2016年2月7日説教(ヨハネ11:1-27、死はすべての終わりではない)
1.ラザロの死
・ヨハネ11章を今日は読んでいきますが、11章の主題はラザロの復活です。そこにおいては、「死と何か」、「死を超えた命があるのか」が展開されています。死で全てが終わると考える時、私たちは現在を楽しむしかありません。しかし、死は必ず来ますから、いつかの時点でそれは解決すべき問題となります。他方、地上の生が終わっても、新しい生が始まると信じる時、死を超えた人生のあり方、現在を神により生かされているとの希望を持つことが出来ます。「私たちの人生は死で終わるのか」、「それとも死を超えた永遠の命があるのか」、ヨハネ11章はそれを私たちに問いかけます。
・ラザロの物語は11章の始めから始まります。イエスはヨルダン川の向こう岸、エルサレムから遠く離れた所で、人々を教えておられましたが、そこにベタニア村のマルタ、マリアの姉妹から「兄弟ラザロが重い病気で死にそうだから、すぐに来て欲しい」との連絡がありました。イエスは用事を終えてから出発されますが、ベタニア村に着かれた時には、ラザロは既に死んで4日が経っていました。マルタはイエスが来られたと聞き、イエスを迎えに行きますが、会うなり、恨み言を言います「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(11:21)。
・もう少し早く来て下されば、兄弟の命は助かったでしょうにと、マルタは言ったのです。その言葉には、イエスがいたら治してもらえたという素朴な信仰と、死んだ以上はこの方にも何も出来ないという絶望の、双方の気持ちが混じっています。そのマルタにイエスは言われます「あなたの兄弟は復活する」。旧約聖書には「終末の時に神の審きがあり、正しい者はよみがえる」との信仰があります(ダニエル書12:2)。だから、マルタは言います「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。私たちも、親しい人が亡くなった時、その人は天に昇って、私たちを見守ってくれており、自分が死ねば、天国で再び会えると漠然と信じています。
・しかし、イエスがここで言われたのは、今、現在のよみがえりです。イエスは言われます「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:24-25)。「死んだ者を生き返らせる力を持つ者がここにいる。あなたはそれを信じるか」とイエスは言われたのです。死もまた神の支配下にあることを信じるかと問われています。マルタは応えます「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております」(11:27)。マルタはイエスの問いに真正面から向き合っていません。彼女は兄弟ラザロが、今ここでよみがえることを信じていません。誰が、死んだ者が生き返ることを信じることが出来ましょうか。そんなことは聞いたことがありません。ここに、死が私たちにとって大きな絶望として、立ちはだかります。
2.死と復活
・当時の人々は、人は死んだら「陰府」に行くと考えていました。陰府は沈黙の国、忘却の地です。死んだ人とはもう会えない。だから人が死ねば、みな泣く。私たちは死んだらどうなるのでしょうか。誰もわからない。わからないから、考えることをやめる。そして、「食べたり、飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(1コリント15:32)として、過ごします。しかし、死を考えないようにして、現在を楽しもうとしても、何の意味もありません。死は確実に訪れるからです。この人生は死で終わりなのか、それとも死を超えた命があるのか、真剣に求めるべき問いです。その中で聖書は復活を主張します。「死がすべての終わりではなく、死を超えた命がある」との主張は、聖書の根本使信です。
・パウロはコリント教会への手紙の中で述べます「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(1コリント15:14)。パウロは続けます「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(1コリント15:20-22)。パウロはこの復活信仰に活かされて生きました。
3.我は復活を信ず
・今日の招詞に、ヨハネ11:39-40を選びました。次のような言葉です「イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた」。葬儀や埋葬の時、私たちは亡くなった人をしのんで泣きます。死んだ人が、もう私たちの手の届かない世界に行ってしまったからです。しかし、イエスは「泣く必要はない」と言われました。イエスはラザロが危篤だと知らされても、すぐに動こうとはされませんでした。ラザロが死んだことを知らされた時に弟子たちに言われました「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く」(11:11)。イエスにとって死とは眠りであり、父なる神の御許に帰ることであり、悲しむべきことではなかったのです。
