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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年3月6日説教(ヨハネ16:16-33、悲しみが喜びに変わる)

投稿日:2016年3月6日 更新日:

2016年3月6日説教(ヨハネ16:16-33、悲しみが喜びに変わる)

 

1.すぐ来ると言われるイエス

 

・ヨハネ福音書を読み続けています。ヨハネは13章からイエスが最後の晩餐の席上で言われた言葉を記録します。13章にはイエスが弟子たちの足を洗われた記事が、14章にはイエスがいなくなった後聖霊が与えられ、その聖霊が弟子たちを守ることが約束されます。その14章(14:31「さあ、立て。ここから出かけよう」)は18章につながり(18:1「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」)、15~17章の3章は後代の編集者の挿入部分です。なぜ編集者がこの3章を挿入したのか、16章初めの言葉がそれを示します。「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」(16:2)。ヨハネの教会はユダヤ教当局からの迫害の中にあったのです。ある者は会堂から追放され(会堂追放=アポシュナゴーゴスという言葉はヨハネ福音書独自のもの)、他の者は牢に入れられ、殉教した者さえいる。その迫害に苦しむ教会の信徒たちに、ヨハネ福音書の編集者は復活のイエスの言葉を用いて、励ましの言葉を贈ります。それを象徴的に語るのが16章最後の言葉です。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(16:33)。「私が十字架という苦難を超えて復活し、あなた方と今、共にいる。あなた方は一人ではない」とヨハネ福音書のイエスは語るのです。

・そのイエスは言われます「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなる」(16:16a)。最後の晩餐の時が終わり、この部屋を出れば、イエスを捕らえるための追っ手がそこに来るでしょう。彼らはイエスを捕え、裁判にかけ、十字架で殺すでしょう。「もうあなた方と会えなくなる」、イエスは万感の思いを込めて、お別れの言葉を弟子たちに言われました。しかし、それで終わりではありません。イエスは続けて言われます「またしばらくすると、私を見るようになる」(16:16b)。肉の自分は死ぬが、霊に復活するとイエスは言われています。弟子たちにはイエスが何を言われているのかわかりません。イエスが捕らえられ、殺されるだろうということは、彼らも感じています。だから彼らは嘆き悲しんでいるのです。でも、「しばらくすると、私を見るようになる」とはどういう意味なのか、死なれたイエスとどうしてまた会うことが出来るのか、弟子たちにはわかりません。

・だから彼らはつぶやきます「『しばらくすると、あなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう・・・『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」(16:17-18)。死んだ人が復活する、これは今まで誰も経験したことのない出来事であり、人の理解を超える出来事です。イエスは弟子たちのざわめきを聞いて言われます「『しばらくすると、あなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる』と、私が言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(16:19-20)。ここで中心になる言葉は、「しばらくすれば」です。短い文章の中に7回も用いられています。「しばらくすれば」、聖書の原語ギリシャ語では「ミクロン」という言葉が用いられています。ミクロン、1ミリの1/1000です。ほんの短い間、すぐにと言う意味です。「私は十字架で死ぬが、復活し、すぐにあなたたちと会う。別れの悲しみはすぐに再会の喜びに変わる」とイエスはここで言われているのです。

・イエスは「悲しみが喜びに変わる」ことを、女性の出産をたとえに説明されます。「女は子供を産む時、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(16:21)。出産の前、母親は子供を無事に生めるかという不安、これから来るであろう陣痛の痛みを恐れます。しかし、子供が生まれると、苦しみを忘れさせるほどの喜びに包まれます。新しい命が生まれたからです。そしてイエスは言われます「その喜びをあたながたから奪い去る者はいない」(16:22)。「この悲しみは必ず喜びに変わる。その喜びを取り去る者はいない」とイエスは断言されているのです。

 

2.その時、悲しみが喜びに

 

