2015年9月27日説教(コヘレト11:1-10、あなたのパンを水の上に投げよ)
1.あなたのパンを水の上に投げよ
・コヘレト書を読んでいます。コヘレト書には印象的な多くの言葉がありますが、その一つが今日読みます「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう」(11:1)という言葉です。これが何を意味するのか、多くの解釈があります。一つの解釈は「人生には多くの危険が待ち受けているが、その中でリスクをとって、為すべきことを為した者には多くの報いが与えられる」という理解です。英語訳聖書TEVでは「あなたのお金を海外貿易に当てよ。そうすればいつの日にか、多くの報いが与えられるであろう」と訳しています。コヘレトが尊敬するソロモン王は海外貿易で巨万の富を築いています(列王記上10:22-24)。船を危険な海に送り出して海上貿易を行うことは、難破や海賊等の危険がありますが、成功すれば巨額の利益を得ることができます。この解釈をとる人は次の2節「七人と、八人とすら、分かち合っておけ。国にどのような災いが起こるか、分かったものではない」も投資や資産の分散を教えたものと理解します。先のTEVは「投資はいくつかの地域に分けて行え、一所で何かあっても損失を最小化できる」と訳します。しかしこの理解は、あまりにも功利的であり、これまで読んできたコヘレトの考え方にはなじまない気がします。
・伝統的なラビ・ユダヤ教の解釈は「不確かな将来の中で今できる善を為せ、そして報いを楽しみに待て」というものです。内村鑑三もこの考え方をします。彼は注解の中で書きます「世に無益なることとて、パンを水の上に投げるが如きはない。水はただちにパンに沁み込みて、ひたされるパンの塊は直ちに水底に沈むのである。パンを人に与うるは良し、これを犬に投げるのも悪しからず、されどもこれを水の上に投げるに至っては無用の頂上である。しかるにコヘレトはこの無益のことを為せと人に告げ、己に諭したのである。汝のパンを水の上に投げよ、無効と知りつつ愛を行え、人に善を為してその結果を望むなかれ。物を施して感謝をさえ望むなかれ。ただ愛せよ、ただ施せよ、ただ善なれ、これ人生の至上善なり。最大幸福はここにありとコヘレトは言うたのである」(内村鑑三注解全集第五巻、p253)。
・「報酬や賞賛を求めずに善を行え」、これはイエスが言われたことでもあります。「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである」(ルカ6:34)。人は「自分を愛してくれる人を愛する」ことはできます。「自分に善くしてくれる人に善いことをする」こともできます。「返してもらうことを当てにして貸す」ことはできます。しかしイエスはそれでは不十分だといわれます。「罪人さえ同じことをする、あなたは返してもらうことを当てにしないで貸せ」と言われています。「あなたのパンを思い切って水の上に流したらどうか」と。
・これを文字通りに実行したのが、マザーテレサです。彼女は語ります「人はしばしば、不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい・・・正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい・・・心を穏やかにし、幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも幸福でいなさい。今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善を行い続けなさい。持っている一番いいものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。それでも一番いいものを分け与えなさい」。私たちも今日、コヘレトを通して、このような神の国の倫理に招かれています。
・現実世界の中で「パンを水の上に投げる」はどのようなことでしょうか。元国連難民高等弁務官・緒方貞子氏は朝日新聞のインタビューの中で語ります「難民の受け入れくらいは積極性を見いださなければ、積極的平和主義とはいえない」(2015.09.24朝日新聞朝刊)。彼女は続けます「シリアから日本を目指して逃げて来る人は少ない。だけど、(日本にたどり着いた人については)もうちょっと面倒をみてあげても良いのではないか。日本は非常に安全管理がやかましい。しかしリスクなしに良いことなんてできない。積極的平和主義とは相手のために犠牲を払うことだ」。昨年度日本は5千人の難民申請に対して11人しか難民認定を認めていません。日本には「報いを求めずに善を行う土壌がない」。とすれば、コヘレト書を学ぶ私たちが、「パンを水の上に投げよ、難民を受け入れよ、それこそが積極的平和主義ではないか」と声を上げる必要があります。
2.将来の不明に対して最大限努めよ