・しかし、マルタが泣き、その姉妹マリアもまた悲しみに打ち負かされている様を見られ、イエスは心に憤りを覚えられました。死が依然として人々を支配しているのを見て、憤られたのです。そしてマルタに言われました「墓の石を取り除きなさい」。マルタは答えます「四日も経っていますからもうにおいます」。イエスはマルタを叱責されます「もし信じるなら神の栄光が見られると言ったではないか」(11:40)。人々が石を取り除いたのを見ると、イエスは墓に向かって呼ばれました「ラザロ、出てきなさい」。死んで葬られたラザロが、手と足を布で巻かれたままの姿で出てきました。
・これは本当にあった出来事なのでしょうか。あるいは象徴的な出来事と理解すべきなのでしょうか。11章の中心的な言葉は「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(11:25-26)です。ヨハネはこの「命」にビオスではなく、「ゾーエー」という言葉を用いています。ビオスとは生物学的命、ゾーエーは人格的な命を指します。ヨハネはビオスではなく、ゾーエー、人格的な命のよみがえりを問題にしているのです。レイモンド・ブラウンという著名な注解者はこの個所を次のように翻訳します「私を信じる者は(霊的に)生きるであろう。もし彼が(身体的に)死んだとしても。そして(霊的に)生き、私を信じる者は、(霊的に)決して死ぬことはない」。
・ヨハネが強調したいのは、ラザロの肉体のよみがえりではありません。ラザロが仮によみがえっても、彼は再び死にます。ヨハネの時代、ラザロは既に亡くなっていたのでしょう。その程度のことは書くに値しない。そうではなくラザロのよみがえりを通じて、マルタとマリアが命(ゾーエー)であるキリストに出会ったことを、彼は書いたのです。ヨハネの強調点はイエスの復活なのです。イエスはヨハネ福音書が書かれた70年前に十字架で死なれましたが、しかし今、そのイエスは復活されてここにおられる。そのことをヨハネは「ラザロのよみがえり」という伝承を用いて訴えているのです。ヨハネの教会はユダヤ教からの迫害の中で、脱会者が相次ぎ、困難な状況にありましたが、復活されたイエスが共におられるという信仰によって、生き残ることが出来ました。そのヨハネ教会の信仰告白を、私たちはヨハネ福音書として読んでいるのです。
・復活信仰はキリスト教信仰の核心です。しかし復活信仰を「死人が息を吹き返す」という意味に理解した時、それは魔術になります。ヨハネがここで書いているのは魔術ではなく、あくまでも死んだイエスが今ここにおられるとの信仰です。それをヨハネは象徴的に、ラザロの復活という形で描いているのです。もし私たちが生命を生理学的な自然現象としてとらえるならば、私たちは復活を永遠に理解できないでしょう。復活の命はビオスではなくゾーエーの命なのです。
・私たちはこの地上を「生ける者の地」、あの世を「死せる者の地」と考えていますが、真実は違います。全ての人が死にますから、この地上は生物学的には、「死につつある者の地」なのです。しかし、イエスを信じる時、状況は変わります。何故ならば、イエスがよみがえったことを通して、神は死者をも生かされることが示され、私たちもまた、死んでも生きる存在に変えられる希望を持つことが許されました。イエスを信じる時、この地上が「生ける者の地、死に支配されない者の地」に変わるのです。それを信じた時、私たちは死の束縛から解放されるのです。それが「私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は死ぬことはない」の真意です。
・ディートリッヒ・ボンヘッファーは、ヒトラー暗殺計画に関与して捕えられ、1945年4月9日に処刑されて、死にました。39歳でした。最期の時、彼は同囚のペイン・ベストというイギリス人に、英国国教会のベル主教への伝言を託しました「彼にこう伝えてください。私にとってはこれが最期です。しかしそれはまた始まりです。あなたと共に、私は、あらゆる国家的な利害を超越する私たちの全世界的なキリスト者の交わりを信じています。そして私たちの勝利は確実です」(E・ベートゲ『ボンヘッファー伝』から)。イエスは弟子たちに言われました「この病気は死で終わるものではない。神の栄光が現れるためである」(11:4)。生前のボンヘッファーは説教者として有名でしたが、彼が本当に評価されたのは、死後に出された「獄中書簡集」でした。その獄中書簡集の一節が讃美歌となっています(新生讃美歌73番「善き力にわれ囲まれ」)。ボンヘッファーの肉体は死にましたが、その著作を通して、多くの人が彼に今なお出会っています。「私を信じる者は、死んでも生きる」、「この病は死で終わらず」、死を超えた命を信じる時、そこに希望が与えられます。