2016年4月3日説教(ヨハネ黙示録1:1-11、目を覚ましていなさい)
1.流刑地にいたヨハネに幻が示される
・今日から新年度に入りましたが、新年度最初の4月~5月は、説教でヨハネ黙示録を読んでいきます。なぜヨハネ黙示録を読むのか、一つは私たちが聖書日課として用いている「聖書教育誌」がヨハネ黙示録をテキストとするからです。しかしそれ以上にこの黙示録は、現代の私たちにこの世界を読み解くカギを与えるテキストであると信じるからです。2011年3月11日に起きた大震災と原発事故は、平和ボケの私たちに生き方の変革を迫りました。私たちの目の前で2万人の人が津波に巻き込まれて命を失くし、続いて起こった原子力発電所の爆発事故では、10万人以上の方が住む処を追われて避難する事態が生じました。戦後最大の惨事が起きました。ケセン語訳聖書を著した医師の山浦玄嗣さんは大洪水時の経験を語ります「3月11日午後2時46分、私が理事長の山浦医院の午後の診察が始まる時間でした。自宅のすぐ隣にある医院に入ると間もなく、大きな横揺れを感じました。揺れはいつまでも収まらず、船酔いみたいに吐き気がしてきた頃、ようやく静まりました。幸い自宅も医院も床上に浸水しただけで済みました。でも、津波でたくさんの友だちが死に、ふるさとは根こそぎ流された。黒い津波が押し寄せるのを見て、イエスが十字架で叫んだ『私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか』を思い出しました」(朝日新聞2011年5月16日夕刊から)。
・「わが神、わが神、どうして」、不条理な苦難に遭遇した時、繰り返し叫ばれた言葉です。その苦しみの中にある信徒に与えられた手紙の一つがヨハネ黙示録です。紀元70年、ユダヤはローマとの戦いに敗れ、エルサレムは占領され、多くのユダヤ人たちが難民として地中海地方に逃れて行き、紀元90年頃にはエペソを中心とする小アジアがキリスト教信仰の中心地になっていきました。しかし、当時のローマ帝国の皇帝ドミティアヌスは、人々に皇帝を神として拝むことを求め、教会は「皇帝は神ではない」として、皇帝礼拝を拒否しました。その結果、キリスト教徒たちは非国民、不敬者として捕らえられ、ある者は殺されました。なぜイエスを神の子と信じるゆえに殺されなければならないのか、信徒たちは「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか」と叫びました。その信徒たちに対する慰めの手紙がヨハネ黙示録です。時代は紀元95年ごろと言われています。
・黙示録の著者ヨハネも皇帝礼拝を拒否したため、地中海にあるパトモス島に流刑になっています。その流刑地のヨハネにキリストからの幻が示されます。ヨハネは信徒に語ります「私は、あなた方の兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。私は、神の言葉とイエスの証しの故に、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、私は“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った『あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ』」(1:9-11)。
・ヨハネは迫害故に明らかに書くことは出来ず、黙示として手紙を書きます。帝国からの迫害にどのような意味があるのか、どうすれば良いのかを書いた手紙がヨハネ黙示録です。ヨハネは書きます「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」(1:1)。ヨハネは黙示を通して、ローマ皇帝が世を支配しているのではなく、神が支配しておられ、今は天におられるキリストがあなた方を救うために来られる、だから今しばらく忍耐しなさいと伝えます(1:7)。キリストを証し(ギリシャ語=マルチュリア)することは、今の時代には殉教(マルチュール)を伴うものになるかもしれないが、キリストが受難されたようにあなた方も苦しみを受け入れなさいと勧めます(1:3)。
・ヨハネが見た幻は、キリストがやがて来られるというものでした。ヨハネは書きます「恐れるな。私は最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」(1:17-19)。ヨハネは苦難の意味を諸教会に伝えます。
2.目を覚ましていなさい
・具体的な黙示は4章以降に語られていきます。ヨハネは天に引き上げられ、神が玉座に座っておられるのを見ます。神の手元には計画を記した巻物があり、キリストがその封印を解いていくと、不思議な出来事が起こります。最初の封印を解くと、白い馬に乗った騎士が現れます(6:1-2)。白馬はローマ帝国の宿敵パルテイアを意味し、ローマが外敵の侵入により困難に陥ることが預言されます。次に赤い馬に乗った騎士が現れます(6:3-4)。赤は流血であり、ローマを襲う戦争や内乱を意味しています。三番目に黒い馬に乗った騎士が現れます(6:5)。彼の登場と共に、穀物の値段が高騰していますから、これはローマが飢饉に襲われることを意味します。第四の封印が解かれると、青白い馬に乗った騎士が現れます(6:7-8)。彼はローマを襲う疫病です。つまり、ローマ帝国はこれから、外敵が侵入し、国内は内乱状態になり、飢饉に苦しめられ、疫病が蔓延して、やがて滅ぶという未来を見せられたわけです。今は勢威を振るい、暴虐の限りを尽くしていても、天では既にローマの支配を終わらせるための諸準備が為されていることをヨハネは示されました。
