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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年11月27日説教(ヤコブ5:1-20、終りの日を待望して)

投稿日:2016年11月27日 更新日:

2016年11月27日説教(ヤコブ5:1-20、終りの日を待望して)

 

1.富んでいる者たちの罪

 

・ヤコブ書を読んでおります。今日が最終回ですが、ヤコブ書は富について繰り返し警告しています。最初の警告は1:9-11で、「神が祝福されているのは貧しい者であり、富んでいる者は祝福の外にあることを知りなさい」という言葉です。二回目の警告は2:6b-7で、「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか」と語ります。三回目が今日読みます5章の言葉です。「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたはこの終わりの時のために宝を蓄えたのでした」(5:1-3)。

・富むことは悪なのでしょうか。イエスは「金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」と言われました(マルコ10:24-26)。富そのものが悪いというよりも、富が往々にして不正な手段によって得られること、また富は人を貪欲に導きやすいことからくる警告と思われます。朽ち果てるまで富を蓄え続ける人間の罪をヤコブは告発します「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した」(5:4-6)。

・イエスは言われます「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6:20-21)。富の偏在、貧富の格差は常に人間を苦しめてきました。日本においては大量の食材が賞味期限切れとしてコンビニストアで捨てられ、それがあれば命をつなぐことが出来る人々が飢餓のために死んでいます。成長企業の役員には桁外れの報酬が支払われ、他方、派遣や請負労働者は低賃金で、ワーキングプアと呼ばれる人々は、いくら働いても生活保護以下の収入しか稼ぐことが出来ない状況にあります。これはあるべき社会の姿ではないとヤコブは告発し、私たちも同意します。

・神学者の栗林輝夫氏はそれを「富の偏在のマタイ効果」と呼びます。「今日我々が目撃しているのは、経済のグローバル化によって、『持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる』(マタイ13:2)というマタイ効果であり、一部の企業家がとてつもない報酬を得る一方、大勢の若者がワーキングプアに転落していく光景である。資本のグローバル化は生産拠点を労働力の安い地域に移動させ、それまで人々を結びつけてきた地域の文化を根こぎにし、地方の中小都市の街を軒並みシャッター・ストリートにした。かつて日本は一億総中流の経済格差のない社会であったが、今では先進国の中でアメリカに次ぐ格差社会になってしまった」(福音と世界、2014年1月号)。今回のアメリカ大統領選でトランプ候補が予想を上回って支持されたのは、貧富の格差が許容できない範囲にまで広がり、人々が「変革」を叫ぶトランプ氏に投票したためだと言われています。アメリカでは全体の富の40%が上位1%の富裕層に集中し、下流層が増加し、中間層は縮小の一途をたどっていました。ヤコブが怒る状況がいつの時代にもあるのです。

 

2.忍耐と祈りと

 

・ヤコブは金持ちに収奪され、抵抗することの出来ない貧しい人々に、「主が来られる時まで忍耐せよ」と勧めます。「主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです」(5:7-8)。これはあきらめの勧めなのでしょうか。違います。「新しい天と新しい地を待ち望む」ことこそキリスト者の希望なのです。かつて社会改革運動に入っていった多くのキリスト者たちは信仰を失って行きました。自己の力に頼り、主を待ち望まなかったからです。

・試練と忍耐の時に人はつぶやき始めます。しかし信仰者はつぶやかないし、不平も言いません。今、主に導かれてこの場に立っていることを知るからです。ヤコブは語ります「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、私たちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」(5:9-11)。

・ヤコブは「常に祈り、讃美せよ」と勧めます。祈りと讃美はキリスト者の最大の献げ物です。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい」(5:13)。また「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい・・・その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(5:14-16)。お互いのために祈り合う。なぜなら、「愛はすべてのとがを覆う」(箴言10:12)からです。ヤコブは手紙の最後で「教会から離れていった人々のためにも祈りなさい」と勧めます「私の兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」(5:19-20)。キリスト教信仰は本来的に共同体の信仰です。私たちの信仰もまた教会なしには成り立たない。だから教会を離れていった人たちが戻ってくることが出来るように、痛みを持って祈るのです。

 

3.イエスを求めて

 

・今日の招詞にマタイ7:21を選びました。次のような言葉です。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」。聞いた人々は反論します「私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」(7:22)。しかしイエスは彼らを知らないと拒絶されます「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ」(7:23)。厳しい言葉です。現代の言葉に翻訳すれば、「信徒であること、洗礼を受け、教会生活をしていることは、天の御国に行く救いの保証ではない」ということです。

・私たちの心の中に、善行を積めば天の国に入れるという考えがあります。しかし、イエスはそれを否定されます。「人が天の国に入れるかどうかは、天の父なる神の御心によるのであって、人間の業によるのではない。逆に自分の正しさ、自分の行いを拠り所に、天の国に入れるに違いないと思う時、そこに神はいない。自分の行いに拠って天の国に入ろうとする時、見つめているのは神ではなく、自分ではないか、だからあなたがたは天から締め出されるのだ」とイエスは言われます。

・若松英輔氏は著書「イエス伝」(中央公論社、2015年)の中で語ります「イエスはキリスト教徒ではない。キリスト教はイエスの没後に生まれた。歴史的にも、信仰的にも、イエスの生涯を論じるとは、キリスト教成立以前の世界を問うことになる。キリスト教の教義、あるいは神学によってだけで、イエスを把握しようとしてもおそらく成功しない」。彼は続けます「私の(信じる)イエスは教会に留まらない。むしろ、そこに行くことをためらう人のそばに寄り添っている。福音書に描かれているイエスは、神殿で人々を待ったのではない。彼の方から人々のいる所に出向いていくのである」。

・「理由は何であれ、入信することができない、あるいは祈ろうとしても祈ることができない、救われないと苦しむ人を横目に見ながら、自己の救いだけを求めるのが宗教であるならば、それは既にイエスの生涯が示していることとは著しく乖離している」。「キリスト者がイエスの霊性は今も生きている、というのなら、受洗の有無を問題にするのではなく、むしろ洗礼の彼方にも信仰が生まれうることからも目を離してはならないだろう。そうした営みは、それぞれの宗教的伝統からは容易に行いえないかもしれない。だがそれ故にこそ、その営みはまず、キリスト者に委ねられているのではないだろうか」。

・神は私たちに、「目の前に困窮と苦しみの中にいる人がいれば、その人に愛の責任を負うよう」に命じておられます。ヤコブ書が私たちに教えるのはそのことです。それにもかかわらず自己愛を超える出来事が教会に起こっていません。信仰が自己義認に留まっています。信仰によって義とされるという十字架の救いが神の側から起こっているにもかかわらず、人の側に応答の行為として現れません。私たちが「救われた」といいながら、何も生活が変わらないとしたら、私たちは救われていないかもしれない。ヤコブが語るように、「実践のない信仰は死んでいる。死んだ信仰は人を救い得ない」のです。「自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10:39)。私は命を得ているのか、御言葉を行う人になっているか、真剣に考えるべき課題がここに提出されています。

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