江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年12月11日説教(マタイ1:18-21、イエスの父ヨセフの苦悩と決断)

投稿日:2016年12月11日 更新日:

2016年12月11日説教(マタイ1:18-21、イエスの父ヨセフの苦悩と決断)

 

1.ヨセフを通してのイエス生誕物語

 

・今私たちはクリスマスを待つ待降節の中にいます。そのキリストが、どのようにして生まれられたかをマタイ福音書1章は語ります。しかし、マタイは、私たちにとって理解することが難しいことを平然と語っています「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(1:18)。「聖霊により身ごもる」、マタイは、普通の人にとってはつまずきになるであろう言葉を、何の説明もなしにここに述べています。

・人は通常は父と母から生まれます。両親がそろっている時、母の妊娠、子の誕生は祝福です。しかしそうでない場合は、子の誕生が大きな波紋を招きます。イエスの場合がそうでした。ヨセフはマリアの許嫁でしたが、まだ婚約中で、同居していません。その許嫁が身ごもった。ヨセフには身に覚えはありませんので、マリアが不義の罪を犯したと考えざるを得ません。ヨセフはマリアとの婚約を解消しようとしました。「 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(1:19)。この短い言葉の中にヨセフの苦悩が凝縮されています。

・これから結婚しようという女性が自分以外の人の子を宿している、ヨセフはこの事実を知って、怒り、悲しみ、苦しんだに違いありません。そして、「ひそかに縁を切ろうと決心した」、マリアの妊娠の事実が表ざたになれば、マリアは裁判にかけられ、石をもって村から追放されるでしょう。婚約中の不義は石打ちの刑と当時の律法には定められていました(申命記22:23-24)。それを避けるために、ヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心した」。来る日も来る日もヨセフは悩んだことでしょう。眠られぬ日が続く中でヨセフは夢を見ます。その夢の中で神が現れ、ヨセフに「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(1:20)と述べます。それでもヨセフは、誰の子ともわからない子をどうして受け入れることが出来ようか、と煩悶します。そのヨセフに夢の中の神は語り続けます「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(1:21)。

 

2.ヨセフの苦悩と決断

 

・イエス誕生の次第は多くの人々に困惑を与えてきました。マタイ福音書はその冒頭にアブラハムから始まってイエスに至るまでの42代の系図を掲げます。「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」という風に父の系図が続きますが、イエスについては次のように語ります「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(1:18)。父の系図が突然母系に変わっています。ルカ福音書もイエスの系図を掲げますが、その中で「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ3:23)と語ります。マルコ福音書ではイエスがナザレ村で「マリアの息子」(マルコ6:3)と呼ばれていたと報告しています。それは「父の名をつけて呼ぶ」のが慣例の社会では、決して好意的な呼び名ではありません。つまり、マタイもルカもマルコもイエスがヨセフの実子ではない、イエスはマリアの婚外妊娠によって生まれられたことをここに告白しています。この婚外妊娠は人間的に見れば不道徳な出来事です。しかし福音書記者は、これを信仰によって、「聖霊によって生まれた」と受け止めています。

・マタイ福音書によれば、ヨセフは「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」との神の言葉を与えられ、マリアを受け入れて妻に迎えました。ヨセフはなぜ人間の理解を超える出来事を受け入れることが出来たのでしょうか。ヨセフは人として耐えられない出来事を目の前に突き付けられた、自分の許嫁が自分の関与しないところで妊娠した。ヨセフは苦悩し、「神様、何故ですか」とその不条理を何度も訴えたと思われます。そのヨセフの度重なる訴えに応えて、神がヨセフに現れ、「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と示されたのです。現代の言葉に直せば、神はヨセフに「マリアの生む子をお前の子として受け入れてほしい」と言われたのです。

・これまでヨセフは自分のことしか考えていませんでした。しかしマリアの立場に立てば、もしヨセフが受入れなければ、マリアと幼子は悲惨さの中に放り込まれることでしょう。もしかしたら生存さえ危ぶまれる事態になるかもしれません。当時は女性が自立して生きていける環境ではなかったからです。そのことを知ったヨセフは神の啓示を受け入れます。ヨセフは苦悩のただ中で神と出会い、神の言葉を受け入れ、その結果マリアと幼子の命が救われました。現代日本では、10代の妊娠の60%において、赤子は人工妊娠中絶されるそうです。その理由は「相手と結婚していない」からです。マリアとヨセフの苦悩は現代でも繰り返され、その多くが胎児を犠牲にする方法で対処されています。それに対しマタイは、「神に働きかけられた人の信仰により、悲惨な事柄も祝福の出来事になる」ことを伝えています。クリスマスの出来事は、このように深い悩みの中での、一人の信仰者の神との出会いと決断によって起こったのです。