・この黙示の背景にあるのは、当時の社会の混乱です。中村和夫著「ヨハネの黙示録注解」(新共同訳新約聖書注解)は書きます。「既に、見せかけの繁栄とパクス・ロマナ(ローマの平和)の正体が暴露される予兆が現れていた。無敵だったローマ軍が、紀元62年、パルティア軍の騎兵隊に惨敗する。68年には、皇帝ネロが自殺し、政情の乱れと帝位簒奪が繰り返されていた。紀元70年、熾烈を極めたユダヤ戦争の結果、都エルサレムはローマ軍の手に落ち、永遠と覚えられたユダヤ神殿が戦火と共に崩壊するのもこの時代だ。さらに、79年、ヴェスヴィウス火山が大爆発を起こし、飽食の限りを尽したポンペイが一夜にして消滅し、ナポリ湾一帯の富が失われた。陽光は長い間暗雲にさえぎられ、暗黒が地をおおい、人々は飢餓に苦しめられるようになった」。
・第五の封印が開かれますと、殺された殉教者たちの声が響きます「いつまで不正が続くのですか。早くローマを倒して正義を見せて下さい」(6:9-10)。それに対して「数が満ちるまで待て」(6:11)と言う声が聞こえます。今しばらくは迫害により殺される者が出る、それが神のご計画だと言うのです。第六の封印が開かれると、大地震が起こり、太陽と月は光を失い、星が天から落ちます(6:12-13)。古い天地の滅亡です。その時、讃美の声が聞こえてきます。キリストに従って死んでいった者たちが、神の僕の刻印を押されて、天の礼拝堂に集まり、讃美しています。殉教者たちが白い衣を着て神と御子の前に集い、讃美しているのです。それに呼応して天使たちが「然り、アーメン」と歌っています。
・地上では迫害の嵐が吹き荒れていますが、天上では神を讃美する声がこだましています。人々のまとう白い衣はキリストの血で洗い清められています。集まった者たちは地上でそれぞれ苦難を背負い、天に召されましたが、今は天上で休息を許されています。天使たちは歌います「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない・・・小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(7:16-17)。地上では彼らは飢え渇きに苦しみ、涙を流して来ましたが、ここではもう飢えも渇きも涙もありません。ヨハネは地上の教会に書き送ります「今あなたたちは迫害の中で、飢え渇き、涙を流している。しかし、天上ではそのような不義を裁くための軍勢が既に地上に派遣され、苦しみの末に天に召された民が主の前に集まり讃美している。殉教を恐れるな、彼らは肉の命を奪うことは出来るかも知れないが、私たちは永遠の命が神により与えられているのだ」と。 ヨハネは地上の迫害に苦しむ民に「天を見よ」と勧めているのです。
3.私たちへの使信として読む
・今日の招詞にヨハネ黙示録3:20を選びました。次のような言葉です「見よ、私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」。ヨハネがラオディキア教会に宛てた手紙の一部です。町は商業都市として栄え、豊かさを誇りましたが、豊かさの中で、人々の信仰は自己満足的な、生ぬるいものに堕していきました。そのような教会に厳しいイエスの言葉が臨みます「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている」(3:15-16)。無関心と不徹底な信仰生活を送る教会の信徒に対して、キリストは「私はあなたを口から吐き出そうとしている」と言われているのです。
・これは現代の私たちへの警告の言葉です。私たちも「熱くも冷たくもなく、なまぬるく」なっているのではないか。原誠という同志社の先生が、「戦時下の教会の伝道-教勢と入信者」という論文をまとめました(2002年3月)。それによれば1942年の日本基督教団全教会の受洗者は年5,929名でした。戦時下、国家による宗教統制は激しさを増し、ホーリネス教団や救世軍などに対する弾圧が起こり、国家がキリスト教を「敵性宗教」として疑心の目で見ていた時です。その時に6千名近い洗礼者がありました。戦後、信教の自由が保証され、自由に教会に行くことが出来るようになった1998 年の受洗者は1900名でした。受洗者数は三分の一以下に低下しています。豊かさと平和は信仰を生ぬるくします。
・戦時下の日本の教会は、社会からの「迫害と敵視」の中にあり、ヨハネ黙示録の教会と似た状況にありました。しかしその中で年間6千名の洗礼者を生み出し、平和な時代になると洗礼者は三分の一以下になった。何がそうしたのでしょうか。ヨハネは迫害下のスミルナ教会への手紙の中で、「私は、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ」(2:9)と賞賛します。他方、迫害を経験しなかったラオデキィア教会には「あなたは、私は金持ちだ。満ち足りている・・・と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(3:17)と批判しています。「目覚めている」ことが大事なのです。ヨハネの教会や戦時下の日本教会は迫害の中で目覚めざるを得なかった。そのことが伝道になった。
・この緊張感を現代の私たちも持つ必要があります。現代に迫害はないかもしれませんが、悪の蔓延に教会もいつの間にか捕らえられています。世の中で進行しているのは、経済格差の拡大であり、地方都市の疲弊です。多くの人々が苦しみの中にある時、「私は金持ちだ。満ち足りている」として自分のことだけに拘れば、教会は貧しくなります。他者に与えない者には神も恵みを与えてはくれないからです。その私たちに黙示録のイエスは呼びかけます。「目を覚ませ」(3:1)、「見よ、私は戸口に立って、たたいている」(3:20)。放射能に汚染された福島の村々では住民の帰還は難しく、人々は仮設住宅の中で「どうしたら良いのか」と思いあぐねています。津波に流された東北の町々は人口流失に悩んでいます。そのような中で、「目を覚ましてやるべきことを行う」、「教会に何ができるかを追い求めていく」、そのようなことを追い求めていく1年を期待されています。