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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年2月21日説教(ヨハネ福音書13:1‐17、弟子たちの足を洗う)

投稿日:2016年2月21日 更新日:

2016年2月21日説教(ヨハネ福音書13:1‐17、弟子たちの足を洗う)

 

1.弟子の足を洗う

 

・ヨハネ福音書を読んでいます。今日はヨハネ13章「最後の晩餐」の記事です。マルコやルカの福音書は最後の晩餐で、イエスが弟子たちと共に「主の晩餐式(聖餐式)」を行われたことを伝えています。ルカ福音書によれば、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われます「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)。またその後に杯を取り、「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」と言われています(ルカ22:20)。教会はこれを記念して、主の晩餐式を、礼拝の中で行います。

・しかしヨハネ福音書には、主の晩餐式の制定記事がなく、最後の晩餐の席上でイエスが弟子たちの足を洗われたという記事があるのみです。イエスはなぜ弟子たちの足を洗われたのでしょうか。ルカによれば、主の晩餐式の後、弟子たちは食卓に座る席次のことで争いを始めています「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」(ルカ22:24)。それに対してイエスは上に立つものは仕える者になりなさいと教えられます「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者はどちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、私はあなたの中で、いわば給仕する者である」(ルカ22:26-27)。仕えることを弟子たちに身をもって教えるために、イエスは自ら弟子たちの足を洗われたのでしょう。

・ヨハネは記します「過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食の時であった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(13:1-2)。イエスは最後の時が近づいたことを意識しておられます。弟子たちは何も気づかず誰が偉いかを議論しています。また弟子の一人イスカリオテのユダの心の中にはイエスに対する不信感が高まっています。その中で緊張をはらんだ最後の晩餐が、始まります。

・通常、食事のために家に入る時には、その家の奴隷が、水を汲んで客の足を洗います。しかし食事の家は借りた家であり、足を洗ってくれる人はいませんでした。弟子たちは席順のことで争い、他の人の足を洗うどころではありません。だから、イエスが水差しとたらいを取り、弟子たちの足を洗い始められたとヨハネは伝えます。「イエスは、父がすべてを御自分の手に委ねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取り腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」(13:3-5)。弟子たちはびっくりしました。奴隷がやるべきことを先生であるイエスがしておられる。

・ペトロは当惑します「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」(13:6)。それに対してイエスが答えられます「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(13:7)。ペトロは畏れ多くて、先生に足を洗ってもらうことなどできません。だから言います「私の足など、決して洗わないでください」(13:8)。それに対してイエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる」と答えられます。ペテロは慌てて「主よ、足だけでなく、手も頭も」と言い直し、それに対してイエスが「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」と答えられます。

・「既に体を洗った者」、洗礼を受けた者を指します。ヨハネ13章「洗足」には二つの意味が込められているように思えます。一つは「既に体を洗った者は全身が清い」、水の洗い=洗礼を受けた者は既に清くされている。もう一つの意味は「皆が清いわけではない」、洗礼を受けても脱落すれば清くなくなる。直接的にはイスカリオテのユダの裏切りが示唆され、同時に当時のヨハネ教団内での脱落者(ユダヤ教からの迫害の中での脱落者が多かった)に対する警告の意味も込められていると思えます。

 

2.あなた方も洗い合いなさい

 

・イエスが最後の別れの言葉を述べられた直後に、弟子たちは「自分たちの中で誰が一番偉いか」という議論をしています。彼らは議論に夢中で、誰も他の人の足を洗おうとは考えていません。そのため、イエス自らが立ち上がって弟子たちの足を洗い始められました。イエスが自ら弟子たちの足を洗ったのは、互いに仕え合う手本を弟子に見せるためだったとヨハネは記します。イエスは言われます「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を「先生」とか「主」と呼ぶ。そのように言うには正しい。私はそうである。ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにした通りに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(13:14-15)。

