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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年8月28日説教(第一ペテロ5:1-11、キリスト者の生き方)

投稿日:2016年8月28日 更新日:

2016年8月28日説教(第一ペテロ5:1-11、キリスト者の生き方)

 

1.教会の長老たちへの遺言

 

・ペテロ第一の手紙を読み続けてきました。この手紙は迫害の中にある小アジアの諸教会に使徒ペテロが送った、励ましの手紙です。手紙の中でペテロは語りました「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れる時にも、喜びに満ちあふれるためです」(4:12-13)。悪いことをして罰を受けるのではなく、「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(4:16)とペテロは語ります。何故ならば、「(キリストは)十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされた」(2:24)からです。

・そしてペテロは語ります「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。私たちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」(4:17)。裁きは教会から始まって、全人類に及ぶとあります。なぜなら教会こそ、神の委託をきちんと果たしたかを、まず問われる存在だからです。イエスから二千年、教会は多くの罪を犯してきました。イエスは、「敵を愛せ」、「右の頬を打たれたら左の頬をも向けよ」と教えられたのに、教会は十字軍、異端審問、魔女狩りなどの戦争や殺戮行為を行ってきました。カール・バルトは語ります「初代教会は戦争に反対してきた。しかし、313年のキリスト教公認以降、教会は戦争を肯定し、アルル司教会議(314年)では戦争参加を拒否する者を教会から除名することさえ決議し、その後も教会は戦争を肯定してきた」(カール・バルト・キリスト教倫理)。なぜ教会は罪を犯すのか、それは世に属さないはずの教会が世の支配者となった時、世の権力と同じ存在になるからです。教会は世の支配者になるのではなく、あくまで世に仕える存在です。日本の教会が総人口比1%の絶対少数であることは良いことだと思います。

・そしてペテロは教会の長老たちに語ります「私は長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたに委ねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい」(5:1-2)。復活のイエスはペテロに「私の羊を飼いなさい」と命じられました(ヨハネ21:17)。ペテロはその務めを果たしてきました。世を去るに当たり、ペテロは後継の長老たちに「神の羊の群れを飼いなさい」と命じます。羊を飼うとは支配者になることではなく、仕えることです。「牧師は群れの指導者である以上に群れの献身者であれ」とペテロは語ります「委ねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになる時、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります」(5:3-4)。イエスは最後の晩餐の時に、弟子たちの足を洗い、牧会者の模範を示されました(ヨハネ13:12-15)。そして私たちに言われました「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。教会の指導者は仕えることを通して、群れを導いていきます。間違ってもボス的、カリスマ的、支配者的牧師になってはいけないと言われています。教会の中で、牧師と執事の対立により、教会分裂が起きることがあります。長老といわれる牧師や執事は、「群れの模範になりなさい」という言葉を、銘記する必要があります。

 

2.教会の若い人たちへの勧告

 

・次にペテロは教会内の若い人々に、「長老に従いなさい」と勧めます。「若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい・・・神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(5:5-6)。長老たちは信仰生活を長く続け、様々な試練を受け、彼らの中に必ず学ぶべきものがある。だから「長老に従いなさい」とペテロは語ります。そして私たちの人生にとって大切な言葉が語られます「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(5:7)。この言葉は詩編55:23からの引用です。詩編は語ります「あなたの重荷を主に委ねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」。

・イエスは言われました「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(ルカ11:9)。苦しみが与えられた時は自分一人で悩まないで、神に打ち明け、神と語り合いなさい。その時、素晴らしい世界が開けるとペテロは語ります。内村鑑三が体験した出来事もそうでした。内村はアメリカ留学から帰国後、第一高等中学校の教師になりますが、1891年1月19日、教育勅語の交付式があり、彼は教師として頭を下げましたが、それが最敬礼ではなかったとして、「不敬」だと騒がれ、辞職に追い込まれます。新聞紙上で国賊、非国民と罵られ、家に石が投げ込まれます。その心労が重なり、彼自身インフルエンザに倒れますが、その上看護をしてくれた妻加寿子も感染して急逝します。職をなくし、妻を亡くし、教会も内村を捨てました。文字通り人生のどん底に投げ込まれました。その後彼は飢えと貧困の中で職を求め、全国を転々と彷徨います。そして必死に聖書を読み、祈りました。事件から2年後の1893年、彼は、「基督信徒の慰め」を発表します。第一章は「愛する者を失った時」、第二章は「国人(日本人)に捨てられた時」です。内村は語ります「私は日本国民に捨てられた。そのことによって、私は世界市民になった」(「国人に捨てられた時」、基督信徒の慰めから)。

