2016年11月6日説教(ヤコブ2:1-17、行いのない信仰を捨てよ)
1.世の価値観を教会に持ち込む人々への戒め
・今日、私たちは召天者を覚えて記念礼拝を行います。篠崎キリスト教会関係では、14名の方が対象になります。昨年から今年にかけてお二人の方の召天を迎えました。教会暦では11月1日が「諸聖人の日」(万聖節、All Saints' Day)、翌11月2日が「死者の日」(万霊節、All Soul’s Day)とされています。教会の伝統ではこの日はお墓参りの日です。そのため、キリスト教会の多くが、11月第一主日に、「死者を覚える」礼拝を持ちます。今日は又、私たちの教会の創立記念礼拝でもあります。篠崎の地の仮会堂で最初の礼拝を行ったのが1969年11月6日、会堂を建築し、教会組織にしたのが1973年11月3日です。今年は伝道開始47年、教会設立43年になります。
・この記念の日に、私たちはヤコブ書2章を読みます。ヤコブ書2章には、世の価値観を教会に持ち込む人々への戒めが語られています。当時、集会で富める者は丁重に扱われ、貧しい人は軽視されるという現実がありました。ヤコブは記します「私の兄弟たち、栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、私の足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(2:1-4)。仮に私たちの教会の礼拝中にホームレスの方が汚い服装で入って来たら、私たちは眉をひそめるでしょう。ヤコブ書の指摘は当たっています。私たちは世の価値観をそのまま教会内に持ち込んでいます。「それがキリスト者としてふさわしい行為なのか」とヤコブは問いかけます。
・ヤコブは語ります「私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた」(2:5-6a)。ヤコブは山上の説教を想起しています。そこでイエスは語られました「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる・・・しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」(ルカ6:20-24)。「貧しい者こそ約束された神の国を受け継ぐ人である」と主は言われたではないかとヤコブは語ります。他方、「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか」(2:6b-7)。それなのになぜ金持ちを優遇し、貧しい人を辱めるのか。
・イエスはルカ16章「金持ちとラザロ」の例えの中でも、金持ちに対して語られています「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、貧しいラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(ルカ16:25)。神は貧しい者の味方であるという考え方が聖書の一貫した教えです。ヤコブは続けます「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます」。(2:8-9)。「隣人を自分のように愛しなさい」という教えこそ、「最も尊い律法」だとヤコブは語ります。パウロもこの教えこそ律法の中核だと語ります「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」(ガラテヤ5:14)。
・ヤコブは追い打ちをかけるように語ります「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」(2:12-13)。パウロも語ります「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:10)。「愛は隣人に悪を行わないのに、なぜあなたは教会の中で貧しい人を辱めるのか、あなたの信仰はどこにあるのか」とヤコブは問いかけるのです。
2.行いのない信仰は死んだ信仰だ
・ヤコブは「御言葉を行う人になりなさい・・・聞くだけで終わる者になってはいけません」と私たちに命じました(1:22)。例えば、貧しい人に支援を求められ、「温まりなさい」、「十分食べなさい」と言うだけで何もしない時、それが信仰の行為といえるだろうかと彼は語ります。「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(2:14)。彼は信仰の具体化を私たちに迫ります。「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている時、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(2:15-17)。
・その時、人は言うかもしれません「行為が人を救うのではなく、人を救うのはその信仰だ」。ヤコブは答えます「よろしい、あなたの信仰を見せてみなさい」。相手は見せられない、形がないからです。ヤコブは語ります。「行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、私は行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか」(2:18-20)。
・そして彼は結論を語ります「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」(2:24)。パウロは「人は行いではなく、信仰によって義とされる」(ローマ4:24)と語ります。ヤコブの考え方はパウロと異なるのでしょうか。しかしヤコブも「行いが人を救いに導く」と語るのではありません。救われた者はどのように生活すべきかをヤコブはここで述べており、だから行いの伴わない信仰は死んでいると語るのです。
3.行いの実践例を見る
・今日の招詞にマタイ25:40を選びました。次のような言葉です「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである』」。ここでも「行い」の大事さが語られています。そしてこの章句を物語化したのが、トルストイの「靴屋のマルチン」という物語です。次のような話です「靴屋のマルチンは妻や子供に先立たれ、孤独で、生きる希望も失いかけてしまいます。周りの人との関わりも疎ましく感じられ、惰性で靴屋の仕事をしています。そんなある日、教会の神父が傷んだ革の聖書を修理してほしいと、聖書を置いていきます。マルチンは今までの辛い経験から神への不満を持っていましたが、それでも、神父が置いていった聖書をちらちらと読みはじめます。そんなある日の夜、夢の中に現れたキリストがマルチンにこう言います。『マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見ていてご覧』」。
・「次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、その親子を家に迎え、お茶と食べ物を与え、妻の形見のショールを差し出しました。まだかまだかと、キリストがおいでになるのを待っていると、おばあさんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、一緒に謝りました。そうして、一日が終りましたが、マルチンが期待していたキリストは現れませんでした」。「やっぱり、あれは夢だったのかとがっかりしているマルチンに、その夜キリストが現れて言いました『マルチン、今日私がお前のところに行ったのがわかったか』。そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました」。
・この物語は誰でも、隣人のことを気に掛けるならば、多くのことが出来ることを示しています。マザーテレサは語ります「何もしなくてもいい。そこに苦しんでいる人がいることを知るだけでいいのです」。そしてもし何かができるのであれば、「飽くことなく与え続けて下さい。しかし、残り物を与えないで下さい。痛みを感じるまでに、自分が傷つくほどに与え尽くして下さい」と語ります。私たちは隣人なしには生きていけません。だから私たちは教会に来て、そこで兄弟姉妹に出会います。その人を隣人にするか、しないかは、私たちに委ねられています。教会の外にも多くの兄弟姉妹がいます。イエスは私たちに語っておられます「あなたがその人の隣人になりなさい」(ルカ10:37)。多くの人と関りを持つことによって私たちの人生は豊かになります。「あなたの周りに、あなたからの助けを、あなたからの親切な一言を待っている実に大勢の人がいるではないか。その人たちこそ、私からのプレゼントだ。彼らと友達になりなさい。」とイエスは招いておられるのです。ヤコブが語るように、またトルストイが語るように、「私たちが愛の行いに押し出されていく時、私たちは神の国に入る」のです。