 

3.苦悩の中から喜びが

 

・今日の招詞にヨブ記42:5-6を選びました。次のような言葉です「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔改めます」。この世には多くの不幸や悲しみがあり、そのような不幸や悲しみが自分に起こることもあります。人生には意味のわからない、不条理な苦しみが、何故あるのかを追求した書がヨブ記です。主人公ヨブは家族と財産に恵まれ、周りの人からも尊敬されていました。そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられます。最初に家族全員が死ぬという災いが与えられ、次に何千頭もの家畜が強盗に奪われるという出来事が起こり、更には、彼自身に重い病気が与えられます。ヨブは自分の運命を呪い始め、神に異議申し立てを行います。ヨブは繰り返し、繰り返し、神の返事を求めます「なぜあなたはこのようなことをなさるのか」と。

・やがて神が応答されます。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」。(38:1-4)。何故苦しみが与えられるのかというヨブの問いに、神は何も答えられず、ただ言われます「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」(38:4)。神が天地を創造された時、ヨブはどこにもいません。まだ生まれていなかったからです。神は問いを続けられます「お前は朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」(38:12)。ヨブは答えられません。天体を支配しているのはヨブではないからです。神は更に問われます「お前は海の湧き出るところまで行き着き、深淵の底を行き巡ったことがあるか」(38:16)。ヨブは答えられません。ヨブの知っている世界はパレスチナとその周辺だけだからです。

・ヨブの苦難は、自己を中心に考えた時には大問題でした。しかし、神を中心に世界を考えてみた時、自分は何一つ知らず、何一つ責任を取ることができない存在であることが見えてきます。悲しむ自分に集中していた時のヨブは、悲しみの牢獄から抜けることはできませんでした。しかし小さな自己を超えた大いなる力、神に出会って、考えの中心が自分から神に移り変わり、「人は人であり、神ではない」ことを悟ります。そしてこの「大いなる力に自分が生かされている」ことを知った時、ヨブは新しく生まれ変わりました。自分の考える正しさを覆して神の正しさを受け入れた時、問題は何も解決していないのに、ヨブの心に平安が与えられました。

・ヨセフもまた人として耐えられない出来事を目の前に突き付けられます。自分の許嫁が自分の関与しないところで妊娠した。ヨセフは苦悩し、「神様、何故ですか」とその不条理を訴えます。その神がヨセフに現れ「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と示されます。ヨセフは理解できません。しかし、この世には「疑いを超える存在がある」ことをヨセフは知っており、もしヨセフがマリアと幼子を受入れなければ、二人は悲惨さの中に放り込まれる。ヨセフは悩みぬいた末に神の啓示を受け入れていきます。

・哲学者の森有正は講演の中で次のように述べています「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人には知らせることができない心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはないのです。人間が誰はばからずしゃべることのできる観念や思想や道徳や、そういうところで誰も神様に会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる。また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない。」(森有正「土の器に」p.21)。「人はだれにも相談できず、一人で苦しみ悩む時に神に出会う」という言葉は真実だと思います。私自身もそのような中で神と出会った体験があります。

・彼は理解できなくとも、マリアとその子を守っていこうと決意しました。マタイ福音書の描く「父」としてのヨセフは、妻に子を産ませることで自分の血統を伝えるのではなく、神が与えられた子の命をその母と共に保護していく役割です。ヨセフはその役割を受け入れて生きました。成長したイエスは、村人から「私生児」と陰口されて苦しまれたでしょう。苦しまれた故にイエスは「自分の民を罪から救う」(1:21b)ことが出来ます。私たちの人生には不条理があります。理解できない苦しみや災いがあります。希望の道が閉ざされて考えもしなかった道に導かれることもあります。しかしその導きを神の御心と受け止めていった時に、苦しみや悲しみが祝福に変わる。クリスマスはそのことを改めて私たちに示す時です。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.