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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年8月14日説教(1ペテロ3:8-18、祝福を受け継ぐ者)

投稿日:2016年8月14日 更新日:

2016年8月14日説教(1ペテロ3:8-18、祝福を受け継ぐ者)

 

1.迫害の中で苦しむ友へ

 

・今日、私たちはペテロ第一の手紙3章を読みます。この手紙の背景にはキリスト教徒への迫害があり、手紙には試練、苦しみ等の言葉が繰り返し出てきます。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1:6-7)。「火のような試練があなた方を襲う」、ローマ帝国内でキリスト教徒迫害が始まった紀元60年代にこの手紙は書かれたと見られています。「何故迫害されるのか、自分たちは何も悪いことをしていないのに」、小アジアの教会に属する人々は怖れ、困り果て、教会の中に動揺が生じていました。その彼らに、ローマにいたペテロが励ましの手紙を書きました。それがペテロの手紙です。
・ローマ帝国の支配下にあった小アジアで、回心してキリスト信徒になることは、多くの困難を伴いました。イエスは「殺すな」と言われましたので、人々はローマ帝国の兵役を拒否しました。イエスが「偶像を拝むな」と言われたので、人々はローマ皇帝の像を拝みませんでした。その結果、キリスト者たちは「非国民」、「世の秩序を乱す者」と呼ばれ、友人や仲間や親戚から排除され、共同体や国から村八分されたのです。世の人々と違う生き方をしようとしたので、信徒たちは世から憎まれたのです。

・ペテロは手紙の中で語ります「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」(3:13-14)。信仰ゆえに苦しみを受けることがあっても、「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(3:17)とペテロは言います。「あなた方もキリストに倣い、この世の苦難を喜んで生きなさい」とペテロは語るのです。世から憎まれ、疎外された時、私たちはどうするのか、ペテロは語ります。「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」(3:8)。外からの迫害に備えるためには、まず仲間内で一つになる必要があります。しかし団結して反乱を起こすのではありません。

・「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(3:9a,b)とペテロは語ります。「目には目を、歯には歯を」、やられたらやり返す、報復は自然の人情であり、この社会の常識は報復の権利を認めます。だから忠臣蔵のような復讐物語を世は好むのです。しかしイエスの福音は人間の自然感情を超える行為を私たちに命じます「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)。自然の感情ではそれは不可能です。しかしイエスはさらに難しいことを私たちに要求されます「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)。ペテロはイエスが語られた言葉を、小アジアの人々に「あなた方も主に倣いなさい」と薦めるのです。

・手紙を受け取った人々は反問するでしょう「悪に対して善を、侮辱に対して祝福をする生き方など私たちにはできません」。しかしペテロは語ります「キリストの十字架上での祈りをあなた方も聞いて知っているだろう。キリストは言われたではないか。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』(ルカ23:34)。イエスの生き方をあなた方も継承していくのだ」と。何故ならば「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召された」(3:9c)のだからと。

 

2.迫害する者のために祈れ

 

・信仰ゆえに迫害された時、ペテロは「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いるな。祝福を祈れ」と教えます。こういう生き方が人に出来るのでしょうか。歴史は出来ると教えます。その証人の一人が、非暴力・不服従を貫いたキング牧師です。彼は自分たちを迫害する者たちに語りました「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう」。キングは忍従の生き方を説いているわけではありません。

・彼は続けます「私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない・・・私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう・・・しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。そうすれば、私たちの勝利は二重の勝利となろう」(マーティン・ルーサー・キング「汝の敵を愛せよ」、新教出版社、1965年、79P)。
・キングは「私たちは苦しむ能力によって私たちは自由を勝ち取り、あなたがたの心も勝ち取る」と述べます。何故、彼はこのような希望を持てるのでしょうか。それはキリストがそうされたからです。ペテロは言います「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」(3:18)。キングはこのようにも言っています「私たちは初代キリスト教徒による非暴力的な抵抗が、ローマ帝国を震撼させるほどの巨大な道徳的攻撃力を生み出したことを知っている」。「愛は多くの罪を覆い」(4:8)、ついにはローマ帝国の悪を善に変える力を持ったのです。このことは現代でも通用するのです。

 

3.祝福を受け継ぐ生き方を示せ

 

・今日の招詞にマタイ5:11-12を選びました。次のような言葉です「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」キリスト者は世と違う価値観を持つゆえに、周囲の人からの拒否と攻撃に苦しみ、排斥と抑圧の対象になります。ペテロの時代のキリスト者は兵役を拒否し、皇帝像を拝むことを拒んだために、非国民として憎まれました。ナチス時代に生きたD.ボンヘッファーは当時のナチス政権に逆らったゆえに投獄され、処刑されました。彼は処刑の前に獄中からの書簡で語りました「今日、キリスト者であることは、ただ二つの在り方においてのみ成り立つであろう。すなわち祈ることと、人々の下で正義を行うことである」。ボンヘッファーは、信仰は単なる心の中の祈りではなく、正義を行う行為になるのだと語ります。

・ペテロは迫害の中にある信徒に「悪をもって悪に報いるな」と語りました。これは単なる忍従を説いているのではなく、「不正に加担するな」、「悪を容認するな」という意味をも含んだ言葉です。イエスはファリサイ人の偽善や祭司の不正を告発したために、憎まれ殺されました。初代教会の信徒たちは、皇帝の像を拝むことを拒否したゆえに捕らえられていきます。ボンヘッファーも世の出来事に目をつぶれば、処刑されることも無かったのです。しかし、彼らは苦しみを選び取りました。私たちがクリスチャンとしてこの世を真剣に生きようとすれば、同じような苦しみを受けるでしょう。しかしこの苦しみは無意味ではありません。何故なら、キリストが私たちに呼びかけて下さるからです「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい・・・あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。

・私たちキリスト者はこの社会の中でどのように生きるべきでしょうか。アメリカの神学者リチャード・ニーバーは「キリストと文化」という著作の中で、文化(社会)とキリスト者の在り方を五つに分類しました。第一の考え方は「文化に対するキリスト」です。この社会は悪であり、神と敵対状態の中にある、だからキリスト者は世に関わりなく生きるべきだとの考え方で、殉教した教父テルトリアヌスやロシアの文豪トルストイはこの生き方を選択しました。しかしこれでは社会からの逃避であり、聖書の語るあり方ではありません。また「文化のキリスト」という考え方もあります。教会と社会が協力しあって、共に神の国を形成していくと考え方で、19世紀の楽観的キリスト者たちはこの生き方をしました。しかし相次ぐ戦争がこの生き方は幻想に過ぎないことを示しました。ニーバーが考えるあるべき生き方は、「文化の変革者キリスト」で、この社会を良くするためにキリスト者が立てられているという考え方です。

・私たちも教会の役割は社会を変革していくことだと思います。しかし日本のキリスト者は人口の1%に過ぎず、社会を変える力は持ちません。しかし「社会に証しする力はあるはず」です。この社会の文化に対して「別の文化の在り方がある。そこにはこの社会にない素晴らしい生き方がある」ことを証ししていく生き方です。ペテロが小アジアの教会の人々に求めるのもその生き方です。「この社会ではやられたらやり返せと教える。しかしあなた方に言う“悪をもって悪に、侮辱を持って侮辱に報いるな。悪に祝福を持って立ち向かうあなた方の生き方を、社会の人に示して、キリストを証しせよ”」。社会を変革することはできなくとも、少数者ながら社会の別の在り方を提案し、そのことによって、「地の塩」として生きて行く生き方こそ、日本に置かれた私たちキリスト者の生き方ではないでしょうか。

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