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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年4月10日説教(ヨハネ黙示録4:1-11、天の玉座に神がおられる)

投稿日:2016年4月10日 更新日:

2016年4月10日説教(ヨハネ黙示録4:1-11、天の玉座に神がおられる)

 

1.何故迫害が起きるのか

 

・ヨハネ黙示録を読んでおります。ヨハネ黙示録は紀元95年頃、ローマ帝国によるキリスト信徒迫害の中で苦しむ諸教会に宛てて書かれた書簡です。当時のローマ皇帝ドミティアヌスは自分の像を帝国内の各地に立てさせ、それを神として拝むように求めました。その中でキリスト者たちは、「神以外のものを拝まない」として、皇帝礼拝を拒否し、迫害を受けました。その迫害の中にある信仰者たちに、ヨハネは、「ローマ帝国はサタンの化身であり、神はしばらくサタンが暴れるのを赦しておられるが、時が来ればサタンを滅ぼされる」と預言します。この手紙は時の支配者ローマ帝国の滅亡を預言しています(18:1「倒れた、大バビロンが倒れた」)。かなり政治的危険を伴う文書ですので、象徴的に、黙示的に記述されています。

・迫害の中にあったアジア州の教会の中で、スミルナ教会は多くの逮捕者を出しました。ヨハネはその教会に語ります「受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている・・・死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(2:10)。他方、ラオディキア教会は迫害を受けていません「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない・・・冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている」(3:15-16)と語られます。

・何故、ある教会は迫害に苦しみ、別の教会は迫害を受けないのでしょうか。それは信仰的妥協をすれば、つまり皇帝像の前に行って捧げものを捧げれば迫害は生じないからです。明治の信仰者内村鑑三は、第一高等中学校の教師でしたが、教育勅語発布式の時、勅語に対する頭の下げ方が足りないとして、天皇に対する不敬を責められ、教職を追われました。彼は教育勅語よりも大事なものに忠誠を尽くしたからです。国立市の小学校教師、佐藤美和子さんは学校の式典での国旗掲揚の時に起立せず、また音楽教師であるのに君が代の伴奏を拒否したため、処罰されました。佐藤さんの父と祖父は牧師であり、二人から、日の丸の旗と君が代の歌の下に日本が犯した数々の罪を教えられていましたので、国旗に頭を下げ、君が代を伴奏することが出来なかったのです。世の人は日本人であれば国旗や国歌に敬意を払うのは当然ではないかと批判しますが、佐藤さんは日本人である前に、自分はキリスト者だと拒否したのです。彼女は処分を不当として裁判を提起しますが(ピースリボン裁判)、地裁・高裁・最高裁でいずれも敗訴しています。

・教会は政治的な課題にどのように関わるべきなのでしょうか。バプテスト連盟では歴代首相が年頭に伊勢神宮に参拝することを、憲法20条「信教の自由」を侵すものとして、抗議声明を出しています。また安保関連法案については憲法違反として反対し、将来予想される憲法改正にも、「憲法改悪を許さない共同アクション」を作り、反対運動を行っています。私たちはこのような運動に参加すべきなのでしょうか。私個人は「個人で参加されるのは自由だが、教会としては参加しない」という立場をとります。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という視点からの判断です。しかしこのような選択肢が許されない状況、「神か皇帝か」、「キリストか天皇か」との二者択一が迫られ、信仰そのものが問われる事態になれば、話は別です。ヨハネの時代は教会と国家の緊張が極限まで達し、皇帝礼拝が強制され、拝まない者は処罰するとされていました。ヨハネ自身は信仰の妥協をしなかった故に、パトモス島に流刑されています。その彼に、天が開け、幻が示されます。それが黙示録4章です「その後、私が見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くように私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った『ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう』」(4:1)。

 

2.天が開いた

 

・ヨハネが天で見たものは、玉座に座っておられる神でした。ヨハネは記します「私は、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた・・・玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた」(4:2-3)。地上では、迫害の嵐が吹き荒れています。しかし天上では、神の周りには24人の長老が座り、四つの生き物が絶え間なく神を讃美していました。ヨハネは記します「玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老が座っていた・・・この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった・・・彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方』」(4:4-8)。

・地上世界ではローマの絶対支配の中で信仰者は苦しんでいますが、天上世界では神が支配し、神の証し人が讃美しています。「二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った『主よ、私たちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです』」(4:10-11)。