・やがて日本は武力で韓国を併合し (1910年)、国民の多くは、日本が欧米列強並みの強国になったと喜びました。その時に内村は語りました「国を得た、領土が増えたと喜ぶ国民がいる。他方、国を失った、領土が減ったと悲しむ国民があります。しかし、喜ぶにしろ悲しむにしろそれは一時的なことです。遅かれ早かれ両者共に主の御前に立つことになるのです。そして、自分の為したことによって裁かれます。『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。』(マルコ8:36)。もしわが国の領土が膨脹して全世界を手にしたとしても、自分の霊魂を失ったらそれが何になろうか。ああ、それが何であろうか」(「領土と霊魂」、内村鑑三所感集、岩波文庫)。内村は日本から捨てられたからこそ、日本を超える「世界」という視点を持てたのです。信仰の目からすれば、苦難は栄光の前兆です。

 

3.目を覚ましていなさい

 

・今日の招詞に第二コリント7:10を選びました。次のような言葉です。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。コリント教会はパウロによって設立されましたが、いつの間にか、人々の気持ちがパウロから離れて行きました。パウロはコリントを再訪し、話し合いの場を持ちましたが、逆に非難・中傷を浴びてエペソに戻ってきます。そのエペソから、パウロは「涙の手紙」と呼ばれる問責の手紙を書きました。手紙は現存していませんが、パウロに対して侮辱を加えた人物を、教会から除名するように求める激しさを持っていたようです。パウロは教会員を責めるような手紙を出したことを後悔し、苦しみますが、やがて手紙を見たコリントの人々が、パウロに謝罪し、悔い改めた事を知り、一転して、喜びに満たされます。その経験から生まれた言葉が、招詞の言葉です。

・厳しい叱責の手紙を書いて、あなたがたを悲しませたが、それは必要な悲しみだった。その悲しみはあなたがたに悔い改めをもたらし、悔い改めが和解の申し出となった。悲しみには、人に悔い改めを迫る「御心に適った悲しみ」と、死に至る「世の悲しみ」がある。今あなた方が経験した悲しみは「御心に適った悲しみだった」とパウロは語ります。私たちの人生の中で、失望や悲しみは、次から次へと襲ってきます。その失望や悲しみを私たちがどのように受け止めるか。それを神が与えて下さった悲しみと受け止める時、新しい道が開かれ、それを不幸なことだと嘆く時、悲しみは私たちを押しつぶしてしまいます。私たちが悲しみをどのように受け止めるかによって、悲しみの内容が変わってくるのです。

・ペテロは教会の人々に書きました「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです」(5:8-9)。悪魔はギリシャ語ディアボロス、告発者の意味です。小アジアの信徒たちは、兵役を拒否し、皇帝像を拝むことをしなかった故に、告発され、迫害されました。まさに「悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っている」、そのような世に暮らしていました。その人々にペテロは「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」と諭します。

・悪と戦うのは苦しい体験です。先に紹介した内村鑑三は、職をなくし、人々から売国奴、国賊と罵られました。しかし内村は悪と戦い続け、神に祈り続けることによって、日本人を超えた世界人になることが出来ました。ペテロは語ります「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(5:10)。信仰の目を持ってすれば、苦難は栄光の前兆です。信仰に生きる者にとって、一つの苦しみも無駄ではありません。幸福も不幸も、喜びも悲しみも、すべて働いて益となります。パウロが「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています」(ローマ8:28)と証ししたように、です。この秘訣はまさに宝物です。この宝物を得た者はどのような時にも神を賛美することが出来ます。ですからペテロは手紙の最後に「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」(5:11)と祈ることが出来るのです。

・ペテロの手紙を5回にわたって学んできました。今回は、由木康先生の「キリスト者の生き方」を参考に、ペテロ書を学んできました。この手紙を学べて良かったと思います。私たちが「キリスト者として終末の時間をどう生きるべきか」、また「日本社会の中で少数者であることの意味」等を考えることが出来ました。教会が目指すべきことは教勢の拡大ではありません。この社会の中で証し人として生きることです。それを確認できたことを感謝します。

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