・足を洗うとは奴隷が行う行為、目下の者が目上の者に対して行う行為です。その行為をイエスは弟子たちに対して為された。イエスはユダの足をも洗われた。そのユダはやがてイエスを裏切り、祭司長に売り渡すために部屋を出ていく存在です(13:30)。イエスはおそらくユダの中にあるつまずきを感じておられた。イエスはペテロの足を洗われた。そのペテロはやがて「イエスを知らない」と三度否認します(13:38)。イエスはペテロの弱さをも知っておられた。他の弟子たちも同様です。彼らはイエスが捕らえられると逃げ出し、イエスが十字架に殺された時は誰もそこにいませんでした。悪の故か、弱さの故か、裏切るであろう者たちの足をイエスは洗われた。それが「イエスが示された愛だ」とヨハネは語ります。

 

3.互いに愛し合いなさい

 

・今日の招詞にヨハネ13:34‐35を選びました。洗足に続く最後の晩餐でのイエスの言葉です「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」。ここの「愛し合う」という言葉には、「アガパオー」というギリシア語が用いられています。「アガペー」(愛)の動詞形です。本田哲郎はこのアガペーを「愛する」と訳したことに、誤りがあると言います。彼は愛の代わりに「大切にする」という言葉を用います。「敵を愛せ」とイエスは言われましたが、私たちは嫌いな人を愛することはできない。愛は感情であって人間には制御できないからです。しかし嫌いな人でも「大切にする」ことはできる。それは感情ではなく、意思の問題だからです。この個所を本田哲郎は次のように訳します「私はあなたたちに新しい掟を与える。互いに大切にし合いなさい。私があなた方を大切にしたように、あなたたちも互いに大切にし合いなさい。あなたたちが大切にし合うならば、そのことによってあなたたちが私の弟子であることを、みんな納得するようになるだろう」(本田哲郎「小さくされたものの福音」)。

・「愛する」を「大切にする」と訳し直すことによって、「敵を愛せよ」という言葉も、「敵を大切にせよ」となり、実行の難しさは低下しますが、それでも実行するには大変な努力が必要です。日本では三組に一組の夫婦は離婚しますが、離婚原因を見ると、性格の不一致や配偶者の暴力、虐待、配偶者の不貞等と並んで、「夫や妻の実家との折り合いの悪さ」が上位に来ます。よく言われる嫁姑の対立です。その問題が大きな社会問題化しているのが老親介護の現場です。日本では施設入居は姥捨てであり、家庭での介護が望ましいとされ、その担い手として家庭にいる妻や嫁が当てにされています。しかし高齢化で介護期間が長くなっています。日本では男性の平均寿命は79.5歳、女性は86.3歳ですが、健康寿命は男性70.4歳、女性73.6歳で、その差が平均的な要介護期間です。男性の場合9.1年、女性の場合12.6年であり、10年を超える年月は奉仕の限界を超えています。現実に、介護される方とする方の双方の共倒れが出ています。聖書の「愛する」、「大切にする」、あるいは「仕える」を強制化した時、それは人を押しつぶす桎梏となり、イエスの望まれることではないのは明らかです。仕えるとは隣人に対する自由と愛の行為であり、できないことを強制するものではありません。私たちは相手を「大切にすること」はできますが、「大切にし続けること」の難しさをも知る必要があります。現実の解決策としては施設介護しかないでしょう。神は出来ないことを人間に強制される方ではありません。パウロの語る通り「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)。それが聖書の信仰です。

・イエスが弟子たちに行った愛とは、相手の足を洗うことでした。それは主人が奴隷になることを意味します。イエスはユダの足も、ペテロの足も洗いました。自分を裏切るであろう者たちの足を洗われたのです。ここに無条件の赦しがあります。イエスの十字架が何故救いになるのか、それはイエスの犠牲によって私たちの罪が赦された(贖罪)からではありません。そうではなく、唯一無比の赦しがそこで為されたからです。イエスは十字架上で自分を処刑する者たちの赦しを神に求めました(ルカ23:34)。復活後のイエスは自分を裁いた者、自分を処刑した者の誰の所にも報復に行っていません。イエスは復活後、自分を捨て去った弟子たちを訪ね、「あなたがたに平和があるように」と祝福されました(ヨハネ20:19)。これまで人間が知ることのなかった絶対の赦しがここにあり、それを知ることで人は悔い改め、そこに救いが生まれるのです。私たちはエゴや弱さを抱えています。それを知った上で、私たちを愛し、受け入れて下さる方がおられる。その方は、死なれたが復活され、今私たちと共におられる。これが福音、良い知らせなのです。

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