・「あなたこそ栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」とは、当時のローマ皇帝に捧げられた賞賛の言葉です。タキトゥス「年代記」によりますと、ペルシャ王ティリダテスがネロ皇帝の像へ歩み寄り、自分の王冠を脱いでそれを像の前に置いたと言われています。ローマに対する忠節を示すためです。ローマ皇帝は当時の世界の支配者であり、帝国統一のために神殿や祭壇が帝国各地に建てられ、人々は国家祭儀に参加することを求められました。為政者である皇帝を「生ける神」として礼拝することが求められ、人々は皇帝を「我らの主にして神である方」と呼びかけます(スエトニウス「ローマ皇帝列伝」)。「皇帝を生ける神として拝する」、戦前の日本人は天皇を「現人神」として拝むことを求められました。同じ光景です。黙示録の世界は現代の問題なのです。ヨハネの時代、国家祭儀への参加を拒否する者は投獄され、裁判にかけられ、場合によっては処刑されていました。その中でヨハネは語ります「主よ、私たちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方」。信仰とは「神を神とする」ことであり、「人を神とは拝まない」ことです。地上の現実がどのようであれ、支配者は皇帝ではなく主であることがヨハネに示されました。これこそがヨハネ黙示録の信仰です。

・カール・バルトは、第一次世界大戦が始まった時、人間に絶望しました。ギリシャ・ローマ以来の豊かな文化的伝統を誇る「キリスト教ヨーロッパ」が、近代科学技術の粋を集めて開発した兵器を投入して、血で血を洗う大戦争を繰り広げたからです。当時バルトはスイスの片田舎で牧師をしていましたが、この状況に直面して説教ができなくなりました。その中で、彼はひたすら光を求めて聖書を読み続けました。その彼が見出した真理は「神は神であり、人は人である」と言うことです。人は被造物にすぎず、神の全てを知ることは出来ません。だから人の目から見て絶望しかなくとも、神を信じていくことにより道は開けてくる。それが彼の見出した結論です。

・そのカール・バルトが死の直前、友人トゥルナイゼンと電話で話した内容が残されています。1968年、チェコの社会主義改革がソビエト軍の戦車によって踏みにじられた年の12月のことです。トゥルナイゼンは語りました「時代は暗いね」、バルトも「実に暗い」と答えます。しかしその後に彼は語ります「意気消沈だけはしないでおこう。何故なら支配していたもう方がおられるのだから。モスクワやワシントン、あるいは北京においてだけではない。支配していたもう方がおられる。神が支配の座についておられる。だから、私は恐れない。最も暗い瞬間にも信頼を持ち続けようではないか。希望を捨てないようにしよう。すべての人に対する、全世界に対する希望を。神は私たちを見捨てたまいはしない」。その晩、バルトは亡くなりました(エバハルト・ブッシュ「バルト神学入門」新教出版社)。20年後ベルリンの壁は崩壊し、チェコは自由を獲得しました。「神が支配の座についておられる」、それを信じる時、出来事の意味が変わってきます。

 

  1. 新しいエルサレムを見よ

 

・今日の招詞にヨハネ黙示録21:3-4を選びました。次のような言葉です「私は玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。黙示録の最終巻、終末時の光景をヨハネが聞いた言葉です。強制収容所を生き残ったV.フランクルはその記録「夜と霧」の中で書きます「信仰とは、闇の時間を、光の存在を信じながら生きることだ」。強制収容所では死んでいったのは体の弱い者ではなく、希望を無くした者だった。人を生かすものは肉体ではなく、希望だと彼は言います。ヨハネの教会は迫害の中で生き残り、迫害者ドミティアヌス帝は暗殺されて死に(紀元96年)、独裁者の死と共に迫害は終わりました。

・アウグスティヌスはローマ帝国の滅亡のさなかに「神の国」を書きました(410年)。彼は地上の王国の崩壊を神のわざと見ています。地上でどのような悲惨な出来事があっても、私たちは希望を持つことができると彼は語ります「神は人間の邪悪な生活を矯正し、抑制するため、戦争という手段を用いられ、またこのような患難を通じて、善良で賞賛に価する者を陶冶されるのである。神は彼らをこのように試みたのち、ある者をより良き世界に移し、ある者を他の優れた目的のため地上に引き留められる」。地上の出来事は全て過ぎ去ります。その中で私たちは過ぎ去らないものに眼を注ぎます「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(2コリント4:18 )。どのような闇の中でも希望を持ち続ける力をヨハネ黙示録は私たちに示すのです。

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