2016年10月30日説教(ヤコブ1:19-27、御言葉を行う人になりなさい)
1.試練と誘惑を区別しなさい
・今日からヤコブ書を読み始めます。この書は「主の兄弟ヤコブ」が書いたと言われます。彼はイエスの生前は兄であるイエスを家族ゆえに、「キリスト=救い主」であると信じることはできませんでした。しかし、復活のイエスに出会って変えられ(第一コリント15:7)、やがて弟子集団に加わり、エルサレム教会の指導者になって行きます。教会内の保守派で律法を尊重したことより「義人ヤコブ」と呼ばれました。宛先は故国を離れてローマ帝国各地に暮らす離散のユダヤ人キリスト教徒たちです(1:1「離散している12部族の人たちへ」)。内容的には手紙ではなく、教会生活の実践についての訓告集です。離散ユダヤ人たちは異郷の地で厳しい生活を送り、様々な試練が彼らを襲っていました。ヤコブは信徒たちへ「試練と誘惑を区別する」ように語ります。「試練」は神から与えられる鍛錬であり、忍耐を通して信仰を成長させていく恵みです。ヤコブは語ります「私の兄弟たち、いろいろな試練に出会う時は、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(1:2-4)。
・他方、「誘惑」は、人間の心の中から、罪の思いが起こり、それは人を破壊します。ヤコブは語ります「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(1:13-15)。試練は「ペイラスモス」という名詞形で、誘惑は「ペイラゾー」という動詞形で表現されていますが、もともとは同じ言葉です。一つの出来事が受け止め方によって、試練にも誘惑にもなるとヤコブは語ります。
・彼は誘惑の中で最大のものは地上の富だと考えています。イエスが語られたように「富のあるところにあなた方の心もある」(ルカ12:24)、人は富を持つゆえに、誘惑に陥り、罪を犯すと彼は語ります。「神が祝福されているのは貧しい者であり、富んでいる者は祝福の外にあることを知りなさい」(1:9-11)。これはイエスが教えられたことでもあります。イエスは富について語られました「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる・・・しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」(ルカ6:20-24)。
2.御言葉を行う人になりなさい
・ヤコブはまた「聞くに早く、話すに遅くありなさい」と教えます(1:19-20)。教会内で口を制することの出来ない人々のために、混乱が生じていたのでしょう。今日の教会でも、牧師や教会員の不注意な一言でつまずき、教会の礼拝に参加出来なくなる人々がいます。教会内の人間関係につまずくのは、その人の信仰が未熟なせいでもありますが、それ以上に、つまずきは隣人を天国の門から締め出し、救いを奪う出来事です。だから私たちは「聞くに早く」あることが求められます。相手の立場に立って相手の話を聞くことです。そして「話すに遅く」、自分の言い分や主張を語ることは後にせよということです。「聞くに早く、話すに遅く」、人間関係を正しくする基本です。ヤコブが語るのは、「あなた方はキリストの言葉を聞くために教会に来たのではないか。それなのになぜ他人からキリストの言葉を奪うのか」ということです。
・ヤコブは続けます「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(1:21-22)。「御言葉を行う人になりなさい」、信仰は人を行為に駆り立てます。「行為を伴わない信仰はどこかに問題を持つ」とヤコブは語ります。礼拝は神に自己を捧げる行為です。神を愛するとは隣人を愛すことであり、困っている人に手を差し出していくことです。信仰が生活化された時、それは自分に対しては聖化へ、他者に対しては救済へと向かっていきます。「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります」(1:25)。具体的には、「孤児や、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(1:27)。律法が人を救うのではありません。しかし、信仰に基づく愛は律法を完成させます。パウロが語るように「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うする」(ローマ13:10)ものなのです。
・「神の言葉があなた方を支配するようになった時、あなた方は御言葉を聴くだけでなく、実行する者になる」とヤコブは語ります。御言葉は人を愛の労苦に押し出します。私たちが礼拝を捧げても、信仰がその人を愛の労苦に導かないならば、その信仰もまた虚しいではないかとヤコブは続けます。信仰は成熟し、成長することが求められています。「言葉で傷つけられたからもう教会に来ない」、「説教がつまらないから礼拝に出ない」、そのような信仰からもう一段の成長が必要です。何故ならば、私たちは自分の意思で礼拝に来たのではなく、集められているからです。集められた者が世に派遣され、その先々で主を証する生活をしていくために、私たちは礼拝に参加します。信仰が愛として働く時、この世の生活や仕事が神の栄光を現すものになります。その力をいただくために、私たちは日曜日に集められているのです。
3.御言葉を行うとはどういうことか
