「私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、私の名のために我慢し、疲れ果てることがなかった」(黙示録2:2-3)。ところがその後に叱責の言葉が続きます「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、私はあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう」(黙示録2:4-5)。エペソ教会は異なる教えに惑わされることはなかった、しかし信仰の真偽を見分けようとする熱意が度を越して、「初めのころの愛」から離れ、お互いを裁き合う宗教裁判の色彩を帯びるようになった。だから「初めのころの愛に戻れ」と語られます。教会はお互いの足を洗い合う場です。相手に仕える愛なしにキリスト者はキリスト者たり得ないし、教会は教会たり得ないのです。
3.愛は敵を友に変える
・今日の招詞にヨハネ13:34‐35を選びました。洗足に続く最後の晩餐でのイエスの言葉です「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」。イエスが弟子たちに示した愛とは、相手の足を洗うことでした。それは主人が奴隷になることを意味します。イエスはユダの足も、ペテロの足も洗いました。自分を裏切るであろう者たちの足を洗われたのです。ここに無条件の赦しがあります。イエスの十字架が何故救いになるのか、それはイエスの犠牲によって私たちの罪が赦された(贖罪)からではありません。そうではなく、唯一無比の赦しがそこで為されたからです。イエスは十字架上で自分を処刑する者たちの赦しを神に求めました(ルカ23:34)。復活後のイエスは自分を捨て去った弟子たちを訪ね、「あなたがたに平和があるように」と祝福されました(ヨハネ20:19)。これまで人間が知ることのなかった絶対の赦しがここにあり、それを知ることで人は悔い改め、そこに救いが生まれるのです。私たちはエゴや弱さを抱えています。それを知った上で、私たちを愛し、受け入れて下さる方がおられる。その方は、死なれたが復活され、今私たちと共におられる。これが福音、良い知らせなのです。
・この福音に生かされた一人がアブラハム・リンカーンです。彼が大統領選の選挙運動をしていた時、政敵の一人にエドウィン・スタントンという男がいました。スタントンは旧政権の司法長官であり、リンカーンを嫌い、公衆の面前で何度も彼を罵倒しました。ところがリンカーンは大統領に選ばれた時、最重要ポストである陸軍長官にスタントンを選びます。側近たちは誰もが反対しました「大統領、あなたは間違っておられます。スタントンはあなたの敵なのです。彼はあなたの計画を故意に破壊しようとするでしょう」。それに対しリンカーンは答えました「私はスタントンが私について語った誹謗中傷を知っています。しかし国全体を見渡した時、私は彼がこの仕事に最適な人間だと発見したのです」。そしてリンカーンは付け加えたそうです「私が敵を友に変えてしまう時、敵を滅ぼしたことにはならないでしょうか」。非寛容の現代社会では相手を攻撃することによって勝とうとします。しかし教会では相手を包み込むことによって勝利を目指します。パウロはローマ教会の人々に語りました「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:20-21)。「愛は敵を友に変える力を持つ」、そのことを知った人の人生は祝福されます。