・11章の基本にある考え方は、「先のことはわからない」です。1-6節の短い文章の中に、「わからない」という言葉が繰り返し出てきます。「国にどのような災いが起こるか、分かったものではない」(11:2b)。「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からない」(11:5a)、「すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない」(11:5b)。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」(11:6)。人生の先行きは不明です。農作物の生育や収穫も、気候に大きく左右されます。その将来が読めない時、何らかのリスクがある時、「種蒔きはやめておこう」とか、「収穫はもう少し待とう」等のためらいを見せるなとコヘレトは語ります。将来はわからなくとも、神を信頼して、「為すべき時に為すべきことを行え」と彼は語ります。
・将来は不透明です。しかし見通せないからといって、今、何もしなければ将来に何も期待できない、今何かをすれば何かが生まれます。パウロは語ります「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(2コリント9:6)。自分の行った努力によって報われる確率は異なってきます。リスクを取らなければ収穫はないのです。先週の教会修養会で富弘美術館に行きましたが、一番印象に残った詩は「つばき」という詩でした「木は自分で動きまわることができない。神様に与えられたその場所で、精一杯枝を張り、許された高さまで、一生懸命伸びようとしている。そんな木を、私は友達のように思っている」。星野富弘氏は脊髄損傷のため自力では動くことはできない。椿も動くことはできない。しかし「置かれた場所」で精一杯生きている。今生かされている、その喜びを生きよ、その喜びを隣人と分かち合え、これこそがコヘレトが語りたいことではないでしょうか。
3.あなたの若いうちに主を覚えよ
・今日の招詞にコヘレト12:1を選びました。次のような言葉です。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」。若さは人間に意欲と体力を与えます。やがて年をとり、何も出来ない時が来ます。だから今、人生を楽しめとコヘレトは語ります「光は快く、太陽を見るのは楽しい。長生きし、喜びに満ちている時にも、暗い日々も多くあろうことを忘れないように。何が来ようとすべて空しい。若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け」(11:7-9a)。コヘレトにとって、今与えられている人生を楽しむ事こそ、神から与えられた最大の喜びです。
・やがて来る死を忘れて、享楽の日々を送るのは愚かです。しかし、義務に縛られ、労苦するだけの人生も空しい。人生は楽しむために神から与えられている、それがコヘレトの人生哲学です。そして「いつか人生を楽しめなくなる時が来る。だから今は楽しめ」とコヘレトは語ります。「知っておくがよい、神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると。心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい」(11:9b-12。だからこそ「若い日にあなたの創造者を覚えよ」とコヘレトは語ります。
・「創造主を覚える」とはどのような生き方なのでしょうか。前にご紹介した強制収容所での体験を描いた「夜と霧」の著者、精神科医フランクルは、「ロゴセラピー」という心理療法を実践しました。ロゴス(意味)によるセラピー(癒し)です。フランクルが求めているのは、「自分の欲望や願望中心の生き方」から、「人生からの呼びかけに応えていく生き方」、「意味と使命中心の生き方」への転換です。それに伴って幸福観も変わってきます。フランクルは、「幸福は求めようとすればするほど、逃げていくものだ」ということを見出しました。自分の幸福、自分の喜びを追いかけている人は、「永遠の欲求不満の状態」に陥り、結局、本当の幸福も喜びも得られなくなってしまう。 現代の私たちは、「どうすれば自分らしく生きられるだろう」と、自己実現を必死で求めていますが、自己実現の追求は、幸福の追求に似て、きりがない。どこまで行っても、満足することはない。フランクルは、他者からの、あるいは世界からの問いかけに応えようと人が無心に何かに取り組んでいる時、幸福や自己実現は自然と生じてくるものだと考えました。幸福それ自体を追い求めるのを止めて、仕事にただ夢中になって没頭したり、愛する人を心込めて愛し続けていれば、結果として、おのずと幸福は手に入ってくるものだといいます。自分のためだけではなく、「誰かのために」、「何かのために」生きる時、本当の充足が得られる。コヘレトの語る「あなたのパンを水の上に投げよ」と同じ結論です。
・「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」、私たちは生きているのではなく、生かされている。そして神は私たちが「何かをするために」生かしておられる。その意味を見いだすために「神の声を聴け」とコヘレトは語ります。コヘレト11:1から生まれた讃美歌に「報いを望まで」というものがあります(讃美歌21:566番)。次のような歌詞です「報いを望まで、人に与えよ。こは主の尊き、み旨ならずや。水の上(え)に落ちて、流れし種も、いずこの岸にか、生いたつものを」。目先の利益を求めるのではなく、また自己の利益のみを追求するのではなく、まず「神の国と神の義を求めよ。そうすれば他のものも与えられる」(マタイ6:33)。それがキリスト者の生き方だと思います。