・今日の招詞にヤコブ2:14を選びました。次のような言葉です「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」。イエスは私たちに言われました「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない」(マタイ10:38)。ヤコブの手紙はこのイエスの言葉を受けて書かれています。ヤコブは問題を具体化します「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている時、あなたがたのだれかが、彼らに『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(2:15-17)。口で「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言いながら、そのために何の行為もしない。「それが信仰の働きか、愛の労苦か、あなたの信仰はどこにあるのか、あるなら見せなさい」とまで彼は言います(2:18)。愛の労苦に押し出されないような信仰は死んでおり、「死んだ信仰はあなたの命を救う力はない」とさえヤコブは言います。
・現実世界の中で考えて見ます。第二次大戦中、スイスには隣国ドイツからユダヤ人難民が押し寄せてきました。ナチス政権によるユダヤ人迫害のためです。1942年には9万人のユダヤ人難民がスイスに逃れました。あまりの流入者の多さに、スイス当局者は言います「もう小さな救命ボートは満員になってしまった」。人口500万人のスイスでこれ以上の難民を受け入れることは出来ないとして、政府は難民送還政策を取ります。ドイツから逃れてきた難民をドイツに送り返し始めたのです。その結果、何が起こるかは明らかでした。難民たちは強制収容所に入れられ、命を奪われていきました。
・大半のスイス市民は傍観しました。自分の出来事ではなかったからです。その中で一部の教会が立ち上がり始めます。バーゼルの牧師ヴァルター・リュテイは説教の中で、スイス政府の難民送還政策はキリスト者に三重の罪を負わせたと糾弾しました。彼は言います「私たちスイス人は何万匹もの飼犬を飼っている。私たちがスイスでなお、自分たちのパンやスープ、肉の配給を何万匹という飼犬に進んで分かちながら、同時に数万人、あるいは数十万人の難民の人々を私たちはもはや担えないというのはキリストの愛にふさわしい行為だろうか。私たちの行為は偽善的であり、私たちは感謝を失っているのではないだろうか」(トウルナイゼン著作集第二巻解説から)。信仰の問題として、彼は難民の事柄を講壇から語ったのです。
・まさに同じ出来事が現在の世界で起きています。昨2015年、シリアやアフガンでの内戦のために1400万人の難民が生まれ、隣国トルコやパレスチナでの受け入れが限界に達し、数百万人の難民が欧州に流入しました。ドイツを中心に欧州各国は数十万人の難民を受け入れましたが、今では「限界だ」として新しい難民の受け入れを拒否しています。「彼らはかわいそうだが、私たちの暮らしも大事だ」と人々は言い始めています。一部の難民は強制送還され、リュテイ牧師が語った愛の欠如が人々の命を奪っています。他方、日本でも現在1万人を超える人が難民申請をしていますが、受け入れは年間100人前後で、申請待機している人の95%は何の保護も受けておらず、難民認定までの平均待機期間は長く、その間は就労が許されず、ホームレスになるしかない現実があります(「福音と世界」2016年7月号)。こういう問題を私たちはどう考えるべきなのでしょうか。ヤコブが語るように「口で『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』といいながら、そのために何の行為もしない」状況です。
・沖縄の問題も類似しています。2016年4月に起きた沖縄県うるま市での女性暴行殺害事件に抗議する6月19日の「県民大会」で、玉城愛さんは本土に住む日本国民を名指して、「今回の事件の第二の加害者はあなたたちだ」と涙ながらに訴えました。本土の日本人が沖縄の置かれた状況に関心を示さないから、このような事件が繰り返し起こるとの問いかけです。かつて預言者ナタンは夫ウリヤを殺してバテシバを強奪したダビデに語りました「罪を犯したのはあなただ」(サムエル記下12:7)。同じ鋭さを持つ玉城さんの言葉です。ヤコブは私たちに言うでしょう「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさいといいながら、そのために何の努力もしない。それがキリストに従う者のあり方か」と。
・神は私たちに、「目の前に困窮と苦しみの中にいる人がいれば、その人に愛の責任を負うよう」に命じておられます。ヤコブ書が私たちに与えられているのはそのためです。それにもかかわらず自己愛を超える出来事はそこに起こっていません。信仰が自己義認に留まっています。信仰によって義とされるという十字架の救いが神の側から起こっているにもかかわらず、人の側に応答の行為として現れません。このことは私たちに深刻な疑問を投げかけます。私たちが「救われた」といいながら、何も生活が変わらないとしたら、私たちは救われていないかもしれない。「実践のない信仰は死んでいる。死んだ信仰は人を救い得ない」のです。私は命を得ているのか、御言葉を行う人になっているか。真剣に考えるべき課題がここに提出されています。