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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年10月9日説教(コロサイ2:6-23、忍び合い、赦し合う生活)

投稿日:2016年10月9日 更新日:

2016年10月9日説教(コロサイ2:6-23、忍び合い、赦し合う生活)

 

1.人の知恵である異端と訣別せよ

 

・コロサイ書を読み始めています。手紙の著者はパウロですが、彼はコロサイ教会を訪問したことはないようです。コロサイ教会は使徒パウロの協力者エパフロスの宣教によって立てられた教会ですが(1:7)、その教会に異端の教えが入り、「教会が誤った福音のために混乱しているので助けて欲しい」との要請をパウロはエパフラスから受け、手紙を書いています。パウロは語ります「私が、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、私とまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい」(2:1)。その戦いとは「人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。私がこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです」(2:2-4)。

・巧みな議論、人間の知恵がコロサイ教会の人々を惑わしています。そのようなものに振り回されるなとパウロは語ります。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられた通りの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。人間の言い伝えにすぎない哲学、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(2:6-8)。「人間の言い伝えにすぎない哲学」とは、救われるためにはキリストを信じる信仰だけではなく、断食や修行が必要だとの教えです。

・コロサイの一部の人々は、禁欲すれば清められる、善行を積めば天国に行ける、苦行すれば救われる、と語っていたようです。それが2:21にあります「『手をつけるな。味わうな。触れるな』などという戒律」でしょう。手を付けるな=女性に触れるな、結婚し性的な交わりを持つことを汚れと主張する人々が性的禁欲を求めたようです(コリント7:1「男は女に触れない方がよい」)。味わうな=汚れているとされる食べ物(例えば豚肉や魚貝類)を食べるなという食物禁制です。触れるな=禁じられた食物や飲み物に触れるなという意味でしょう。禁欲によって救われると考えた人々がその教えを人々に強制していたようです。人は「恵みによって救われる」と教えられても、それだけでは不安で、断食をし、苦行をし、禁欲して救いを確保したいと思います。しかし、パウロは「これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです」(2:22-23)。戒律を守ることから生まれるのは自己満足であり、それは信仰ではないとパウロは語ります。

・そして戒律主義は、守らない人を攻撃する事を通して、自分の救いを確保しようとします。例えば「安息日は守らなければいけない」と考える人は、「日曜日に子供たちの運動会のために礼拝を休む人」を見て、「あの人は不信仰だ」と裁きます。安息日=休みなさいという恵みが、他者の救いを閉ざす方に働きうるのです。カール・バルトは「教会教義学」の中で語っています「日曜日を『礼拝を守らなければいけない日』と考えた時、それは私たちを縛る日になる。日曜日を『礼拝に参加することが出来る日』と受け止めれば、私たちの人生は豊かになる。」正しい信仰は常に他者に向かって開かれていきます。だからパウロは語ります「あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません」(2:16-18)。救いは人間の行為ではなく、神の恵みなのだとパウロは語るのです。

 

2.洗礼によって新しい命に生きる

 

・このような戒律主義、戒めを守れば救われるとした教えが人々を苦しめてきました。その中でパウロは語ります「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(2:11-12)。キリストの割礼、洗礼のことです。私たちはなぜ、洗礼を受けるのでしょうか。それは私たちの心の中に私たちが支配できない闇があるからです。その闇が他者に向かう時、妬みや憎しみや怒りとなり、その闇が自己に向かう時、傲慢や絶望になります。

・「それらの罪の縄目から、キリストは私たちを解放して下さった」とパウロは宣言します。「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、私たちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました」(2:13-15)。私たちはキリストの名によって洗礼を受けます。それはキリストと共に死ぬことを意味します。そして水からあげられる、キリストと共に生きる者となります。だからキリストに根を下ろした生活、感謝して生きる生活をしなさいとパウロは語るのです。パウロはそのことを「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」と表現します(3:9-10)。

 

3.互いに忍び合い、赦し合いなさい

 

・では「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」とはどのような生き方なのでしょうか。それを知るために、今日の招詞にコロサイ3:12-13を選びました。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」。キリスト者はその行動基準を、キリストの十字架の中に見出します。パウロはコロサイ書の中で語りました「あなた方は新しく創造された、だから古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達しなさい」(3:9-10)。この世の基準である古い人を脱ぎ捨て、キリストの十字架に示された新しい人を着る時、「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません」(3:11a)となります。何故ならば「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる」(3:11b)からです。新しい基準に生きる時、この世的な差別はなくなり、異なる者の和解、キリストの平和が成立するのです。

・その私たちに、パウロは招詞の言葉を語ります。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」。新しい人を着るとは、「憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を着るということです。この意味を知るために、私たちはキリストに出会う前はどうであったか、古い人を着ていた時はどのような生き方をしていたかを知る必要があります。その古い人の生き方が3章5節以下に示されています。「かつてあなた方は、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲に生きていた」。「みだらな行い、不潔な行い」は性的不品行を指します。当時の社会では、不倫や売春はありふれていました。現代はもっとそうかもしれない。人をそのような行為に走らせるものが「情欲」です。最後の「悪い欲望、貪欲」とは、私たちに中にあるエゴイズム、自分さえ良ければ良いという罪です。かつての私たちは相手を利用することも、攻撃することも、貪ることも平気で行った。私たちは損得勘定の中でしか人間関係を生きてこなかった。だから人間関係が破たんし、苦しんできた。しかしキリストに出会ってその古い過去に死んだ。「洗礼によってキリストと共に葬られた」。そして「キリストの復活と共に新しい命をいただいた」。だから「新しい人を着よ」と命じられているのです。

・その新しい生き方を示す二つの言葉があります。赦しと愛です。パウロは言います「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(3:13)。主が赦して下さったから私たちも隣人を赦していく。その赦しが愛になった時に、私たちは新しい人を着ます。例えば古い人の時、私たちは難民の受け入れを拒否していた。自分たちの生活が脅かされるからです。しかし新しい人を着た時、私たちは難民を受け入れていく。もし自分たちがシリア難民で、戦争によってすべてを失い、家族の命と生活を守るために国を出たとすれば、救いを求めるでしょう。その時、キリストの言葉が浮かび上がってきます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。その言葉に励まされて行う行為こそが、キリスト共に生きる生活です。この新しい生き方は日々の生活の中で証しされていきます。そして私たちが変われば、社会も変わって行きます。それには時間が必要でしょう。しかし私たちは一歩一歩歩き続けます。それが「地の塩」としての、私たちの生き方です。

・聖書学者ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」という本を著しました。その中で彼は述べます「イエスが来られても社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった」。キリストにある愚者とは、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分たちには何が出来るのか、どうすれば、キリストから与えられた恵みに応えることが出来るのかを考える人たちです。この人たちによって福音が担われ、私たちにも継承されています。そして私たちは祈ります「あなたが私の罪を赦して下さったから、私も隣人の罪を赦します。あなたが私の足を洗って下さったから、私も隣人の足を洗っていきます。あなたが自分の身を裂いて私を救って下さったから、私も自分の財布を開いて隣人のためのパンを買い求めます。」

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