・イエスは言葉を繰り返されます「私は父のもとから出て世に来たが、今、世を去って父のもとに行く」(16:28)。

それを聞いて弟子たちもイエスの真意がわかりました。イエスはこれから死のうとされていることを弟子たちも理解しました。だから彼らは言います「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます」(16:29)。しかし、この信仰告白がただ頭で理解しただけの、表面的なものであったことはすぐに明らかになります。イエスは言われます「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、私を一人きりにする時が来る。いや、既に来ている」(16:32)。弟子たちの告白した信仰は、「わかりました。だから信じます」という人間的な決断であり、全身全霊をかけた信仰ではなかったのです。だから、イエスが捕らえられ、彼らの身にも危険が及んだ時、彼らは自分たちの安全を求めて、イエスを残して逃げ去っていきます。しかし、イエスは弟子たちを責められません。本当の弟子になるためには、挫折することが必要だからです。「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)という大言壮語の信仰が崩され、「私は罪人です」とひれ伏す信仰に変えられなければ、信仰は永続しえない。イエスが捕らえられた時、ペテロはイエスを三度否認し、自分の弱さを知って、外に出て泣きました。ある人は言います「この時、ペテロが流した涙こそが、バプテスマの水だった」。人は砕かれて、自分の罪に泣いて、イエスに従う者になるのです。

・イエスは、弟子たちの弱さを知って、励まされます。最後にイエスは言われました「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(16:33)。平安とは悩みのないことではありません。悩みの中でも満たされていることです。イエスを信じても、不幸や災いがなくなるわけではありません。現にヨハネの教会ではイエスを信じたばかりに迫害を受けています。イエスを信じても、病気は治らないかも知れない。苦難は襲い続けるかもしれない。悩みは依然としてあります。しかし、キリストを知る人は、悩みによって打撃を受けても、やがて立ち直り、悩みが時間と共に恵みになる経験をします。キリスト者の悩みは暫定的なのものなのです。何故ならば、十字架の悲しみが、やがて復活の喜びになることを知っているからです。

・「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。この言葉こそ、十字架で逃げ去った弟子たちを再び立ち上がらせた言葉であり、今日の私たちを再び立ち上がらせる力です。弟子たちの経験が教えるものは、説教を聞いて涙を流しても、病の癒しを見て感動しても、人はキリストの弟子にはなれないということです。自らが苦しみ、その苦しみの中に、イエスの声を聞く体験をしなければ、人に救いはありません。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5:4)。悲しんだ人だけが慰められ、苦しんだ人だけが報われるのです。

 

3.十字架の悲しみも復活の喜びに

 

・今日の招詞に詩篇126:5-6を選びました。次のような言葉です「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」。詩篇126編はバビロン捕囚という悲しい出来事からの解放を祝った詩篇です。イスラエルの民は国を滅ぼされ、自分たちが異国バビロンに捕囚になった時、自分たちの神がバビロンの神に敗けたとして嘆きました。長い捕囚の間に、彼らの将来への希望も潰えました。その悔しさを彼らは詩編137編に残しています。「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私たちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私たちを捕囚にした民が、歌を歌えと言うから、私たちを嘲る民が、楽しもうとして、『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で・・・娘バビロンよ、破壊者よ、いかに幸いなことか、お前が私たちにした仕打ちをお前に仕返す者、お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」(詩編137:1-9)。

・その彼らの目の前でバビロン帝国が滅ぼされ、新しい支配者は捕囚民解放を命令します。70年の時の流れの後で、捕囚の人々が祖国に帰り始めます。それを見た詩人は夢を見ているようだと歌います。「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。その時には、私たちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。その時には、国々も言うであろう『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と」(詩編126:1-2)。そして喜びが爆発します「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。

・十字架の悲しみは復活の喜びに変わります。瞬きの詩人と呼ばれた水野源三氏は次のような歌を残しています「三十三年前に脳性まひになった時には神様を恨みました。それがキリストの愛に触れるためだと知り、感謝と喜びに変りました」(水野源三詩集「こんな美しい朝に」から)。彼は、脳性まひにならなければキリストに出会わなかった、だから脳性まひになって良かったと言います。彼は9歳の時に赤痢に感染し、高熱が続いたために脳性まひになり、手足の自由と言葉を失いました。14歳の時、牧師の訪問を受けて聖書を読み始め、信仰が与えられます。しかし、相変わらず、動くことも言葉を発することも出来ません。主治医の指導で、目の瞬きを通して意思を伝達する手段を与えられ、詩を書き始めます。病状は変化なしです。寝たきりの状況は変らないのに、彼は生かされていることを喜び、その喜びを、人々に伝えました。彼の詩により、多くの苦難にある者が慰められました。十字架の悲しみが復活の喜びに変わったのです。この喜びを知る故に、私たちはどのような中にあっても絶望しないのです。

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